第38話 美よりも速く走れⅡ

 週明けの月曜日の昼やすみ、梓お姉ちゃんから電話がかかってきた。週末、ずっとあの想い出にふけっていた僕はドキドキしたけれど、やっぱり梓お姉ちゃんは梓お姉ちゃん、何ごともなかったかのようにクールな声だった。

「淳之介、ちょっと校庭に出てみてくれる?屋上から校長にあずかった垂れ幕をたらすから・・・ずれていないか確認してほしいの」

「う、うん・・・」

校庭に出て、

「着いたよ」

電話しなおすと、

「もうちょっと右・・・もうちょっと・・・うん、そのあたりから見て」

と位置を指示してから、梓お姉ちゃんは垂れ幕をたらした。

「そのツラで勉強も運動もできなかったらてめえのモテる道はねえぜ? by校長」

とあった。

「感じ悪いなあ・・・『文武両道』とかすなおに書けばいいじゃないかっ」

おもわずそう抗議すると、梓お姉ちゃんもため息をつきながらいった。

「これでも相当直させたのよ?最初はもう、口にもしたくないくらいに下品だったんだから」

こんな垂れ幕ならすこしくらい曲がっていても人目につかなくても、いやむしろそっちのほうがいい気がしたけれど、梓お姉ちゃんのやっていることなので僕は不承不承に協力した。

「もうちょっと左かな・・・」

僕らがそうして話していると、むこうから集団がやってきて校舎のほうへぞろぞろ戻っていって、そのなかに高坂穂のかさんがみえた。どうやら陸上部がミーティングかなにかやっていたようだった。高坂さんは僕の姿をみとめると、列からはなれてこちらにやってきた。

「ハーイ、淳之介君。何してるの?」

僕が垂れ幕と梓お姉ちゃんを指でしめすと、高坂さんも気づいて屋上にむかっておおきく両手をふった。梓お姉ちゃんも手をふりかえして、僕は携帯をスピーカーモードにした。

「どう、穂のか?ずれてない?」

携帯から梓お姉ちゃんの声がひびいて、高坂さんも気軽におうじた。

「うん、いいんじゃないかな?・・・それにしても、ひどいスローガンねえ」

「まあ、それは・・・」

しかし、梓お姉ちゃんが息をのむような気配があってことばがとぎれて、一瞬後、緊張した声が携帯から流れてきた。

「淳之介、生徒会室っ」

何ごとかと梓お姉ちゃんのいる棟の向かい側、3階の生徒会室のほうに目をやると、一匹の猫が窓枠に必死になってしがみついていた。あれは・・・

(シャムだっ!)

「シャムっ」

頭が真っ白になって僕はそう叫んで、必死になってそちらへ駆けだした。なにもかんがえられなかった。しかし走りだしてすぐ、

ビュンッ

とほんとうに耳もとで音がして、あっという間にだれかが僕を抜き去っていった。いうまでもなく、高坂さんだった。僕も必死になって走ったのだけれど、彼女との差は広がっていくばかりだった。途中で僕は、いまにも落ちそうなシャムを目で確認しながら、高坂さんのうしろ姿にすべてを託すしかなかった。

(高坂さん、たのむ!)

しかし、シャムの体が宙を舞うのがみえて、あっ、と僕がおもわず声をあげて、地面まで3秒、2秒、1秒、落ちていくシャムの姿が高坂さんのうしろ姿で一瞬みえなくなった。

ズザアアアアッッッ

高坂さんは土ぼこりをあげながら急停止して、ふりむいた彼女は、笑顔でシャムを抱いていた。僕ははしるスピードをすこしづつゆるめながらようやく到着して、そのまま息をせいせいいわせながら、天をあおいだ。

「運動不足よ」

高坂さんが、わらっていった。

 ようやくすこしは落ちついた僕らが、シャムをしかってみたりしながら笑いあっていると、梓お姉ちゃんがやってきた。

「ちょっと梓ちゃん、おそいじゃない。―まあ屋上からどれだけ急いできたところで、どうせまにあわないけどさ」

笑顔をむける高坂さんに、でも、梓お姉ちゃんはクールに、信じられないことをいった。

「まあね。ふつうに歩いてきたから・・・それより穂のか、いい走りだったわよ」

「え!?」

「12秒19。さっき淳之介と穂のかが立っていたところからここまで、ちょうど100mなの。大幅にタイム短縮なんじゃない?インターハイは、おおいに期待できるわね」

平然とストップウォッチをみせる梓お姉ちゃんに、僕らはかたまった。

「お姉ちゃん、まさかいまの・・・」

「3階から落ちたくらいで、シャムはかすり傷ひとつおわないわ」

(そう・・・だった)

そうだ、相手は猫なのだ。そして梓お姉ちゃんは、今日陸上部のミーティングがあることも何もかも、ぜんぶ知っていたにちがいない。すべては、計画通りのことだったのだ・・・。さっきまでの緊張感をおもいだして力がぬけていく僕と対照的に、でも、高坂さんのほうはきっと目をつりあげた。

「梓ちゃん・・・なにをかんがえているのか知らないけど、ちょっとやりすぎなんじゃない?」

無理もないことだけれど、高坂さんの体から水蒸気のように怒りのオーラがたちのぼっていて、それでも梓お姉ちゃんはかわらず涼しげな顔で僕にいった。

「淳之介、ちょっと外してくれる?穂のかと話があるの」

僕はこれ幸いとその場をはなれて、でもやはり気になるので、校舎のかげにかくれてこっそりと彼女たちの話に聞き耳をたてた。

 「どういうこと?淳之介君から聞いたの?」

「何を?」

「だって、そうやってタイムをはかってたってことは・・・」

高坂さんは唇をかみしめて、梓お姉ちゃんをにらみつけた。

「聞いたわ。タイムが伸びなくて、悩んでるんでしょ?なにか私に知られて問題があるの?」

不思議そうにたずねる梓お姉ちゃんに拍子抜けしたようにしながらも、なおも高坂さんはうたぐるようにいった。

「―それだけ?」

「それだけ、って・・・。ほかに何かあるの?」

逆につっこまれて、高坂さんはあわてたようにうちけした。

「いえ、べつに。―べつに、何もないわ」

ほっとしたような高坂さんに、梓お姉ちゃんはいった。

「ごめんね、穂のか。やりすぎだとはおもったけど・・・でも、タイムを伸ばすにはこれくらいのショック療法しかないかなって。そうとう悩んでいるみたいだったから」

高坂さんは、怒りの矛先をどこにむけたらいいか、わからなくなったようだった。口のなかでぶつぶつと、うん、いいのよ、などといっていたけれど、それから、どうでもよくなったように笑った。

「ごめんね、梓ちゃん。白状するとね、私・・・あなたに嫉妬してたのよ」

「私に嫉妬!?―どうして?」

はじめておどろいたようにいう梓お姉ちゃんに、高坂さんはようやくおだやかな笑顔をむけた。

「これだものね。このあいだの体力測定の100mのタイム・・・あなた、12秒2だったでしょう。毎日駆けっこばっかりしている私のたったひとつのプライドもあなたは踏みにじって、しかも踏みにじったことにすら気がついていないんだもの」

「―ああ、そう。そういうことだったの・・・。でもそれならさっき私のタイムをぬいたわけだし・・・もう心配いらないわね」

微笑む梓お姉ちゃんをまじまじと見つめてから、高坂さんはふっと笑ってため息をついた。

「―なるほど、人間には格ってものがあるみたいね。人格とはよくいったものだわ。私は、どうしたってあなたにとおくおよばない・・・まあ、だからこそやきもちなんて妬いちゃうんでしょうけどね」

「そんなことないわ。それに、嫉妬もたまにはよいかもよ?ヤキモチ妬いて、それに背中をおされて、いままでどうしてもできなかったことが前に進んじゃうことだってあるわけじゃない」

「・・・ふうん。梓ちゃんにも、そんなことがあるの?」

けげんな顔をする高坂さんに、梓お姉ちゃんはすこしあわてたようにも聞こえる声で、いそいでいった。

「たとえばよ。たとえば」

校舎のかげで、僕はまた深夜の梓お姉ちゃんの部屋でかんじた鼓動がぶりかえしてくるのを意識した。―もしうぬぼれてもいいのなら、と僕はおもう。いまのが、この前の

「いいかげんにしないと、さすがのお姉ちゃんも・・・ヤキモチやいちゃうぞ」

のことを言っているなら。「いいかげんにしないと」というのが、僕が生徒会の女の子たちと仲よくしていることを指しているのなら。まさか・・・まさか、今回の梓お姉ちゃんの問題というのは・・・。

「姉様は、完全に心の調和をとりもどされましたニャ」

「うわあっ」

気づくと足もとにシャムがいて、僕をじいっと見つめていた。

「ここまで姉様に影響をあたえられるとしたら・・・ジュン様しかかんがえられませんわ。姉様と、何かあったんじゃニャいですこと?・・・」

さすがに雌猫、すさまじい勘なのだ。そのじっとりとした視線から逃れたくて、僕は適当に歩きだした。人間なら、それで察してくれる。しかしシャムは、かえっておもしろがるようについてきた。僕は、ほとんど小走りでかけだした。それでもシャムは、追ってきた。僕は、全速力にスピードをあげた。シャムは、息もみださずついてきた。僕はそのときようやく、相手が100mを7秒5ではしるシャム猫であることを思いだした。それでも僕は、駆けるのをやめなかった。なんとなく、そんな気分だったのだ。そうして僕は、この間の生徒会室での、

「大丈夫よ。稽古でちょっとくじいただけ」

という梓お姉ちゃんの微笑みをおもいだした。

(―もしべつべつに走ったら、たまには今回のように高坂さんのタイムが上回ることがあるとしても・・・)

と僕はおもう。いっしょに走ったら、絶対に梓お姉ちゃんが勝つにちがいない。そういう人なのだ。彼女は、負けない。勝つというよりは、けっして負けない。シャムの言うとおりだ。相手が100mを7秒5ではしろうが何だろうが、彼女はそのまえに首ねっこをつかまえられるのだ。そして高坂さんにはほんとうに申し訳ないのだけれど、僕自身、彼女が負けないことをつよくつよく望んでいるにちがいなかった。

(あこがれ、か・・・)

このことばは好きじゃない。まるで、相手のほうが上であるかのようで。しかし、梓お姉ちゃんにたいする僕の気もちをことばにおきなおせば、どうしてもそうなるようだった。それでも・・・。

「いいかげんにしないと、さすがのお姉ちゃんも・・・ヤキモチやいちゃうぞ」

またあのことばが耳朶によみがえって、僕はうふふと笑った。この週末、ずっとくりかえしていたことだ。自然に、口もとがゆるんでしまうのだ。

(言質はとったからね、梓お姉ちゃん・・・)

意味のない優越感をかんじながら、僕は走りつづけた。となりではしっているシャムが、ずる賢そうな眼で、僕の顔をのぞきこんだ。

               ◇

 ちなみに今回の賞品は『ペヨング ソース焼きそば』50個だった。『俺の塩』をもらったばかりだとか、なんでカップ焼きそばにそんなにこだわるんだとか、どうして『ペヤング』のほうじゃないんだとか、レベル2と3の賞品のちがいは何なのかとか批判が噴出するなか、校長はだまってアフリカの飢えた子どもたちのビデオをみせた。僕らは唇をかみしめてひきさがった。おかげで、シャムはますます太りつつある。このままでは、3階から飛び降りるのもあぶなくなるかもしれない。

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シャム猫のいる生徒会室 橘冬 @tomakomai

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