鍵と薄い硝子

跳世ひつじ

鍵と薄い硝子

 赤い雨が止み、奇妙な病が人知れず蔓延り、終息し、オルガはこころ穏やかな日常に回帰しつつある。そう遠くない過去の日に重きを置くことがばかばかしくなった。同じよう、先に考えをめぐらせることも。なにもかも。そうすれば、鈍麻するかとも思った。そうはならなかった。時たま訪れる鮮やかな時間の価値は低くなりつつあると感じる。赤い雨の錆びの名残り、ざらつきも洗い流されようとしている。ショーウィンドウを、柄の長いモップといくらかの清浄な水で、そうしたように。

 かちゃん、と軽い音で、ほとんどかけたことのない鍵をかけたのも、そんな前向きなこころのためだった。

 《人形店》の新しい絨毯に、緑色はやめた。くすんだ橙色に、乳白色の大輪の花がたくさん(ほんとうにたくさん)描かれた、毛足の短くしっかりとしたものを選んだ。びろうど張の円椅子には、金色の房のついた、生成りの布をかけた。房が時折足に遊んで、こそばゆいその感覚があるたびオルガはひっそりと微笑む。生活。《槌地区》にいつのまにか新しく出来たパイの店が好きになり、《お砂糖三杯》から足が遠のいた。アネモネの、あの朗らかな胸のことを思い出しながらも、彼女の顔はもうわからない。寒くなり、暖かさが必要だった。オルガの肉体は自ずとぬくもる術を覚えた。足りていた。だから、鍵をかけた。

 マシューのところへ顔を出し、すっかりなじみになったドミノの代筆を頼まれてきた帰り道。ホーンの街は少しだけいつもと違う風に飾り付けられていた。ほとんどまばらな装飾は、ぽつぽつと場違いにしあわせな空気を醸していて、オルガは首を傾げる。それから、教会の前を通りがかったときに、ふとその行事を知った。ホーンに数多あふれる宗教のうちひとつの、たいせつな日が近いのだという。そのときはふうん、と思っただけだったが、ふと金髪のうつくしいひとのことがこころに浮かび、オルガはさざめきたつ欲望を胸に感じた。

「マリア」

 そして、おかしくなる。

 鍵のかかった《人形店》の扉……意図してそうして、意図して忘れた。それがこんなことを契機に思い出すなんて、と笑った。みすぼらしい木のクルスをかけた裸の胸の痛ましさが欲しくなる。ふうっと息を止めて、オルガはむずむずとする心臓のあたりに手を当てた。歩きながら、少しだけ街並みにあの繊細な金色の頭がないか、探してしまう。

(訪ねようか? マリアを)

 空を見上げれば、未だ黄昏は浅い。彼は眠っているだろうか。それとも、もうどこかへ出かけてしまったろうか。あの、窓の無い小さな、家とも呼べない家のなか。饐えたにおいのする薄ぺらな寝台で、引き締まった躰に似つかわしくない脆弱な魂を抱きしめているだろうか。彼を抱きしめてあげたい。マリアを。マリアの弱々しさを。

 くるりと踵を返す。《螺旋地区》へと向かいかけていた足を、マリアの隠れ家のほうへと向ける。

《指輪地区》にほど近い彼の隠れ家へ。



 軋む木戸を開けたとき、淀んだ空気が内から漂い出でて、オルガは瞬いた。

 暗い室内に、たしかにマリアの気配があった。結局、あれから真っ直ぐには彼の住まいに向かわず、そこらを冷やかしたり、猫の眼広場で買い食いをしたり……会いに行くと決めてから、すでに彼に約束をしたような気持ちで、その想像上の待ち合わせ時間を、ずいぶん過ぎて、と思って、ひどく嗜虐的な空想をしてしまった自分がおもしろくなっていた。

 実際のところは、彼とどんな約束を交わしたわけでもない。マリアはひとりで、ずっと、ひとりで、この部屋にいたはずだ。

「……オルガ?」

 ひどくかすれた声がした。幾晩も泣き過ごしたような声だった。そのむごさに、オルガはちょっと驚いて、小走りに狭い室内の、彼の寝台へと近寄った。跪き、掛布に丸まった彼を覗き込む。

「マリア。どうかしたの? なんだかひどく……」

 おるが、とマリアはくちびるをうごめかせた。ひび割れて、色褪せたくちびるだった。とても体調が悪そうな顔をしていた。顔は汗か涙かのあとがついて、頬は乾燥していた。碧い眼は充血し、長い睫毛に目やにが固まっている。オルガは立ち上がり、すこしうろついたあとに、水桶が空になっているのをみつけた。いったん外へでて、汲み置きの水を桶にうつす。ランプで熱してお湯をつくる。マリアのかすかな泣き声を背中に聞いていた。

 不潔な布巾を外で洗い、きつくしぼろうとした。オルガはしぼるのがとても苦手で、うまくできなかった。それをお湯にひたして、熱くて取り出せない、と思って水を足した。もう一度へたくそにしぼって、ぬるま湯の垂れる布をもって、マリアにそっと近寄る。ずっとオルガを追っていた彼の、うつくしい顔を拭く。マリアはされるがまま、涙をこぼしながら目をつむっていた。歪んだ表情のもとのうつくしさを、オルガはなんとか取り戻そうとした。病的な隈と青白さはそのままだったが、オルガが擦ったせいで、少しだけ頬が赤い。目許も。

「マリア、いったいどうしたの? 病気なの?」

 オルガは焦っていた。

 マリアは泣いていた。

「ちがうんだ……オルガ、会いたかった」

 掛布のなかから、よろめく羽虫のような不安定な揺れをともなってマリアの腕が伸ばされた。オルガのうなじをふるえながら掴み、引き寄せる。オルガはマリアの額に額をつけて、とても近いところから、赤く充血した彼の眸をのぞいた。そこに淀むのは、オルガに会いたかったと言った彼の、希望がかなえられた安堵ではなかった。不安が未だ、重くうずくまっていた。オルガは目をすがめた。

「ほんとうに会いたかった?」

 そう聞くと、マリアの眸が揺れた。しきりにまばたきをする。睫毛が睫毛に触れた。

「俺、おかしいんだ。仕事ができない。気持ち悪くて、きもち、悪くて」

 唇をわななかせながら、マリアはまた泣きそうに顔をゆがめた。

 薄い涙の膜が張るのを見ながら、オルガは思い立って彼の掛布を取り去った。

 暴かれて、マリアが自らをきつく掻き抱く。見ないでくれというその仕草が、オルガは少しだけ気に入らない。

「ねえ、僕はどうしたのか聞いているの」

 マリアが、オルガに縋った。両腕で、頭を彼の汗ばんだ胸に引き寄せられる。なにも身に着けていない彼の、不潔な膚に触れてオルガは、そっとそのにおいを吸い込んだ。胸にクルスが張りついている。マリアはなんて無防備なんだろう。どうしてオルガに縋るのだろう。なにも説明しないままに、そんなことが許されると、どうして思えるのだろう。

 彼はなんて、無垢なのだろう。

 痛いほど抱きしめる彼の腕を、そっと叩く。慰めるように。そうすると、腕は少しだけゆるんだ。オルガは顔を上げて、自由になった腕を振り上げ――。

「っ」

 マリアの頬を思い切り叩いた。高く音が鳴り、驚いたように目を丸くする。涙がぱっと散って、オルガはその様子を綺麗だと思った。

「貴方はどうして……僕のことを抱きしめられるの?」

「オルガ、俺は、おかしくて……」

「おかしいなら抱きしめていいの? 僕の聞いていることに答えもしないで」

 頬を膨らませると、マリアがきょとんとした。恥じ入るように目を伏せて、再び涙を浮かべる。

「おかしいんだよ、ほんとうに。……子どもがいるんだ」

 え、と聞き返すと、もう一度抱きしめられてしまった。

 子どもがいるんだ。

 呆然としながら、彼の言葉を反芻する。

 子どもがいるんだ、とマリアは言った、オルガはだらりと下げた手を、そっと彼の背中に回す。ぴったりと抱き着いても、彼の真っ直ぐでぎこちないほどの躰のどこにも、膨らみはない。傷痕のでこぼこを指でなぞりながら、オルガは彼の言うことを考えた。マリアははじめは静かに、それからはげしく泣きじゃくりはじめた。ふしぎなことに、オルガは笑いだしたい気持ちだった。

(これはいったいどういうことなのだろう)

(へんだ)

 ぽん、ぽん、とマリアの背中を叩いてやると。マリアが途切れ途切れに言葉を漏らす。

「へんなんだ……体調がずっと悪くて、仕事ができなくて……」

「気持ち悪くて……」

「聖夜が近い、から……」

「それで……ロンにも合わせる顔がなくて……」

「子どもがいるんだって気がついたんだ」

 どうしてそれほど突拍子もないことを、と噴き出す寸前だった。真面目くさった顔を作って、オルガはそっと背中から手を離し、マリアの両頬を包む。そして、彼のくちびるにやわらかくくちびるを合わせた。愛しいと思ったから。

「マリア……かわいそうに。ひとりでつらかったね」

「オルガ、が、鍵をかけたから、俺はもうだめだって……おまえを、もう、許せないんだ……」

 許せないと言いながらも、マリアの眸は、魂は、オルガを欲してあわれなほどふるえている。

 なお両頬を包んだまま、オルガは目を細めた。

「僕が許せないの」

 マリアが怯える。

「ちが……ちがう、んだ。俺がもう、許されないんだって、思っ……」

 オルガはぱっと手を放し、寝台から降りた。

 そして、傾いだ木の卓に放置されていた、壜をつかんだ。マリアが息を詰めて身を強張らせる気配がした。

「そう」

 ぎゅっと握る。振り返り、振り抜く。重い音がした。この程度では割れない、厚い硝子……それはショーウィンドウよりもずっと頑丈だった。マリアが破ることのできなかったショーウィンドウよりも。

「いっ……」

 マリアの頭がぐらりと揺れて、一瞬碧い眸が焦点を失う。

 マリアが寝台に力なく倒れる。オルガはもう一度振り上げた。彼の腹に振り下ろす。マリアが身じろいでよけようとする。虫が身をくねらせるようだった。鈍く、重い、やはり重い手ごたえがある。

「子どもなんていないでしょう。どうして貴方は、貴方は、そんなに弱いの」

 肉を打ち据える感覚に、オルガの手も痺れた。もう一度振り下ろす。やわらかに痺れた手の先の壜が、マリアのふくらはぎにかすり、寝台の木枠に叩きつけられた。

 派手な音を立てて、壜が割れる。手元に残った壜の首の、ぎざぎざに尖った硝子を見ながら、オルガは沸きたつ頭の熱さにくらくらしていた。躰の底からそのすがたを露わにする、凶暴な欲と、マリアへの苛立ち、愛おしさ……すべて綯交ぜになって、息が荒くなる。

「やめて、オルガ、痛い、から。ばかなことを言った、から」

 マリアはそれでも逃げなかった。彼の躰は弱ってはいない。汚れているだけだ。弱いのはこころだった。子どもなんていやしないのだ。ばかばかしい彼の言葉に、オルガは自分も彼に会いたかったのだということを認めた。

 裸の胸にクルス。

 壜を棄てて、それを掴む。

「子どもなんて。簡単に、おかしくなれる貴方は、きっと、僕のことなんてどうだっていいんでしょう。すぐに、そうやって、おかしいからって、許せないなんて、言って……!」

 マリアが、先ほどまでは見せなかった、たしかな抵抗を見せた。ふるえる手でオルガの手をつかみ、首を振る。

「だめだ」

 ほんとうの拒絶だった。マリアが冷静になってしまった。オルガは裏切られた気持ちだった。

「どうしてだめなの。貴方はどうして、そんなに勝手なの?」

 無意識のまま言葉がこぼれおちる。

「貴方じゃない、マリアだ」

 マリアがそう言ったとき、オルガは傷ついた。

 その思いのままに、クルスを吊っていた革紐を、引き千切った。

「ああ……!」

 マリアが悲鳴のような声を上げる。どんな痛みでも与えられなかった傷をいま与えたと思った。まだ足りなかったのだと思い知らされた。彼の過去を知ってなお触れなかったオルガのなま優しいこころが、彼を充たさなかったのだ。こうしなければならなかったのだ。そうだ、とオルガは目の覚めるような気持ちだった。

「僕が貴方の子になってあげる。僕が貴方のどんなものにもなってあげる。貴方の死んじゃったお母さんのかわりにもなってあげる。貴方にはもうなにも残されていなくて、とてもかわいそうだからだよ。ねえ、神さまを返してほしい?」

 木のクルスを軋むほど握り締めて、オルガは歯を食いしばりながらそう言った。

 マリアは痛ましく切れたくちびるを開きかけ、閉じた。どんな言葉も見当たらないようだった。頬が腫れていた。

 一方でオルガは叫び出しそうだった。ぐっと、醜い棘の生えた、ひどく暴力的な感情を呑みこむ。代わりに浮かび上がったのは、燃えかすのような、己への憐憫だった。

「貴方の愛なんて、貴方の愛なんて、そんなものを産み落として……どうするの、マリア……」

 マリアが、ひっくと肩を揺らす。オルガも、鼻の頭がつんとして、ぐす、とへんな音が喉の奥から漏れた。泣くのだ、と思った。泣きたいなんてすこしも思わないのに。ぐす、ぐす、と鼻をすする。

「僕と、神さまと、どちらが大切なの」

 ばかげていた。あまりにも愚かだった。しかし聞かずにはいられなかった。視界の端にぎざぎざの壜の首をとらえながら、オルガはぼろりと涙をこぼした。あれをつかんで、マリアの裸を引き裂いてしまいたい。死ぬよりすこしまえで、彼を救ってしまいたい。そして永遠に《人形店》の鍵を閉ざして、彼を拒んでしまいたい。そんなことは耐え難い。きっとマリアにも、オルガにも。

 握りしめたクルスが手のひらを鈍く刺す。

 マリアが泣きじゃくる。美貌をくしゃくしゃにゆがめて、子どものように泣きじゃくる。オルガはたまらなくなって、彼に抱きついた。

「オルガ」

 マリアが幾度でもオルガを呼ばう――「オルガ」。

「マリア、僕たち、家族に、なろうよ」

 オルガも、きっとマリアと同じほどみにくく泣いている。ふたりで大きくふるえて、紡いだ言葉は滑稽だった。マリアは答えず、オルガは本気ではなかった。ただぽつりと言葉が産み落とされ、この薄暗く汚い場所で死んだ。かたく抱き合ったまま、マリアが疑い深い眸でオルガを見ていた。オルガは身も世もなく泣き、乱れきった思考の冷静な部分で、いまの行きつく先を考えていた。

「貴方のことがだいすきだよ、マリア」

 木戸が軋み、冷たく乾ききった風が吹く。なにも満ち足りない。

 オルガの手から木のクルスが落ち、マリアはそちらを見なかった。応えなかった。

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