第37話 ああっ女神さまっ
階段をのぼりながら、梓お姉ちゃんはいった。
「ウォンちゃんは、かなり繊細な子だから気をつけてね」
―もうおそいんだけどと内心おもいながら、僕はこたえた。
「う、うん。でもさ、まさかウォンバットをペットにしているなんておもわなかったな」
「飼ってたシャム猫たちが、ある日とつぜんいなくなっちゃってね。まあ、猫は死ぬとき姿をかくす、なんていうけど・・・。寂しがってたときに、オーストラリア旅行であの子と出逢ったの」
「ふうん・・・」
梓お姉ちゃんにつづいて入ると、あいかわらずお姉ちゃんらしくというのか、シンプルでよけいな装飾の何もない部屋なのだった。しかし、部屋の隅にたてかけてあるちいさな竹刀をみて、僕はおもわず声をあげた。
「あっ。あの竹刀・・・もしかして僕の?」
「そうよ。よくおぼえているわね。淳之介がウチの道場に来たときの記念。家に来るっていうんで、さっき物置から出してきたの。見せてあげようとおもって・・・」
そう、僕は子どものころ、誘われて梓お姉ちゃんの道場に通ったことがあった。そしてそれは、今から思えばだけれど、僕が団体行動だとか部活動だとか先輩後輩だとか人との争いだとか、そういうものがひどく苦手なのだと気づかされる第一歩だった。わずか数日で嫌になった僕がそれを申し出ると、案のじょう、たいして知りもしない人たちからお決まりの非難が浴びせられた。
「もうやめるの?情けないなあ」
「ここで逃げたら、このさき君は何をやっても逃げ続けることになるんだよ」
「男にはね、戦わなければならないときがあるんだよ」
何がかはわからないけれど何かがちがうと感じながら、でもなんとなく気おされていた僕の気もちを、でも、梓お姉ちゃんが代弁してくれた。
「みんな、何をえらそうにいばっているの?淳之介は、私がさそったから試しに入ってきただけ。それで、好きじゃなかったからやめるだけよ。あなたたちが好きだから続けているだけなのに、勝手に自負をもたないで。―淳之介は、ご本のほうが好きなのよね」
まったく、子どものころから梓お姉ちゃんはおどろくほど大人びていた。そんなことを思いだしてそのちいさな竹刀を手にとってみながら、僕はぽつりといった。
「なんだか、梓お姉ちゃんにはたすけられてばっかりだなあ・・・」
「あら、私も淳之介にはよくたすけられているわよ?あなたが気づいていないだけよ」
梓お姉ちゃんの視線の先に本棚のうえのたくさんのトロフィーやら賞状やらがあって、僕ははっとした。子どものころ、なんだかの剣道の大会があって、僕も応援に行ったことがある。梓お姉ちゃんはまだ幼稚園生であるにもかかわらず、小学校低学年の、しかも男子の部に出場がみとめられ、決勝まで勝ちすすんでいた。しかし決勝戦、相手はそこまで勝ちあがってくるほどの年上の男なのだから、さすがの梓お姉ちゃんもさきに一本をとられ、くるしい展開をしいられていた。でも一本をとられたあと、お姉ちゃんはこちらを見た。たしかに、じっとこちらを見た。まるで、充電でもするように。その時間は、僕にはずいぶんながく思えた。そのあと、梓お姉ちゃんは立てつづけに二本をとって、優勝した―。
梓お姉ちゃんもいま、その光景を思いうかべたのではないかという気が僕にはした。そして、どぎまぎした。正直にいえば僕は、梓お姉ちゃんが僕のことをどうおもっているのかについては、よくかんがえる。ものすごく優しくしてくれるだけに、よくかんがえる。その愛情がどういう種類のものなのか、お姉ちゃんの場合よくわからないところがあるからだ。でもそんなとき、いつもこの光景が思いうかんで、僕のうぬぼれをちょっとのあいだ支えてくれる。もしこの光景が、梓お姉ちゃんにとっても特別なのだとしたら?―僕は、お姉ちゃんの横顔をうかがった。なんだか、梓お姉ちゃんもどぎまぎしているようにもみえた。じっさい、さっきからちょっと長すぎる沈黙がつづいていた。僕は、なにかしてみたい気がした。たとえば、梓お姉ちゃんに触れてみるとか、そういうことを。梓お姉ちゃんだって、それを待っているような気がしはじめた。僕の手が、梓お姉ちゃんの体のどこかを感じたがって、勝手にそわそわした。夜中の静けさのなかじぶんの鼓動をもてあましながら、僕はこのあいまいな沈黙をどうしたものかはげしく迷った―。
ブルルルルルル
だから、バッグのなかでスマホがふるえて音をたてたとき、僕は緊張の糸がきれて一気に気がぬけた。
「―電話よ、淳之介」
梓お姉ちゃんも、心なしか気がぬけたようにも見えたのだけれど、どうなのかはわからない。ともかく僕がため息をつきたいような気もちで電話にでると、不機嫌そのものの唯の声が耳もとでひびいた。ああ妹よ、この天使悪魔め。
「何やってるのよお兄ちゃん、いま何時だと思ってるのっ。どれだけ心配したと思ってるのよっ、なんでさっきからお返事ひとつしてくれないのっ」
「―ごめん、気づかなかったんだ」
「いまどこにいるのっ」
「梓お姉ちゃんの家」
「はあっ?どうして梓お姉ちゃんのお家にいるのよっ」
「終電ももうなくなっちゃったし、泊まらせてもらおうかなって・・・」
「な、なにバカなこと言ってるのよっ。お母さーん、お兄ちゃんがね、女の子の家に泊まっていくなんていいだしたよっ。貞操の危機よっ。いやらしい、きっと『オトコ』になるつもりなのよ。あしたの朝、ぼんやりと気のぬけたような顔をして帰ってくるんだわ。それで急に自信つけちゃったりして、『女は・・・』なんてえらそうに言いはじめるのよ。ああいやらしい、いやらしいったらないわっ」
「な、何いってるんだよっ、落ちついてくれっ」
僕らがさわいでいるのを見ながら、梓お姉ちゃんは微笑んでいった。
「唯ったら、お兄ちゃんをどうしたって手放したくないみたいね。いいわ淳之介、私がバイクで送っていくわ」
お姉ちゃんにつづいてバイクの後ろの席にまたがろうとして、僕はふと迷った。
「どうしたの?」
けげんそうに聞いてくる梓お姉ちゃんに、僕はいってみた。
「ねえお姉ちゃん、僕が運転してもいいかな?」
「ん?どうして?―ははあ、さては男になりたくなったのね?」
くすくす笑うお姉ちゃんに、僕は頬をあからめながらいった。
「う、うん・・・。たまにはかっこつけたいというか・・・」
「まあ、もうお酒もぬけてるみたいだし・・・。いいわよ、それなら。男をみせてちょうだい、淳之介」
笑いながらお姉ちゃんは席をゆずってくれて、僕は逆に子どもらしくなっちまったなと恥ずかしくおもいながら、運転席にまたがった。
途中で、僕は高坂さんがタイムがどうしても伸びないことで悩んでいると説明して、梓お姉ちゃんもそういうものかしらねえとちょっと不審がりながらも、いちおうは納得してくれたようだった。でも、もうすぐ家に着くという信号待ちのあいだに、お姉ちゃんはそれまでは腰に手をそえるくらいだったのが、急に後ろからぎゅっと抱きついてきて、耳元でいった。
「でもね、淳之介・・・」
(えっ!?ええっ!?)
「今度は、お姉ちゃんの親友といちゃいちゃ?バーにまで行かなくてもいいんじゃない?」
「・・・・・・・・・」
「いいかげんにしないと、さすがのお姉ちゃんも・・・ヤキモチやいちゃうぞ」
梓お姉ちゃんの甘い香りにつつまれながら、僕はもうなんというか、ことばも出なかった。怜奈がこういうことをするのは、想像できすぎるくらい想像できる。唯もまた、想像できる。弥生ちゃんも、まあ、できないこともない。ただ梓お姉ちゃんがこういうことをするのは、もう絶対に想像できないことなのだ。なんだか、女神様にでも抱きしめられているようだった。そのあとどうやって帰ってきたのか、僕は夢見心地でほとんどおぼえていない。よほどだらしない顔をしていたのだろう。鍵をわすれたのでチャイムをならして、でてきた唯の顔がまさしく柳眉を逆立ててというのか、たちまちに険しくなった。気づくとまたいつのまにかドアが閉まっていて、僕はしばらくは家の外に締めだされたまま、ぼんやりとさっきの想い出にひたっていた。
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