第2話 七本目の卒塔婆
八月十六日に海に漁に出ると、舟幽霊に遭遇し、海の底に引きずり込まれることがある。漁師達は皆、この日ばかりは漁に出るのを控え、一日ゆっくり家で過ごすのが習わしだ。
もし、夜の海上で舟幽霊に出会ったら、お経を唱えながら底に穴を開けた柄杓(ひしゃく)を海に投げ込むと助かることがある。舟幽霊は、一晩中穴が開いた柄杓で舟に海水を注ぎ込もうとするが、舟には水が溜まらない。朝日が差すまでひたすら耐えれば命が助かるのだ。
「しかしなあ、良蔵よ…」
もうすぐ八十歳になろうかとうわさされる、村一番の長寿の老婆は、腰をかがめて良蔵の顔を覗き込んだ。
「現世に殊更に強い思いを残した舟幽霊には、底に穴を開けた柄杓が通用しないこともある…」
「じゃあ、一体どうすればいいんだい?」
良蔵はからかうような口調で老婆に尋ねた。
(この世に舟幽霊なんかいるはずがないよ)
この男は合理的なのか、それとも信心がないのか、この手の話は信じていない。
「舟にお経を書いた卒塔婆を七本用意するのさ。舟幽霊に捕まったら、お経を唱えながら一本づつ丁寧に海に流すんだよ。それで幽霊の気が安まるのさ」
「わはは、婆さん分かったよ。それじゃあ、俺の得意の駄洒落でも書き込んだ卒塔婆を七本舟に用意しとくか」
「その世間様を舐めた考えは、いつか自分の身を滅ぼすよ。魚を分けてもらったお礼に教えてあげているんだよ」
良蔵は大得意の駄洒落を悪く言われて面白くなかったが、この老婆にはわび、さびにも通じる駄洒落の妙味など分からないのだろうと思い直し、その場を後にしょうとした。
「いいかい、八月十六日の地獄の窯の蓋が開く日だけは、絶対に漁に出てはいけないよ。うちのじいさんは、漁に出たその日からずっと帰って来ないんだよ」
「分かった、分かったよ。婆さん、ありがとうよ」
良蔵はそそくさとその場を離れ、家に帰って酒を飲んだ。
その年の七月に老婆が亡くなった。良蔵は、身寄りがない老婆にいつも漁で獲れた魚をおすそ分けしていたので、まるで身内の死のように悲しかった。良蔵も身寄りがなく、ずっと一人なのである。
八月十六日のことである。老婆という重しをなくした良蔵は、この日に漁に出ることにした。何しろ、漁場に誰もいないので、やり放題、魚獲り放題なのである。
十六日の朝まだ暗い内から、良蔵は伝馬船を漕ぎ出した。漁場まで手漕ぎで半刻もかからないし、岸も見えるから安心だ。
漁場に着くと、案の定誰もいない。良蔵は海底に岩礁がある一番の特等席を占領し、海に網を投げ入れた。網を引き揚げようとすると、ずっしりとした手ごたえが伝わって来て、やがて魚であふれんばかりに膨らんだ網が現れた。二投、三投、四投と、網を投げ入れる度に魚の大群を手にしていると、あっという間に小さな舟の上は足の踏み場もないほどの魚で埋め尽くされた。
お昼を回った頃、良蔵はさすがにここが限界とみて漁をやめ、帰途についた。ところが、舟を漕いでも漕いでも、魚の重みでなかなか前に進めない。
やがて、辺りは急速に薄暗くなってきて、静かな波の音が大きく聞こえるようになってきた。
(そんな馬鹿な、先ほど昼を過ぎたばかりのはず…)
良蔵は大汗をかきながら必死に舟を漕ぎ続けた。ようやく少しづつ進み始めた時、すでに海上は真っ暗になり、月はおろか星ひとつない闇に包まれてしまった。
やがて、前方に松明の灯りがポツンと見えた。
(仲間の舟か? 助かった。少し魚をのっけさせてもらおう)
良蔵は必死に漕いで松明の掲げた舟に接近した。
…ところが、である。近づいてみると松明の舟には人影がなく、ただ炎が燃えているだけだ。良蔵は舟を漕ぐ手を止めてその場で硬直した。
(舟幽霊?…)
不吉な予感で全身が凍りつく。その時、松明の舟からは青白く光る無数の丸い球(たま)が海に零れ落ちた。そして海に浮かぶ球から細く青白い人の手がにゅーと伸び、良蔵の舟は林立する人の手に取り囲まれた。手は何かをつかもうとうごめいている。良蔵は頭を抱えるようにして舟底に這いつくばったきり、声を出すことも動くこともできなくなった。
「柄杓(ひしゃく)貸してくれ~。柄杓貸してくれ~。寒い~苦しい~」
暗い海中から舟底を揺さぶるような男の声、女の声が響いてくる。
(柄杓…柄杓…)
良蔵は魚を掻き分けて底に穴を開けた柄杓を探し出し、海に放り投げた。一つの青白い手が柄杓を拾ったが、すぐに放り投げた。
良蔵はもう生きた心地がなく、お経を唱え始めた。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ」
しかし、普段信心がない良蔵はお経を知らず、いいかげんな「なんまんだぶ」を繰り返すだけだ。海中から聞こえて来る声は、次第に大きく、次第に恐ろしげに響いてくる。
(も、も、もうだめだ)
その時、良蔵は七本の卒塔婆のことを思い出した。婆さんに言われて舟にのっけてはいたものの、なまけで何も書いていない。良蔵は駄洒落を口にしながら、一本一本、卒塔婆を海に投げ入れていった。
「ガクガクガク…海(ウミ)は俺らの生み(ウミ)の親、仲良くしましょう」
ポチャン。
さすがに駄洒落の良蔵である。これまでいくつもの修羅場を咄嗟の駄洒落で切り抜けてきた?だけあり、この究極の場面においても頭に駄洒落が閃くのである。
「柄杓貸してくれ~」
「ガクガクガク…地獄の窯の蓋が開く日、魚(サカナ)を獲って霊を逆撫(サカナ)で」ポチャン。
「苦しい~、苦しい~」
「ガクガク…磯(イソ)に着いたら忙(イソ)がしい」ポチャン。
「………」
「ガク…霊(レイ)に駄洒落は例(レイ)がない。」ポチャン。
「………」
良蔵が駄洒落を言って卒塔婆を海に投げ入れる度に、海の底から聞こえる声は少しづつ小さくなり、やがては何も聞こえなくなった。
(うけなかった?、いや、怒った?、いや、静まったのか?)
良蔵は、助かったと思った。しかし、である。どういう訳か、最後の七本目の駄洒落がどうしても思い浮かばない。卒塔婆を手に持ったまま、良蔵は硬直してしまった。その内、海の底からざわざわと音が響いてきた。
(まずい、まずい、何とかしなければ…)
焦れば焦るほど気が動転するばかりだ。
その時、海の底から年を取った男の声が響いてきた。
「お前は、駄洒落の良蔵か?」
良蔵はただただ何度も大きく頷く。
「婆さんが世話になったな…」
そう聞こえた直後、良蔵が手に持った卒塔婆に、「南無妙法蓮華経」の文字がぼうっと浮かびあがった。咄嗟に良蔵は卒塔婆を海にそっと浮かべ、そのまま気を失った。
どのくらい時間が経っただろうか。目を覚ますと、良蔵は漁村の近くの夕方の海を漂っていた。舟には魚も柄杓も卒塔婆も何もなかった。
良蔵は、この日の出来事を誰にも語らなかったが、生涯老婆の墓参りを欠かすことはなかった。漁村の名前は、記録にない。
了
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