第3話 駄洒落の補陀落(ふだらく)さま

1.補陀落渡海

 仏教では、遥か南方に観音菩薩様が住まう補陀落(ふだらく)という地があるという。古来、多くの修行僧がこの補陀落にたどり着かんとて、1か月分の水や食料を櫓や櫂といった動力装置のない小舟に積み込んで、大海原に旅立っていった。


 仏の導きによって必ずや補陀落にたどり着けるという強い信仰を持って挑んだ者もいれば、無理やり舟に乗せられて海に放たれた者もいたという。


 陸とて見えぬ大海原のど真ん中で、ただ1人漂流して波に揺られ続ける。この苦痛は凄まじいものである。日が経つに連れ、貴い初心はいつしか強烈な飢えと渇きにかき消され、激しい生への執着からついにその身は死して怨霊となる者も多かった。


 怨霊は、永遠に海をさまよいながら人を海の底に引きずり込む。海に生きる人々は、彼らを補陀落さまと呼んで恐れおののいた。


2. 朝の静寂を破る者


「和尚様、た、た、た、たいへんじゃあー、ガクガクガク…」


 朝の境内の静寂は突然破られた。寺男の制止も聞かず、源八はひたすら叫び続ける。先程までにぎやかだったクマゼミも声をひそめ、そこかしこの木々の間から源八に注目した。


「なんじゃ、騒々しいのう。朝のお勤めに差し障るではないか!」


 怒ってはみたものの、和尚にはこの男に何を言っても無益だという諦めがある。先日も法事の際、駄洒落を連発して浜の衆のひんしゅくを買ったばかりの男に、周りが見える訳がないのだ。


 そもそも、この強面堅物の和尚は、厳しい修行と学問に生きる人物で、駄洒落など大嫌いである。


「話は聞くから、まあ、上がりなさい。まさか、また駄洒落ではあるまいな?」


「お、お、お、和尚様。舟幽霊、舟幽霊にあった、ガクガクガク…」


 源八は、まだ歯の根が合わない。昨夜舟幽霊に遭遇して、命からがら浜にたどりつき、そのままお寺まで全速力で駆けてきたという。


「で、幽霊はどんな舟に乗っていたのかな?」


「上に箱がのっかったような小舟で、周りに4つ鳥居のようなものがあった、ガクガク…」


「ふむ、確かにそれは普通の舟ではないな。それで、その舟がお前に何をしたのだ?」


「小さな箱から声が聞こえてきた。苦しい、苦しい、出してくれと、ガク…」


「それは本当に舟幽霊か? なぜ出してやらなんだ?」


「まずこの世の者じゃねえ。俺ら漁師には、はっきり分かる。しかも、そいつは俺に、いざ、駄洒落をば競わんと言ってきおった!黙っていたら、舟がひっくり返されて…」


 和尚が呆れ顔ですっと席を立ちかけた時だった。今度は浜の網元が尋ねてきた。


「和尚、舟幽霊の供養をお願いできないか」


 この網元は、藩に苗字帯刀を許されるばかりか、殿様の参勤交代の折には海上の警護と案内を仰せつかる者である。虚言や誤認などはまず考えられぬ。


「浜の衆が何人も舟幽霊に遭遇しておるのだ…何でも、舟の中から聞いたことがない異様なお経が聞こえてきて、舟をひっくり返されるんじゃと…」


「お経じゃない、それは駄洒落じゃ!」


 源八は思わず口を挟み、そして慌てて後ずさりして黙り込んだ。


「話は分かった。今夜にでも拙僧が小舟にのり、その舟幽霊に会ってみよう。源八、ついて参れよ。駄洒落の幽霊なれば、頼れるのはお前しかおらんだろ?」


 源八はかしこまったままでかすかに頷いた。恐ろしくはあるが、人に頼られたのは生まれて初めてだったのだ。しかも、いつも周りに疎まれている得意の駄洒落が、役に立つ日がついに来ようとは。



3. 夜の海の闘い

 その夜、源八は和尚を乗せて伝馬船を漕ぎ出した。浜から二刻ほど漕いだ辺りで急に風が強くなり、小雨が降り出した。


 急に舟の自由が効かなくなり、沖合の方からは青白い光に包まれた異様な小舟が近づいて来る。源八は舟底に頭をつけ、震えながら底が空いた柄杓を握りしめている。


「なんと、いかにも舟幽霊の現れ方よ。…小さい箱がある小舟で、周りに鳥居…源八、あの舟じゃな?」


「ガクガク、ガク…」


 小舟は海面をすべるように動いて、音もなく源八と和尚様の舟に接舷した。そして箱の中にぼうっと青白い光が灯り、うめき声が聞こえてきた。不明瞭だが、苦しい、苦しいと言っているようだ。和尚は静かに箱の中の修行僧に語りかけた。


和尚「補陀落世界は、ここよりはるか南の海。南無妙法蓮華経…南無妙法蓮華経(キョウ)…」


修行僧「経(キョウ)とても 鎮められぬは 補陀落を 目指すに非ず、今日(キョウ)もさまよう」


和尚「補陀落は南の海の底(ソコ)に…」


修行僧「沈まぬ舟の 主なれば 底(ソコ)には行けず 夏の夜の夢」


和尚「…源八、この者、到底補陀落さまとは思えぬが…」


 源八は握りしめた柄杓を無造作に海に放り投げた。先程まで震え上がっていたはずのこの男は、いつの間にか落ち着き払っている。自信が彼を変えたのだ。


源八「あんた、この浜(ハマ)にハマったね?」


修行僧「ここが駄洒落の楽土ならば、ハマにハマらん」


源八「浜にはヒトデ。そのヒトデを何と見る」


修行僧「網引きの人手(ヒトデ)とみる。獲れた魚を独占する網元はヒトデなし」


源八「今宵はツキヨ」


修行僧「怨霊なれば、明るく照らされては運のツキヨ」


源八「水面の海藻(カイソウ)、浜に流れ着き」


修行僧「すぐ海にカイソウ、カワイソウ」


 源八と修行僧の駄洒落問答は、暗い海上でいつ果てるとなく延々と続いた。やがて修行僧の声は徐々に和らぎ、小さくなっていった。


 和尚は悩んだ。厳しい日々の修行に堪えながらひたすら学問に励むは、衆生を救わんがためである。


 この霊は、おそらく修行僧などではない。そして、和尚の問いかけにはなんら救われる様子がないのに、源八の駄洒落には救いがあり、今まさに成仏しょうとしているのである。この男のこの世への未練は、まさに駄洒落だったのである。


 やがて東の空が白み始めた頃、修行僧と源八の間には、互いの技量を認め合う者同志の連帯感が生まれていた。修行僧の小舟は源八と和尚の舟から少しづつ離れて行った。


修行僧「我は、俗世に駄洒落の甲斐(カイ)無くも、海には貝(カイ)ありと舟出せし者」


源八「舟にも櫂(カイ)あり。浜にも貝(カイ)あり。」


修行僧「ここは駄洒落の楽土なれば、いざハマにハマらん」


 これが修行僧の最後の言葉となり、小舟は朝の霧の中に消えていった。


4. 駄洒落の楽土へ

 和尚と源八の舟が戻ると、浜には人だかりができていた。例の修行僧の小舟が浜に打ち上げられていたのだ。


「早速ハマにハマったようですね、和尚様」


 はしゃぐ源八とは対照的に、和尚は、まだ得心がいかないのか憮然としている。


 浜の衆が小舟の上の四角い箱を開けると、修行僧の亡骸が転がっていた。皆で修行僧の和尚の寺に葬り供養した。小舟の側に転がっていた丸い石が墓石になった。


 和尚は、紀州の補陀落山寺など、補陀落渡海の記録があるすべての寺に修行僧の紹介を行った。


 1件だけ、駄洒落好きの変わり者の修行僧が行方不明になった事件の記録が残っていた。修行僧は、観音菩薩様が住まう補陀落のちょっと手前に、駄洒落の楽土があるとの夢のお告げを受け、修行?に励んでいたそうだ。僧の名前は記録されていない。


 その後、強面だった和尚は人が変わったように冗談を言うようになり、浜の衆からも慕われた。


 源八は、舟幽霊事件を解決した功により、一躍浜の衆の英雄になった。網元は源八の働きを認め、褒美に新しい舟と漁具を買い与えた。


「浜にヒトデあり。独占はヒトデなしだからのう・・・」


 勿論、冗談である。網元は元々利を貪る男ではない。駄洒落の便宜上、問答でそう言われたことを耳にしただけである。


 源八はどういう訳か大漁が続き、ついには妻を娶った。最早彼の駄洒落を嫌がる者はいない。


「ハハハ、その駄洒落も、彼の補陀落さまと闘ったものなのか?」


 どんなにつまらない駄洒落でも、必ず 好意的な反応が返ってくる。まさに、この浜は駄洒落の楽土となったのである。

 

 それから10年経った頃、ちょっとした風邪をこじらせた源八は、あっけなく帰らぬ人となった。遺言により、修行僧の墓の隣に、同じような小さな丸い石の墓が建てられた。

 

 いつしか浜の衆は、2つの丸い墓石を駄洒落の補陀落さまと呼び、繰り返しの大漁を祈願するようになったという。海を渡る風の音に紛れて駄洒落が聞こえる日は、必ず大漁だったという。


 今では和尚の寺も廃寺となり、駄洒落の補陀落さまの墓石もどこかに消えた。日向のどこかにあったという浜は、昭和の埋め立てで姿を消してしまった。


 だが、月夜に日向の沖を通る船の甲板に出ると、今日でも海を渡る風の音に紛れて、2人の駄洒落問答が聞こえてくると噂されている。

                    了

                                 


 






































 

 








 

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駄洒落怪談 海辺野夏雲 @umibeno

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