クリスマスの報酬は割増で

いなばー

クリスマスの報酬は割増で

 現われたのは制服を着た女子高校生だった。

 犬上いぬがみは内心で舌打ちをする。

 女が明るく言う。


「こんにちは、今日はよろしくね!」


 鈴を転がしたような声。

 化粧気のない顔。

 肩にかかる長さの艶やかな黒髪。

 短いスカートから伸びた肉の締まった脚。

 若作りをしているようには見えない。

 本当に、十代の女のようだ。

 こいつが今日のパートナー?

 差配役の猪口いのぐちはいつも人を食ったような態度を取る。

 だが、ここまで常識外れのことをしてくるとは。

 常識……そう常識。

 犬上の住む業界にも常識はあった。

 向こう見ずな十代は足を引っぱる。

 だから今日のような難しい仕事では決して使わない。

 それが、人を殺す稼業の常識だ。

 珍しく報酬がいいと思ったらこんな裏があったとは。

 犬上の顔は自然と苦虫を噛みしめたみたいになった。

 しかし女は気にする様子なく気軽に話しかけてくる。


「思ったよりちゃんとしたカッコしてきたじゃん」


 馴れ馴れしく犬上のジャケットの襟を引っ張ってきた。

 四十手前が浮かれた繁華街を歩いて違和感のない格好。

 猪口は「そんな服、どうせあんたは持ってないだろう?」などと言って、犬上が今着ている服を送り付けてきた。

 女がわざとらしく顔をしかめる。


「でも、着こなしがダメだよ」


 勝手に犬上のマフラーを解くと、面倒くさそうな巻き方で巻きなおしてきた。


「よし、イイ男」


 犬上の胸をぽんと軽く叩いて笑顔。

 ここで犬上は、この女が美形なのだと初めて気付いた。

 だからどうしたという話だが。

 とにかくお互いの呼び方を確認するところから始めなくてはならない。


「俺は犬上だ。あんたは?」

「ゆっこだよ」


 小首を傾げて女が答える。

 犬上は嫌な気分を隠さず顔に出す。


「そんなに怒らなくても……。じゃあ優子ゆうこって呼んで。苗字で呼ぶとかえってヘンに思われるよ?」


 確かにそうかもしれない。


「分かった、優子だな」


 ため息をついてから犬上は続ける。


「まずはその格好をなんとかしろ、優子」


 制服を着た高校生と中年が並んで歩く。

 それこそ変に思われかねない。

 仕事の性質上、目立つわけにはいかなかった。


「ええ? これ、かわいくて気に入ってるんだけどなぁ」


 優子がその場でくるりと一回転する。

 チェックのスカートが軽く浮いた。


「駄目だ。警察に呼び止められでもしたらどうする?」

「エンコーって疑われたら嫌なんだ? 大丈夫、犬上クンはそんなふうには見えないから」


 などとウインク。

 女子高校生を買うような男だと思われるのは確かに不愉快だ。

 しかし犬上が危惧しているのはそこではなかった。

 今自分が身に付けているものを警察に見られるわけにはいかない。


「いいから着替えろ」

「じゃあさ、犬上クンが買ってよ、服」

「俺が?」

「そう、クリスマスプレゼント!」


 相手の返事を聞かず、優子は犬上の手を引っ張った。




 連れていかれた服屋には、ファッションにこだわっていそうな若者が大勢いた。

 犬上はこんなしゃれた店には来たことがない。少なからず戸惑う。

 一方の優子は上機嫌だ。


「ねぇねぇ、犬上クンはどんなのが好み?」

「好み?」

「そう、甘い系? 辛い系?」


 次々と服を手に取りながら優子が言う。

 犬上には質問の意図が分からなかった。


「なんの話だ?」

「なにって服に決まってるじゃん。服屋さんにいるんだし」


 そう言って、白いセーターを自分の前に垂らして見せてくる。

 すぐに別の服を。これも白いセーター。


「どっちがいい?」


 犬上にはどちらもただの白いセーターにしか見えなかった。


「俺に選ばせるな。あんたが好きなように選べ」

「ええ~? せっかくこんなかわいい女の子が好きな格好してくれるんだよ? 自分好みに仕立て上げようよ」

「子供がどんな服を着ようが知ったことか。さっさと選べ」

「言うもんだ。これでも結構、オ・ト・ナ、なんだよ?」


 流し目をしながら優子が言う。

 犬上は鼻で笑ってやる。

 本当に大人なら仕事の準備は事前に整えておくものだ。

 優子が軽く自分の足を上げる。


「じゃあさ、生足とタイツ、どっちが好き? そこだけ選んでよ」

「長ズボンにしろ」

「パンツ? 隠れてる方がむしろソソる?」

「動きやすい」

「なら却下。生足にしよう。スカートも目いっぱい短くしてやる」


 もう犬上の方は見ず、優子は自分で服を選んでいった。




 ようやく私服になった優子と街を歩く。

 クリスマスイブだ。

 通行人は揃って浮かれていた。

 陰気な犬上だけならこの人混みにうまく馴染めなかったろう。

 隣にいる浮かれた女にも少しは利用価値があったか?


「うわー、やっぱすごい人だねぇ」


 犬上の左腕に手を回している優子が声を挙げた。

 そうされると動きが制限される。

 さっきから何度もやめろと言ったが優子は聞き入れようとしない。

 と、優子が自分の腕を犬上の胸に押し付けてきた。

 そこには犬上の道具がある。


「ねぇ、犬上クンはなにを使うの?」


 目をきらきらさせて聞いてきた。


「後で見ることになる。それまで待っていろ」

「今教えてよ」


 ぐいぐいと身体を押し付けてくる。


「駄目だ。こんなところで口にできるか」


 そう応えながら、犬上は優子に対してある可能性を考えていた。

 会った時の符牒は確かに合っていた。

 しかしそれさえも、事前に本物から聞き出していれば意味はない。

 プロだからといって拷問に耐え切れるわけではなかった。

 芋づる式にならないよう、仕事仲間の情報は必要最小限しか与えられない。

 それが為にトラブルが発生することはままある。

 ……この女は、本物のパートナーなのか?

 犬上は自分の身体を倒すようにして優子を強く押してみた。


「わっ、ちょっと!」


 優子が慌てたようによろめく。

 その隙に左腕を優子の身体から引き抜く。

 そして犬上は人混みの中に紛れていった。




 ド素人だ。

 あの優子は殺しのプロでもなんでもない、ただの素人。

 だとするなら、すり替わった可能性は逆に下がった。

 本物のパートナーを始末したのが優子ではないとしても、代わりに寄こすのがあんな素人の子供なわけがない。

 歩きながら猪口に電話をする。


「事情を説明してもらおうか」


 単刀直入に用件だけ言う。


「本人に聞けばいい。さっきいた橋の真ん中でブゥたれてるはずだ」


 少しも悪びれずに猪口は言った。


「あんたは全部承知と思っていいのか?」

「ああ。知った上で、あんたならって任せたんだよ」

「面倒ばかり押し付ける」

「ベテランを頼りにしてるんだよ」


 それでおだてたつもりか?

 いい加減うんざりした犬上は一方的に通話を切った。

 優子を切り離したのは運河にかかった小さな橋の上。

 そこに戻ると優子がいた。

 十メートルほど離れたところから様子をうかがってみる。

 きょろきょろと不安げな顔で人捜しをしていた。

 恋人を待っている女の子。

 一見、そういう図だ。

 足踏みをしているのは寒いからではないだろう。

 ずっと髪を弄り続けている。

 優子は酷く焦っていた。

 このままでは犬上の仕事に同道できない。

 彼女にとって、それはまずいことのようだ。

 しかしあの女の事情なんて犬上にはどうでもよかった。

 今日もいつもどおり人を殺す。

 それだけでいい。

 ……いや、どうもそうはいかないようだ。

 今回の報酬はいつもより割増だった。

 受けた時は標的が難しい相手だからだと思ったが違うらしい。

 その割増分は、よけいな面倒事の手数料だ。

 仕事に含まれるなら仕方がない。

 深くため息をつきながら、犬上はもたれていた欄干から離れた。

 そして優子の前に立つ。

 少女はすぐにも泣き出しそうな顔をしていた。


「犬上クン?」

「ああ、行くぞ」

「バカッ!」


 優子が拳を犬上の胸にぶつける。


「バカバカッ!」


 三度目を手のひらで受ける。

 その手を引いて橋から離れた。




 騒がしいファミレスで優子と向かい合う。

 優子はアイスコーヒーをすぐに飲み干した。

 それでどうにか落ち着いたようだ。

 犬上を見つめながら口を開く。


「一番奥にあるテーブルの……小学生くらいの女の子、だよね?」


 顔を向けるようなヘマはさすがにしない。


「ああ」


 標的はクリスマスイブの夜に自分の子供と会う。

 この時にしか人前に姿を現わさない。

 子供を怖がらせたくないからと護衛も最小限。

 断ち切れない情が、標的の寿命を縮めることになる。


「ねぇ、お願いがあるんだけど」


 優子が身を乗り出してきた。

 切迫した表情で言う。


「仕事はやり遂げて。でも、ここではしないで」

「駄目だ」


 犬上は即答する。

 事前に決めた段取りを変えるわけにはいかない。


「子供の目の前でなんて……」

「一番リスクが少なく、確実なタイミングだ」

「……私も、そうなんだよ」


 うつむいて優子が言う。

 犬上が黙ったままでいると続きをこぼす。


「私があの子くらいの時だった。珍しくお父さんと二人で公園を散歩したの。いつもは怖いお父さんなのに、その日はすっごく優しかった。ジュースを買ってくれて。……いきなり大勢で襲ってきたの。金属バットで。頭の形が分からなくなるまで。私は……ジュースの缶を両手で握りしめたまま突っ立ってた」

「その時の仇が今日の標的か?」


 優子がうなずく。

 犬上は重い息を吐いた。

 情が絡むと仕事の質が下がる。

 たいていスムーズに事が進まなかった。

 不十分なまま終わるか、過剰な結果をもたらすか。

 どのみち犬上の好みではない。

 だから犬上は言った。


「あんたはもう帰れ」

「嫌」


 優子が力強く睨み付けてくる。

 犬上はいい加減腹が立っていた。


「子供の前ではするな? そんな幼稚な感傷のために、俺によけいなリスクを背負えと?」

「犬上クンならできるって、猪口さんは言ってた」

「あいつ……」


 横を向いて舌打ちをする。

 と、店の空気が変わった。

 見るまでもなく、標的が数名の部下と共に現われたのだ。

 異変を感じ取ったらしい客の何組かが席を立った。

 標的は部下を別のテーブルに座らせ、娘とは二人きりになる。

 この好機を逃す手はない。

 奴が現われた十五分後に行動開始。

 まず、このファミレスの電源が落ちる。

 そうやって監視カメラを止めておいて標的を始末する。

 そういう手筈になっていた。

 今さら変更なんてできない。

 優子が口を開く。


「代案はちゃんとあるから」

「ふん、言うだけ言ってみろ」

「停電になったら向こうは慌てて逃げ出すはずだよ?」

「そうだな」

「逃げたところを車で追いかけてやっつけるの」

「車で?」


 犬上は嫌な気分になる。

 その気分を表情から読み取ったらしい優子が微笑む。


「犬上クン、車の運転ができないってホントなんだ?」

「できないわけじゃない」

「でも下手なんだよね? だから自分では運転しないって、猪口さんが言ってた」

「あいつは……」


 ため息をついてしまう。


「今回は私が運転するから」

「あんたが?」


 せいぜい胡散臭い目で十代の女を見てやる。

 しかし向こうは平気な顔。


「心配ご無用、かなり練習したから。あ、車はもう駐車場に置いてあるよ」

「猪口の手配か?」


 にこやかに優子がうなずく。

 知らないのは自分ばかりか。

 とんだ道化にされて犬上はうめいてしまう。




 停電になる前に犬上たちは店を出た。

 情にほだされたからではない。

 この面倒な事態も、割増された報酬に含まれていると思ったからだ。

 ファミレスの駐車場には国産の四輪駆動車が停めてあった。


「さすがにハマーは無理でした」


 ぺろりと舌を出す優子。

 とにかく乗り込む。

 犬上は少し気になったことを聞いてみる。


「そもそもこの依頼はあんたがしたのか?」


 たかが十代の女には無理な金額が動いているはずだが。


「そのつもりだったんだけど、持っていったお金じゃ全然足りないって猪口さんに言われちゃった。代わりに、対立する組織が同じような依頼をしてるって教えてくれたの」

「勝手に依頼の内容を他人に漏らしたのか?」


 女子供には甘い奴だと思っていたが、あいつの倫理観はどうなっているんだ?

 犬上はひたすら頭が痛くなった。


「で、私はその依頼に横入りして代案の段取りをしてもらったんだ。犬上クンを説得できるかどうかは私次第」

「代案だけにせよ、車だったりそれなりに金がかかったはずだ」

「どうにか最初に持っていったお金で受けてくれたよ。美少女ジョシコーセーが身体張って稼いだお金なんだからね?」


 ウインクしてみせる。

 しかしその笑みには影があった。

 相応の覚悟で事に挑んでいるらしい。

 どの道、犬上はいつもどおり仕事を遂行するだけだ。

 駐車場には柄の悪い男が数人うろうろとしていた。

 当然、標的の部下だ。

 そのうちの一人が近付いてくる。

 運転席の優子が身を乗り出し、助手席の犬上の上へ跨がってきた。

 そして大胆に口付けしてくる。

 さらに舌を入れてきた。

 犬上も応じて舌を絡める。

 優子の尻に手を回し、短いスカートをめくり上げる。

 そうやって尻を撫で回す。

 柄の悪い男が地面に唾を吐いて立ち去る。


「よし、もう行った」

「ゴメン、イヤだったよね?」

「そんなことはない」

「優しいね」


 哀しい笑顔を見せた後、優子が運転席に戻る。

 四分後、ファミレスの電灯が消えた。

 中から怒号がする。

 駐車場にあった黒塗りの車が次々に発進していく。


「三台か」


 ドイツ車一台に国産車が二台。いずれも大型の乗用車だ。


「では、我等も発進!」


 優子がアクセルを踏む。

 先行する敵の車はファミレスを回り込んで側道に入っていった。

 裏口があるのだろう。

 しかし優子は後には続かず表通りを直進した。


「おい、どうする気だ?」

「大丈夫、上から監視してくれてるから」


 優子が片手でスマホを操作する。

 そして車に取り付けた。

 そのスマホから声がする。


『はぁい、ゆっこ』

「どもども、さかえさん」

「栄? あいつまで呼んだのか?」


 仕事で付き合いのある女だが、素行が悪くて犬上は好かなかった。


『犬上もいるね? あたしのゆっこに手を出したら承知しないから』

「えへへ、実は私からキスしちゃいました。あ、お尻は犬上クンの方から触ってくれたよね?」

「おい、優子」

『犬上、ロリコンの変態め! みんなに言い触らしてやる!』

「勘弁してくれ」


 あまりにも下らない会話に犬上は頭がきりきりしてくる。


「でもね、栄さんとはもっとスゴいことしたんだから」

「ああ、あいつは両方いけるんだったな」


 心底どうでもよかった。


『だからこれは無報酬だったりするんだよね』

「あんたにはプロの矜恃がないのか」


 身体を許されたくらいで無報酬なんて犬上には考えられない。

 ともあれ栄が手助けするならいくらか仕事がしやすくなる。

 犬上としては腹立たしくもあるが。


『敵さんはドローンで追跡中だから。さっき赤外線カメラで見る用のペイントも投下しといたからまず見逃さないよ』

「向こうは二手に分かれたな?」

『うん、片一方は娘さんだろうね。二台の方を追いかけてる。こっちのドイツ車が多分、ボスさん』


 犬上も同じ見立てだ。

 誰彼構わず手を出す品性のない栄だが、仕事の腕は確かだった。

 優子が栄に聞く。


「やっぱり湾岸がよさそう?」

『うーん、道が混んでてかなり速度が落ちてる今の方が……』

「ダメ、他の人を巻き込んじゃう」

「だそうだ」


 犬上の場合、無関係な人間の安全より仕事の遂行の方が重要だ。

 巻き込まないならそれに越したことはない。

 だが、それで標的を逃すことはあってはならなかった。

 今は標的の追跡がうまくいっているようだし、より確実に仕留められる場所に出るまで待ってもいいだろう。




 優子の運転に危なげなところはなかった。

 渋滞を避けつつ湾岸を目指す。

 優子がちらりと犬上を見る。


「犬上クン、最後まできっちりお願いね」

「俺はいつもどおり仕事をするだけだ」


 優子に頼まれるまでもなく標的は殺すつもりだ。

 それが今回の仕事なのだから。


「仇を殺した後もだよ? 猪口さんから聞いてない?」

「いいや、なにも」

「おかしいな……私からちゃんと頼めってことかな?」

「なんだ、言ってみろ」


 割増分の面倒事は随分と広範囲に渡るようだ。

 割に合っているのかそろそろ疑問になってきた。


「仇を殺した後、私も殺してほしいの」

「優子を殺す?」

「それで、誰にも知られないところに埋めてほしい。その分の報酬は支払われることになってるはずだよ?」

「それも割増分か……」


 犬上は歯がみする。


「私を殺す分より車の手配をする分の方が高かったのはちょっとショックだったかも」

「しょせん、一般人の自殺ほう助だからな。どうせ、埋める分はサービスだ、などと調子のいいことを言ったんだろう、猪口は」

「ご明察。ホントは処分のプロは別にいるらしいけど、私は犬上クンにお願いしたかったんだ」

「俺を知ってたみたいな言い方だな?」

「何日か、犬上クンの周りをうろうろしてたんだよ。普段は普通のおじさんだよね?」


 にやっと笑いかけてきた。

 そう言われた犬上は苦虫を噛み潰した顔になる。

 仕事が絡む相手には見せたくない姿なのだ。

 優子が楽しそうに語る。


「犬に吠えられたり、大家さんに怒られたり、ほんと、冴えない」

「うるさいな……」

「この人ならって思った。この人なら、私を優しく殺してくれるって思った」

「俺はいつでも淡々と殺すだけだ」

「でも、私は優しく殺してくれるはずだよ?」

「なんでそう思う?」

「だって、デートした仲じゃない」


 にっこりと笑みを向けてくる。

 あまりに甘い考えにうんざりした。


「単にあんたの買い物に付き合わされただけだろ?」

「でも、デートだよ。私最期のデートなんだ」

「あんたが死ぬことはない。標的は俺が殺す。あんたはきれいなままだ」

「犬上クンの仕事の邪魔はもうしないよ。私は仇が殺されるところを見届ければ満足。でもね……」


 優子の声が沈む。


「私はもう汚れちゃってる。ヘンタイどもにすっごく汚されちゃってるんだ。あ、栄さんは違うよ?」

『そりゃどうも。でもね、あたしも死ぬことないと思うよ? イヤなことは全部忘れちゃいな』

「忘れても、私が汚れちゃった事実は消えない。それも覚悟のうちだと思ってた。でも、やっぱりダメだった。汚れちゃった自分が許せない」


 若い人間にありがちな潔癖性だと犬上は思った。

 どうせそのうちけろりと忘れて結婚なり出産なりするはず。

 しかし犬上は言った。


「分かった、きっちりと殺してやる」

「ホント、ありがと!」

『おい、犬上!』


 犬上は栄の抗議を聞き流す。

 身体は汚れても、優子の心はまだきれいなままだった。

 全てを忘れて大人になるのもいいだろう。

 だが、少しでもきれいな部分がある今のうちに死ぬのもひとつの形だ。

 汚れきった犬上は、憧憬と共にそう思った。




 車が湾岸地区に入っていく。

 標的もすぐにやってくるようだ。

 待伏せにほどよい場所に車を停止させる。

 犬上が見てみると、ハンドルを握る優子の手は少し震えていた。

 その手に自分の手を重ねる。


「落ち着いてやればいい。標的の車は二台目。横っ腹にぶつけたら後は屈んでいろ。俺が声をかけた時には全部終わってる」

「う、うん……」


 優子の手のハンドルを握る力が強くなった。

 もう大丈夫だろう。

 栄の大声が飛び込んでくる。


『来たよ! 後十秒!』


 優子がアクセルを噴かす。


『八! 七! 六!』


 栄がカウントダウンしていく。


『三! ゴーだ、ゆっこ!』


 優子がクラッチをつなぐと同時に車が急発進した。

 目の前を左から右に一台目の国産車が通り過ぎる。

 次のドイツ車が視界に入った途端、大きな衝撃。

 車が止まるのを待たずに犬上は扉から飛び出す。

 懐から自動拳銃を抜く。

 スピンする標的の車が錆びたコンテナにぶち当たる。

 付近にある照明ふたつを犬上のFNハイパワーが射抜く。

 闇に包まれる。

 先行する車から急ブレーキ音。

 標的の車の前扉が開き、拳銃を持った男が転がり出てくる。

 まず一人。額を。

 敵の発砲。もうそこに犬上はいない。

 次の一人の肩を撃つ。

 拳銃を落としたところへ頸椎に一撃。

 左から複数の発砲音。

 姿が見えた順に二人始末。

 残り二人がコンテナの影に隠れる。

 犬上が標的の車の後部扉にプラスチック爆弾を仕掛ける。

 轟音と共に扉が吹っ飛ぶ。

 転がり落ちてきた男の頭蓋を撃つ。

 後部座席にいるはずの標的はまだ出てこない。

 コンテナの影に隠れていた二人が叫び声を上げながら向かってくる。

 それぞれに二発ずつ叩き込む。

 なお一人走り続ける。

 敵の銃弾が犬上の左腕をかすめた。

 落ち着いて敵の膝を撃ち抜く。

 弾倉を交換しながら倒れた敵に近寄る。

 確実に脳幹を破壊。

 その向こうから連射音。自動小銃か。

 敵の援軍が迫っていた。

 そちらに向かって指向性地雷を仕掛ける。

 起爆。凶悪な鉄球が飛散して敵を肉塊にする。

 肩に激痛。

 拳銃を二挺構えた標的が乱射しながら迫る。

 犬上は横に転がりながら敵の拳銃を指ごと弾く。

 標的はまるで顧みずに残りの一挺で走り寄る。

 それに対して動かず丁寧に応射していく。

 標的の弾が切れる。

 もう一歩踏み込めば互いの手が届く距離。

 標的が血塗れの拳を振り上げた。

 そこで標的の足から力が抜ける。

 倒れ伏して犬上の膝に顔を付けた。

 犬上が蹴り上げると仰向けになる。

 標的はもう身動きしない。

 都合八発の弾丸を浴びせてようやくだ。

 血塗れの標的を優子のいる四輪駆動車まで引きずっていく。


「おい、こいつがあんたの仇だ」

「……やってくれたんだね、犬上クン」


 そう微笑む優子の白いセーターは血で濡れていた。

 流れ弾を前から受けたか。

 外を覗いてしまったのだろう。

 屈んでいろと言ったのに。


「……ゴメンね……せっかく買ってくれた服……汚しちゃった……」

「気にするな」


 優子は肺を抉られたようだ。

 おびただしい血を口から吐いている。


「せめて……犬上クンに……」


 優子が目に涙を溜めながら手を伸ばしてきた。

 犬上はそのか細い手を握る。

 どろりとした血の感触しかしなかった。

 優子にはもう握り返す力すら残されていない。

 その胸に銃口を当てる。

 強く強く力を込めて、引き金を引いた。

 聞き慣れた発砲音が響く。




 優子の遺体は犬上自身の手で山奥に埋めた。

 それも報酬の割増分に含まれていたからだ。

 全部が終わった後、猪口と会う。

 どこにでもあるカフェのチェーン店。

 いつものように報酬を手渡しで受け取った。

 いつもより割増されてある。

 猪口が口を開く。


「いい子だったろ?」

「ああ」

「いい女になったろうな?」

「……ああ」

「あんたでも人の死を悲しむことがあるんだな?」


 犬上はその問いに応えられない。

 自分が頼んだジンジャーエールをただ眺める。

 グラスの表面に浮いた水滴が、つっとひとすじ滑り落ちた。

  

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

クリスマスの報酬は割増で いなばー @inaber

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ