蟷螂

武市真広

蟷螂

 

 蟷螂

 

 他人にこの話をするのは初めてだ。どうせ信じてくれないだろうし。しかしこれは本当の話だ。君が小説のネタを探しているから何か教えて欲しいと言わなければ、恐らく一生誰にも話さなかったことだろう。もう一度言っておくが、これは事実だ。本当にあったことなんだ。

 

 私の友人にFという奴がいてね。彼とは高校の頃からの親友だった。彼は眼鏡をかけていて、そこそこ顔立ちも良く、根暗な私と違って昔から明るい奴だったよ。本当に良い奴だった。大学で私と彼は同じ学部で、下宿先も同じだった。

 

 ところでコーヒーでもどうだ? ん? 紅茶がいい? ああ、そうか、君はコーヒーが嫌いだったな。少し待ってくれ。

 

 お待たせ。それでは話の続きだ。どこまで話したかな……。ああ、確か、私と彼が同じ学部で下宿も同じだったところからだな。

 もう何年も前、あれは大学三年目の夏だった。正確な日時は覚えていない。ある日の午後、彼が突然紹介したい人がいると言って私を食堂に連れ出した。私と違って彼には多くの友達がいてな。よく私に紹介してきたよ。

 食堂に行くと、Fは窓際に座っていたとても綺麗な女の人を紹介した。黒髪のロングヘアで身長の高い清楚な感じの人だった。同期生で学部は確か文学部だったと思う。あまりの綺麗さに私は少し戸惑って、Fの顔を何度か見た。Fが大抵紹介してくるのは男友達ばかり。顔立ちが良い割に不思議と思えるほど女っ気がなかった。そんな彼が大層な美人を紹介してきたのだから私は驚いたよ。しかし今にして思えば、Fの顔立ちもなかなか良かったから彼女のような綺麗な人と出会えても当然と言えば当然だな。一体Fはどこでこんな綺麗な人と出会ったのか。

 「初めまして、藤本秋子と申します」

 人見知りな私は簡略に名前と学部、自分がFと高校からの友人であることを説明した。

 

 Fは彼女は友達だと言ったが、私はその時直感的に二人が恋愛関係にあることを悟った。美男美女が同じ場所にいるのだ。そういう関係なのではないかと思うのは当たり前だろ? 私も君もどうやら恋愛とは縁遠いようだな。

 

 彼女は見た目通りに上品な人だった。何度か食事を共にしたが、動作の一つ一つに気品があった。私の質問にも嫌がる様子はなく何でも答えてくれた。趣味は読書や園芸、映画鑑賞。出身は確か岐阜の田舎の方だと言っていた。正確な場所まではわからない。地方者とは思えないほど綺麗な標準語だからまたまた驚かされた。他にも犬が好きだとか、洋食より和食が好きだとか、高校時代は羽球部に所属していたことなど色々話してくれたよ。でも流石に私も女性に対する質問には気を使った。親しい仲間間で話すような多少下劣なことでも憚られた。

 

 紹介されたその日、下宿先で私はFに二人がどうやって出会ったのか訊いた。最初Fは答え辛そうにして沈黙していたが、最後には観念して話し出した。

 何でも直接出会ったのはその前の年の冬のことらしい。ある日下宿先に帰ろうとしていたら突然雨が降り出した。折り畳みの傘を持っていた彼は別に困る訳でもなく下宿先に向かった。その道中、信号待ちをしていると傘を持っていないせいで雨に濡れる女の人を見つけた。それが彼女だったのだ。見かねたFは彼女に傘を差し出した。最初は借りられないと断っていた彼女だが、何度も申し出てくるFに流石に失礼だと思ったのだろう。傘を受け取ったそうだ。彼女がいつお返しすればいいのかと訊ね、Fは自分がK大学の学生であることを話すと彼女もまた自分がK大学の文学部の学生であることを話した。

 翌日に傘を返してもらい、Fと彼女との交流が始まった。次第に双方とも惹かれ合ったらしく、付き合い始めて三ヶ月で恋愛関係にまで発展したとFは話した。そんなことにまったく気づかなかった私も私だ。親友のことをまるで理解していないのだなとその時になって気づかされた。今までお互いのことは殆ど知り尽くしていたと思っていたのに。それがまたショックだった。どうして私に話してくれなかったのかと訊ねると、Fは困ったような顔をして、いつか話すつもりだったと言ったので、少しばかり腹が立った。

 

 当時の私も恋人を作ろうと躍起になったのだがどうも上手く行かなかった。悲しいほどに女が寄ってこなかった。まあ結果的に勉学に集中できたわけだがね。君もそうだろ? 似た者同士だからなあ。

 

 Fが初めて彼女を紹介してから三ヶ月が経ち、次第に下宿先に帰るのが遅くなっていった。ついには帰ってこなくなる日も多くなった。大学にはきちんと顔を出していたから、Fにどうしたのか訊ねると、最近は彼女の家に泊まっていると言って、下宿先にもそう説明してくれと頼まれた。下宿先の老夫婦は良い人でな。奥さんがとても料理が上手い。ご主人もご主人で教養のある紳士然とした好感のある人だった。まあ下宿先を引き受けてくれるくらいだからかなり懐の深い人たちだ。二人は帰りの遅いFをとても心配していた。

 私がそういう事情だからと説明してすると、ご主人は

 「まあ大学生くらいになれば恋愛くらいあったって当然だな」

 と理解を示してくれた。奥さんも奥さんで「無理に二人の恋仲を裂こうとは思いません」と言ってくれたので、特に厄介なことにならずに済んだ。

 

 二人は相当仲の良いカップルだったよ。見ているこっちが恥ずかしくなるくらいに。その頃から少しずつFと私の関係が疎遠になっていった。

 

 冬になり寒さも厳しくなった頃。Fが大学にも顔を見せなくなった。下宿先に帰らないことがあっても、大学を無断欠席することはなかったFが連日休むようになったのだ。あいつが学校を休むこと一週間。明らかにおかしいと思った私は何か知っているだろうと思い彼女を問いただした。

 「最近休んでいるみたいだけど、Fは風邪か?」

 彼女は少し間を置いてから静かに答えた。

 「うん。私が家で看病してるの」

 彼女は目を逸らし、表情に幾分かの翳りを含ませていた。

 彼女は嘘を吐いている。私ははっきりとそう確信した。

 

 Fの身に何かあったに違いない。

 

 彼女を尾行することにした。最初は彼女の友人から自宅の場所を聞き出そうと思ったのだが、何しろ当時の私はかなりの根暗で周囲からは少し気味悪がられていたくらいだからなかなか声がかけられなかった。それに聞き出したところでその友人が彼女に密告する可能性だってある。女性を尾行するなんて恐らく私の人生の中で最初で最後だろうな。他言するなよ、あらぬ誤解を生みたくない。

 彼女が自宅に向かって歩き出し、私は尾行を始めた。少なくとも尾行というものは難しい。すぐ後ろを歩いていてはバレてしまうし、距離を開けていては見失ってしまう。仕方ないから回り道を繰り返し、何とかバレずに彼女の家を突き止めた。

 二階建ての一軒家ーー至って普通の家だ。特に怪しいところはない。表札には藤本と書かれていた。成る程、実家暮らしかと思いつつ、さてこれからどうしたものかと思い悩むこと暫し。仕方ないから取り敢えず家のインターホンを押して、彼女が出てくるのを待った。しかし、何度押しても彼女が応答してくる様子も家から出てくる気配もない。確かに家に入ったはずなのに。

 今日はそのまま引き返そうかと思ったが、折角ここまで来たのだから何としてでもFの安否を確認してから帰ることにした。

 

 玄関に鍵がかかっていないことに気づいたのはそれからすぐのことだった。ノブに手を掛けると僅かに扉が開き、その隙間から家の中を覗き込んでみた。随分と暗かった。私が彼女を尾行した末に家を突き止めたのは時間にして言えば十七時半頃。冬のこの時間帯は日も沈み、もう暗い。他の家はもう明かりが点き始めているのに、あの家だけが真っ暗だったのだ。留守なら頷けるが、彼女は確かに家に入っていったし、玄関に鍵が掛かっていなかったから、確実に中にいるはずなのだ。現に玄関には脱ぎ捨てられたように彼女が履いていた靴があった。

 

 無論許しなく他人の家に入るなんて行為は許されるはずがない。しかし私は中に入っていった。親友のFのことがそれだけ気がかりだったのだ。正直この話を他人に語らなかったのは、話したところで信じられないということもあるが、少しばかり私の行動にも問題があると感じていたからでもある。だから頼むから、このことは他言しないでくれよ。小説の中だけだから心配ない? そうか、約束してくれよ。私の名誉にも関わることだからね。

 

 私は斯くして彼女の家の中に入った。女性の家の中に入るのが初めてであったが、そんなことに喜びやら緊張やらを感じる余裕もなく、この中に本当にFと彼女がいるのか、そればかりが気になっていた。

 真っ暗で電気の点いていない家に生気は感じられない。故に不気味で外よりも寒く感じた。あれは肌寒いと言うより背筋が凍るというような恐ろしさからくる冷たさだった。

 廊下を踏みしめる自分の足音以外は時折外を通過する車やらバイクやらのエンジン音がするくらい。家の中は静まりかえっていた。一階のリビングには誰もおらず、いよいよ二階へ向かおうと階段に一歩踏み出すと、途端に空気が重くなるのを感じた。重くなるというより嫌な感じがすると言うべきか。何やら心の底から逃げた方が良いと本能が呼びかけているように感じられた。最初この家に入ったときも言い知れぬ不気味な印象を受けたが、二階はそれ以上に恐怖が待ちかまえているような気がした。

 しかし、この先にFがいるのだ。親友であるFが。私は彼の安全を確認するまで逃げないぞ。自分は親友を見捨てるような臆病者じゃない。そう自分に言い聞かせた。

 そして一歩一歩階段を踏みしめて上がる。微かに女の啜り泣く声が聞こえてきた。段を上がる毎にその声は大きくなっていく。泣き声の主が彼女だということは明らかであった。悲痛なまでの嗚咽。恐ろしいという気持ち押しつぶされそうになるが、行くしかない。後には引けない。

 

 ついに二階に着いた。

 二階には茶色の木製の扉が三つあった。部屋は恐らく三つ。この三つのどれかに彼女とFがいる。

 まず一番手前にあった扉を開ける。誰もいない。シーツや枕、掛け布団が丁寧に整えてあるベッドが二つあることから、恐らく彼女のご両親の寝室だろう。

 真ん中の扉の前に立つと、さっきより胸の鼓動が速まっているのを感じた。この部屋に彼女とFがいると確信した。嗚咽が部屋の中から聞こえてきたからだ。

 震える心を落ち着かせるために一度深呼吸をした。しかし、心は落ち着かない。何も考えないように私は一思いに扉を開けた。

 

 部屋の中は暗闇が広がっていたが、その中に彼女の影を確かに見た。しかし、Fの気配はなかった。

 私は電気を点けようとボタンを手探りで探した。それらしいスイッチを見つけて押すと電灯が点き、暗かった部屋が照らされた。

 

 彼女はベッドの上で何かを抱き抱えて顔を伏せて泣いていた。やはりFの姿はない。

 「おい、大丈夫か?」

 私は一歩彼女の方に近づいて、そのまま石のように硬直して動けなくなってしまった。

 彼女が抱えているものが、人間の腕だということに気づいたからだ。

 血色の乏しく蒼白いそれは決して作り物などではなく、正真正銘本物の腕だった。明らかに切断されたものだったが、血は流れていなかった。切断部は包帯が巻かれており、血の赤が微かに残っていた。

 その腕がFのものだと確信したのは、腕を覆う袖がFのお気に入りの服と同じ青色だったからだ。

 私は慄然とした。同時にFはもう生きていないということを直感的に悟った。

 それから暫く私は呆然としたまま突っ立ていた。彼女は相変わらず泣き続けていた。

 「どういうことだ?」

 私は絞り出すように声を出した。か細い声が彼女の耳に届いたのかわからない。彼女はただただ泣き続けていた。

 「どういうことなんだ!?」

 私は怒鳴った。珍しく声を張り上げた。今でもどうしてあんな声が出たのかわからない。半ば無意識で怒鳴ったようなものだった。

 彼女はびくりとして、顔を上げて私の方を見た。その時のあの何とも言えない顔は今でも鮮明に覚えている。悔恨とも恐怖とも言えない何かに怯えたような顔であった。

 そして、震える声で彼女は話し始めた。

 「私は、F君を殺したの。大好きだったF君を。私は蟷螂なのよ」

 言葉の意味が理解できず、怪訝な顔をする私に彼女はそっと目を伏せた。

 さっきまで普通の人間の腕だった彼女の両腕が、いつの間にか蟷螂の鎌に変化していた。緑色のギザギザは鋸を彷彿とさせた。顔や身体は人間とあまり変わらないが、頭には蟷螂特有の細長い触角が生えていたし、背中には前翅と後翅があった。その異様な姿に私は思わずぎょっとした。

 

 想像できるか? 目の前にいる女が明らかに人間ではなく、蟷螂と同じような姿をしているのだ。特に鎌だ。鎌が特徴的だ。大きい鎌だ。家にある雑草を刈るような鎌とはまったく違う。それが両腕。君には想像できまい。しかし、これは本当に事実なんだ。確かにこの目で見たことなんだ。信じられないかもしれないが。何、信じてくれる? そうか。

 

 人間ではない。果たしてこの言葉が適切なのかはわからないが、少なくとも普通の人間ではなかった。なぜ彼女は蟷螂なのか、それはわからない。本人は自分がどうしてそんな姿で生まれてきたのか教えてくれなかったし、自分から訊こうとも思わなかった。その辺は君の想像に任せるさ。

 

 「私はF君が好きだった。F君も私が好きだと言ってくれた。初めてキスした日のことは忘れない。とても優しかった。でもF君との付き合いが長くなればなるほど、本能が私に迫ってきたの。彼を食べろと。蟷螂の雌は雄を捕食するの。でも、彼を殺すのは嫌だった。

 このままだと、私は本当に彼を殺してしまいそうだったから、私はF君に全て打ち明けて別れて欲しいと言ったの。でも、彼は頑なに断った。そのことで何度も喧嘩になった。

 彼はどんな君でも愛してるって言ってくれた。大好きな君の為なら食べられても良いって。でも私には耐えられない。私も貴方が大好きだから。彼はずっと一緒にいたいと言ってどうしても別れなかった。

 一週間前の夜、私はF君を殺して食べた。せめて苦しまないように一思いに首を切って殺した。F君を……殺したの。私、私は……」

 また泣き出してしまい、話は途切れた。

 彼女の話が本当ならFは自ら殺されることを望んでいたことになる。Fは私との友情より彼女への愛を取ったのだ。そう思うと憤りが沸き上がってきた。彼女は罪悪感を抱いている。だからこうして彼の腕を抱えて泣いているのだ。彼女が嘘を吐いているようには見えない。

 「Fの遺体はどこだ?」

 何もできなかった自分への怒りと親友である私に何一つ相談しなかったFに対する怒りで拳が震えていた。

 「隣の物置に……」

 私は部屋を出た。これ以上彼女と一緒にいれば、私は彼女を殴り殺すかもしれない。そう思ったからだ。

 

 なぜFが私に何も相談しなかったのか? 

 一番奥にある、三つ目の扉を開ける。入ってすぐ鼻を突くような臭いがした。

 真っ暗な部屋には多くの荷物が積み上げられていた。電気を点ける。部屋の真ん中に黒い箱が置いてあった。一メートル程の立方体の箱だ。異臭はその箱の中から漂っているようだった。私は箱の蓋を開けた。

 中には……言うまでもない。Fが入っていた。彼の遺体は四肢がばらばらになっていて、胴体は食い千切られぼろぼろの肉片の寄せ集めのようになっていた。中には骨となっている部分もある。

形にならない遺体の欠片の中に一つだけ白い布に包まれた異質な物体があった。それを取り出して布の結び目を解いてやる。布に覆われていたのはFの頭であった。彼の頭は綺麗に保存されていた。目は丁寧に閉じられていて、腐らないように防腐剤も施しているようだった。

 

 Fは死んでいたのだ。

 

 それから私は彼女を家を逃げるように飛び出した。もうそれ以上耐えられなかったからだ。血相を変えて下宿先に戻ると、老夫婦は心配そうにしていたが、私は部屋に閉じこもりそのまま眠ってしまった。

 これが夢なら醒めてくれと思った。きっとこれは夢なのだと。起きればまたFも彼女も何もなかったかのようにいつも通りの生活が始まる。そう思っていた。だが、これは夢ではなかった。あるいは今も私は醒めない夢の中にいるのかもしれない。

 数日後、大学の知人で彼女と同じ文学部の男から彼女が自殺したことを知った。

 両親が帰宅後、彼女が自室で首を吊っているのを見つけ、警察に通報したらしい。遺書にはFを殺したことが書かれており、警察が自宅を捜査した結果彼の遺体が発見され、事件は公の知れ渡るところとなった。新聞は恋人を食べた異常殺人として連日事件について報道し、有ること無いこと憶測を飛ばし続けた。彼女の両親はその後すぐに逃げ去るようにどこかに引っ越してしまった。結局、彼女がどうして蟷螂だったのかはわからずじまいだった。

 

 私のこの体験を誰かに打ち明けたいと思った。だが誰にも打ち明けることはなかった。最初にも話したが、君が初めてだ。

 

 どうしてFは私に話してくれなかったのだろうか? 親友だった筈なのに。もしかして私が一方的にそう思い込んでいただけなのか。いずれにしろFは蟷螂に食べられたのだ。彼の気持ちは今となってはもうわからない。

 

 さて、話はこれで終わりだ。小説の役に立ったかな? 釘を刺すようだがこれは実話だ。信じようが信じまいが君の勝手だが。何、信じてくれるのか? ありがとう。君に話して良かった。私もすっきりしたよ。

 

 どうだね、もう少しゆっくりしていっては? おや、もう帰るのかね? 早速小説を書きたいのか。タイトルはどうするつもりだ? 「蟷螂」か、そのままじゃないか。仕上がったら私にも読ませてくれよ。随分と話し込んだようだね。もう深夜だ。電車はないみたいだから、私が送ろう。遠慮することはない。私と君の付き合いじゃないか。さあさあ、行こうか。

 

 


 

 

 

 

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蟷螂 武市真広 @MiyazawaMahiro

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