その3(下校から帰宅まで)
起きたときにはすでに放課後であり、薫が迎えに来ていた。
「いやー、楽しかったなあ。あの後料理してね、珍味だったよ。やっぱり大人は刺身にして食べるに限るなぁ。酢漬けもいいけどね」
大人をいかに食べるべきかという薫の意見を聞き流していると、廻は思い出した。今日は歩の誕生日だ。朝思い出しかけた大事なことはそれであったのだ。いつも寄り添ってくれるあゆねえの誕生を祝うことはもはや義務とでもいえるだろう。
「ごめん、買い物あるから先帰っててくれる?」
廻の頼みを薫は素直に受け取らない。
「おっ、買い物かぁ。付き合うよ? 何買うの?」
「ケーキ、あゆねえが誕生日だから」
「へぇー、あゆねえの誕生日ねぇ。そういや、最近会ってなかったな。一緒にお祝いさせてよ」
嫌だった。せっかくの神聖な日に余計な闖入者が現れるのは。今日は自分と歩のための日なのだ。いままで誕生日を忘れていたが、思い出したからには他者には絶対に手を出せない神性を帯びる。
「ごめん……、今日は二人で祝いたいから……」
勇気を出して、断る。
「そっかー、あゆねえによろしくね」
背中をポンッと叩かれただけで、あっけなく薫は解放してくれた。暖簾に腕押しした気分のまま、デパートに行く。歩の誕生日にはチーズケーキがいいだろう。彼女の大好物だ。
ケーキを持って家の戸をくぐると、珍しく歩の靴があった。先に帰っていたのだろうか。もしかしたら、誕生日会を期待して早めに仕事を切り上げたのかもしれない。
「ただいま、あゆねえ」
ところが、おかえりの声がない。唯一の生きる希望ともいってよい歩の声が。
「あゆねえ、あゆねえ、どこいるの?」
悪い予感がして鳥肌が立つ。震える手で、居間への扉を開ける。
粘液に包まれた肉団子のようなものが転がっていた。歩が大人になりつつあるのだ。
通常、大人になるには成人になってからだが、ホルモン異常で前触れなく突然若いうちに大人になってしまう者も稀ではない。不運なことに、歩はその内に入っていた。
大人になるにあたっての、一番目の身体の変化は粘液の分泌だ。全身の皮膚細胞から粘液が絶え間なく出て、身体を覆い、やがてそれ自身に血管が通り粘膜組織となる。歩の身体はすでに半透明の粘液に覆われていた。脊髄の自己消化も始まっているようだ。頭蓋骨は消化酵素によりふにゃふにゃになり、顔は歩の面影を失っていた。不要になった眼球は外側に押し出され、かろうじてつながっている視神経によりぶらぶらと揺れている。巨大な眼球なきあとの眼孔は萎んで穴を塞ぎつつある。毛根細胞が死んだため、廻が好きだった長い髪は頭から離れ、ミミズのように粘液に吸収されていく。顎と首と頬と肩は癒着しつつあり、ダルマのように頭部と胸部の境目はなくなっていく。口は、デフォルメされた蛸の唇のように突起状に伸び始めていた。先端は内側が裏返しとなり、赤い肉が見える。やがて硬化して消化管となるのだ。鼻も膨張しつつあった。すでに鼻の穴はげんこつ二つ分ほどの大きさとなり、二つの穴を区分けている肉はもうすぐ千切れそうだ。鼻の穴のなかには、汚染物質をこし取るための細かな触手が生えているのが分かる。体内で肺の位置が動いているのか、元は首だったあたりの肉が定期的に動いている。大人になりきれば、肺は表面筋肉の近くに来て肺胞が透けて見えるのだという。もっとも、不透明な粘膜組織により覆い尽くされてしまえば外からは見えなくなる。
四肢は酵素により切断されていた。まるで独立した生物のように血行良く綺麗な皮膚で粘液のなかを浮いている。人が大人になったとき、まっさきに食べるのが自分の手足だ。自分の手足を食べることが大人になるためのイニシエーションなのである。退化した脚の間から、排泄管が伸びていた。見た目は消化管と同じようなものだ。排泄物で自身を汚染しないように、粘膜組織を貫き、だらりと床に横たえる。下腹部と胸部が一体化するにつれて、邪魔になった腹部の肉は蛇腹状に畳まれていく。扇子のように肉がだぶついた腹からは皮膚が破け、白い筋肉組織が見える。破かれた腹からは大人にとって最も大事であろう器官が生えてくる。卵巣と精巣だ。ふやけたティッシュのような白い精巣の上に、皺のある茶色い葡萄の実のような卵巣が乗っている。二つの器官からは輸卵管と輸精管が絡み合うように伸びている。
「あゆねえ……」
語りかけるのが無駄なことは分かっている。すでに歩の脳は自己消化された。大人の唯一の目的は繁殖することであるため、脳は必要ない。変態のための栄養源として真っ先に跡形もなく消化される。
電話をしなければいけなかった。大人は固着形態をとり、放っておくと粘液が固定化して剥がすのも一苦労となる。現代では、家で大人を飼うものは伝統文化に奉じる一部の民族しか残っていない。どこの国においても、いまや大人は牧場である〈成人ホーム〉で専門家のあつい支援の下で管理される。このことは法律にも書いてある固い決まりだ。昔は近所同士で親や姉の精子や卵子を交換し合い、受精をさせ子を作っていたのだが、〈成人ホーム〉では〈婚活ギルド〉の調査を基に可能な限り遺伝資源を有効に活用する生殖が推進されている。管理が十分でない〈成人ホーム〉からは稀に幼児が脱走し、自然の中で大人まで生き残ることがある。そのような、国家の管理を抜けた生殖で生まれた人間は〈非正規〉と呼ばれ、殺戮の対象となる。
なぜ、大人にならなければいけないのか? 幼いときから廻は歩に聞いてきた。その答えは、赤ちゃんを作らなきゃいけないからというものだった。廻が成長するにつれ、答えはより精緻なものとなっていった。人間をはじめとするすべての脊椎動物は、生殖形態である大人と大人の援助をする子どもに形態が分かれる。子どもは大人が安心して出産できるまで食料を与え、受精できる環境を整える。なんで、子どもを作るのにわざわざ大人にならなければいけないのか聞く廻に、歩は進化の話をした。魚、蛙、トカゲ、鳥、人間など、すべての脊椎動物の先祖は、ホヤという小さな海生動物を起源にしている。遊泳形態と固着形態に分かれるホヤの性質が人間にも受け継がれたことは自然なことだ。また、進化的に見ても合理性がある。子を産んだ後の親は遺伝子の受け継ぎに寄与しなくなるため、すべてのエネルギーを出産に向ける固着形態に変態するのは無駄をなくそうとする理のある進化だ。
廻が呆然としながら眺めているうちに。歩の変態は完了してきた。全身を覆う粘膜組織が固形化し、プラスチックほどの強度になるにつれ白い半透明な色になっていく。今度は組織に毛細血管が通り、蟹のような赤い色合いとなっていく。いまや、歩は赤い殻を持った一メートルほどの貝とでも形容するのがふさわしい存在になっていた。ただし、穴が三つ空いている。摂食穴と呼吸穴と排泄穴だ。摂食穴からは消化管が現れ、周囲を手探りで動き回る。その先端には十字の穴が空いており、ひくひくと不定期に痙攣する。やがて、切断された自らの腕を見つけると、穴を広げてかぶりつく。口のなかには、びっしりとやすりのような細かな歯が生えているのが見える。呼吸穴からはやわらかな不定形の器官が顔を見せる。スポンジ状の呼吸補助器官であり、野球ボールサイズからサッカーボールサイズまで収縮を繰り返し、体内に酸素を行き届かせる。排泄穴からはすでに小さな丸い糞が出ていた。周囲には甘く饐えた臭いが漂う。進化的にはすでに遺物となった機能だ。人間の先祖である霊長類はこの臭いを利用して昆虫や小動物を誘い込み、餌としていたのだ。
やっと、廻は重い腰を上げ、電話を取った。〈成人ホーム〉の大人化対応センターへと連絡する。
対応チームがすぐに来るという。専門家ならば、大人になった歩を床から外して〈成人ホーム〉へと収容させることができるだろう。家の修復のための資金が必要になるだろうが。
電話では、変態後にはカロリーが必要になるため餌を与えてくれと言っていた。廻は震える手でチーズケーキの箱を開く。あゆねえの大好物を、粘液にまみれた大人の隣に置く。消化管はすぐに反応した。十字の穴を大きく広げ、ケーキを崩しながら吸い込むように口にする。歩はケーキを食べるときにはナイフを使って器用にひとかけらも残さずに食べたものだが、大人になった彼女はケーキのなかに管を突っ込み、スポンジとチーズをぐちゃぐちゃにして乱暴に口に入れる。彼女にはもう好きな食べ物はないのだ。すべての食べ物は、ひとつの目的である生殖のためのエネルギー源であり、栄養素とカロリーのみが問題なのだ。
反射的にケーキを食べる歩を見ながら、廻はあらためて思う。
大人になりたくないなあ、と。
大人になりたくない 草野原々 @The_Yog_Yog
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