第36話 君の名は
逆方向の高坂さんとわかれて駅のホームで電車を待っていると、携帯が鳴った。梓お姉ちゃんからだった。
「淳之介?穂のかと、お酒飲んでるんだって?」
唯からか、シャムからか。何にしても、あいかわらず反応がはやいのだ。
「うん。いま別れたばっかりなんだ」
「そう。今、どこにいるの?」
駅の名前をいうと、梓お姉ちゃんはいつもより心なしかせかせかした調子でいった。
「家から近いわね。ねえ淳之介、今からこっちに来ない?親友のことだし、気になるの」
僕は口ごもった。
「ん、んー・・・でもさ、もうだいぶ夜も遅いし・・・」
「家に泊まっていけばいいじゃない。それに、今日は両親とも旅行に行っていていないの。こんな不用心なお家に、女の子ひとりほっとくつもり?」
最後は冗談めかしていって、いうまでもなくこの最強お姉ちゃんにそんな心配はいらない。それはともかく僕が口ごもったのは、もちろん、高坂さんの悩みの原因がまさに梓お姉ちゃんだったからだ。しかし、金曜の夜ということもあって駅のホームはお酒を飲んできた大学生やサラリーマンたちのざわめきにあふれていて、僕自身ウイスキーの酔いがのこっていて、そんな中で聞く梓お姉ちゃんの涼しげな声はなんだかすごくなつかしかった。僕は、彼女に会いたくてたまらなくなってきた。
「うん。―じゃあ、行こうかな」
気づくと、僕はそうこたえていた。
「よかった。じゃあ、待ってるわね。そうだ、今からお風呂はいりたいの。もしピンポン押しても私が出てこなかったら、郵便受けのなかに鍵かくしておくから、それで入ってきてね」
さっきのじぶんの発言をすっかり忘れたような不用心なことを梓お姉ちゃんはいって、僕はなんとなくうきうきしながらそれを聞いた。
梓お姉ちゃんの家に向かいながら、高坂さんはタイムが伸びないので悩んでいるのだということで押し通そうと、僕は腹をきめた。それは事実であって、真実ではなかった。しかし高坂さんの名誉のために、梓お姉ちゃんに嫉妬しているという真実だけは隠さなければならなかった。それでいて今回はそれが梓お姉ちゃんの問題とやらに関わっているのかもしれないのだから、なにもいわないわけにもいかない。それならば真実から感情をぬきとって、無機質な事実だけをはなすことが、いま僕にできる最善の手段のはずだった。そうかんがえながら梓お姉ちゃんの家のチャイムをおすと、やはりまだ入浴中らしくだれもでてこなかった。僕は教えられたとおりに、郵便受けの底蓋の裏にテープではってあった鍵で中にはいった。
はいると水音がわずかにひびいてきて、たしかに梓お姉ちゃんはお風呂にはいっているようだった。
(お姉ちゃん、お風呂はながいものな・・・)
そうおもいながら中から鍵をしめると、でも、とてとてとてと足音がひびいてきて、僕はびくっとふりむいた。そして居間から、ずんぐりむっくりした、猪を小さくしてものすごく可愛くしたようなふわふわの動物がやってきた。そいつはちょこんと上がり框のあたりに座ると、じいいいいいいっと僕を見た。
(え?ええっ!?んと・・・・・・)
僕はあまりにも訳がわからなくてものすごくあわてていたのだけれど、とりあえずその見たこともないような動物がつぶらな瞳でじいいいいいいっと僕を見たままなので、なにかいわざるをえなくなった。
「あ、うーんと・・・こんばんは」
「こんばんは」
(やっぱりしゃべるのか。まあ、それはもう驚かないとしても・・・)
「えと・・・お名前は?」
「人に名前を聞くなら、まずじぶんから名乗るのが常識だとおもう・・・のに・・・」
その子はなぜか傷ついたようにそっぽをむきながら、いった。
「え?あ、そっか、そうだよね。ごめんごめん。僕はね、高梨淳之介っていうんだ。君は?」
「ぼく、ウォンバット」
ははあ、と僕は心のなかで膝をうった。そうだ、そういえば写真かなにかで見たことがある。たしかにこの子は、ウォンバットだ。
「ああ、君がウォンバットかあ。実際にみるのは、はじめてだなあ」
「呼びすて・・・。せめてちゃん付けしてくれると思ってた・・・のに・・・」
また横を向きながらいって、今度はその瞳に涙がたまっていた。
「ん?あ、ごめんごめん。そうだよね。ウォンバットちゃん、だよね」
僕はあわててしゃがみこんで、その毛をなでてやりながら、言いなおした。それから、
「―でもさ、ウォンバットちゃんってたしか、オーストラリアの動物だよね?どうしてこんなところにいるの?」
聞くと、
「・・・いけないの?」
涙にぬれた眼で責めるように見つめてくるので、僕はまた大慌てでうちけした。
「ま、まさか。―そうだ、そろそろ中にはいってもいいかな?」
話題をかえるつもりで内心あせりながら靴をぬいで、そのまま上がりかけたけれど、うしろからついてくるだろうと思っていた足音がしないので、僕はふりむいた。肩先のあたりがふるえていて、もはや完全な涙声でウォンバットはいった。
「素通り・・・まさか、抱っこぐらいしてくれると思ってた・・・のに・・・」
(う・・・うざカワイイっ・・・何だコイツっ)
僕は急いでもどって抱きあげたのだけれど、ウォンバットというのはなかなかに大きくて、あきらかに20キロはあるのだ。飛行機の預け入れ荷物の重量制限がだいたい20キロなのだから、ぱんぱんに詰めたスーツケースを抱いているようなものだ。それでも重そうな素振りでもみせようものなら、
「ひどい・・・のに・・・」
なんて泣きじゃくることは必至なのだから、僕はほとんど死にものぐるいで平気なふりをしながら彼を居間まではこんだ。
それでも、居間のソファで膝のうえにのせてお腹の毛をなでてやっているうちに、ウォンバットはようやく落ちついてきた。そして、ちょっと僕をふりむきながら、ぼそっといった。
「ウォンバット・クイズ出したい・・・」
「ん?」
「のに・・・」
「ど・・・どうぞ!?嫌がってないよ、ぜひぜひ」
僕は必死で先をうながした。
「うん・・・では第一問。ウォンバット族のあいだで一番人気のアニメはなんでしょう?
①ワンピース
②進撃の巨人
③ドラゴンボールZ
④銀魂」
「うーん・・・これはどれも有名だし、むずかしいなあ。意外に②の『進撃の巨人』だったりするのかな?」
「まさかあ。ウォンバット族はああいう怖い巨人みたいなキャラ、大の苦手なの。正解は①の『ワンピース』でした。ぼくも大好き」
「ふーん。まあ、ふつうなんだね」
「ところで淳之介ちゃんって、お姉様と特別な関係なの?」
「―クイズは一問で終わり?まあ、特別というか・・・幼なじみだね。どうして?」
「いままでお姉様、お客さんが来るとかならずぼくを隠したの。ここのお家以外のひとと会うの、ぼくはじめて」
「ふうん。きっと、君をまもろうとしていたんだね。ウォンバットって、日本では飼えないはずだから」
「うん。だからさっき、『これから淳之介っていう、女の子に見えるけど男の子が来るからね。ああ、今回は隠れなくていいわよ』っていわれたとき、びっくりしたの。きっと淳之介ちゃんはお姉様にとって特別なひとなんだろうな、って」
「うん・・・。そっかあ。ねえ、でもぜんぜん家から出られなくて、さびしくないの?」
ウォンバットは、首をふった。
「ぜんぜん。お姉様も、お母様もお父様もやさしいもの。ネットサーフィンも楽しいし、アニメも見られるし、お父様の晩酌につきあってビール飲みながら柿ピー食べるのも好きだし・・・。オーストラリアにいるよりずっといいや」
「へえ・・・。でもさ、どうやって日本に来たの?」
「お姉様たちがオーストラリア旅行に来たとき仲よくなったから、ぼくも日本に連れていってってお願いしたの。もともとぼく、親の顔もおぼえてないし・・・。動物の世界では、よくあることだけど。それにぼくね、ウォンバット族のなかでいじめられてたの。ウォンバットってね、ほとんどが陽気なの。それで、おまえみたいに内気なんておかしいって」
「ああ、たしかに明るいイメージ、あるなあ」
「でもね、そんなの差別だとおもうの。内気で繊細なウォンバットがいたって、いいじゃないっておもうの」
「そうだよ、君のいうとおりだよ。みんな同じじゃなきゃいけないなんて、おかしいよ」
「でしょでしょ?ぼく差別なんて、大っ嫌い。だから、アメリカなんてぜったい行きたくないの。アメリカ人って、全員明るいんでしょ?」
「―そういうのを差別っていうんだよ?」
「だからね、お姉様のトランクに入れてもらって、日本に来たの。今とっても幸せ。お姉様に、いろんな音楽も教えてもらえるし・・・」
ああ、僕もそうだったっけ、とウォンバットをなでてやりながら僕はなつかしく思いだした。梓お姉ちゃんは、ちょうどいまウォンバットをそうしているようによく僕を膝にのせて、クラシックを聞きながら解説してくれたものだ。
「クラシックって、とっつきにくいと思うかもしれないけど。でもそもそもポップスってね、クラシックのサビの部分だけぬきとったものなの。もともと同じものなのよ。ほら、盛り上がって、盛り上がって・・・まだ盛り上がりきらない。もう一回同じのがくるわよ・・・まだ盛り上がりきらない。そろそろよ・・・ほらここがクライマックスよ。ね、現代の人はいそがしいから、サビの部分だけ聞いちゃおうってなるけど。ほんとうは、クライマックスに行くまで、じらして、じらして、すこしづつ盛りあげてくれたほうが、感動もおおきくなるのよ」
実際、慣れるとクラシックはいい。子どものころに最高の解説者がいたおかげで、僕の目はひらかれた。池内君の言うとおり、ただしい師について、ただしい第一歩をふみだすことが大事なのだ。そんなことをかんがえていると、ウォンバットがいった。
「音楽って、すてきだね。オーストラリアにいるときはね、ウォンバットの族歌しか聞いたことなかったの」
「―族歌!?」
「こっちの国家みたいなもの。聴きたい?」
「う、うん。ぜひ」
「では・・・」
ウォンバットはこほんと咳払いしてから、歌いだした。
「♪われわれは コアラじゃないぞ
ウォン ウォン ウォンバット
ウォン ウォン ウォンバット
コアラは木にのぼり 僕らは穴を掘る
コアラは上めざし 僕らは下へ行く
祖先は同じでも 進む道はちがう
でも覚えておいて 最後に愛は勝つ
ウォン ウォン ウォンバット
ウォン ウォン ウォンバット♪」
「―コアラにたいするものすごい敵対意識をかんじるんだけど?それに、最後のメッセージの意味が・・・」
「もともと同族だから、やっぱりね・・・。そのメッセージについては、ウォンバット族のあいだでもよく議論になるの。ふかい意味がこめられているんだっていう意見もあるし、結局コアラに勝つ具体的な方法が思いつかなかったからごまかしただけさ、なんてシニカルな意見もあるけど」
たぶん後者だろうなとおもったけれど、もちろんなにもいわなかった。
「ねえ、でも途中でとめられちゃったけど・・・2番もある・・・のに・・・」
「あ、ごめんごめん。―つづけて」
ウォンバットはまた咳払いしてから、2番を歌いだした。
「♪人間に 会えたらラッキー
ウォン ウォン ウォンバット
ウォン ウォン ウォンバット
僕らはほんとうは 走るの速いけど
ケンカもつよいけど 人に見せちゃダメよ
笑顔で捕まって 動物園めざそう
でも覚えておいて ウォンバットの誇り
ウォン ウォン ウォンバット
ウォン ウォン ウォンバット♪」
「い・・・今さらなにが『ウォンバットの誇り』なのさっ。さっきから、最後のメッセージがその前とぜんぜん結びついてないじゃないかっ」
「そ・・・そんなことぼくにいわれたって困る・・・のに・・・」
そのウォンバットの繊細さも忘れておもわずつっこんでしまって、僕はあわててあやまった。
「ご、ごめんごめん。そうだよね・・・」
なでてやると、ウォンバットは口をとがらせていった。
「でもねでもね、ウォンバットにとって動物園って最高のあこがれなんだよ。しょうがないじゃない。あそこに行けば、食事もたっぷりもらえるし、かわいがられてスターになれるし・・・寂しがり屋で明るいウォンバット族にはぴったりだもの。まあ、ぼくは人見知りだからお姉様のお家のほうがいいけど・・・」
そうして話していると居間のドアが開いて、しっとりと髪の濡れた梓お姉ちゃんがお風呂上がりのいいにおいをさせながら入ってきた。
「ああ、お待たせ、淳之介。ごめんね」
「ううん、大丈夫だよ」
「私のお部屋でお話しましょう」
「うん」
僕が膝のウォンバットをソファにうつして立ち上がると、ウォンバットはみじかい手足をばたばたさせながら騒いだ。
「なんでなんで?ここでいいじゃない。ぼくもいっしょにお話したい。ぼくも・・・」
そんなウォンバットに、梓お姉ちゃんがやさしくいった。
「だめよ、ウォンちゃん。私は淳之介と、生徒会のことでお話があるの。アニメでも見ていてちょうだい」
「ほんと!?」
ウォンバットは、あっさりと態度を変えて、目をかがやかせた。
「さて・・・何がいいかな?」
ずらりとDVDのならんだ棚をあけてみせながらいう梓お姉ちゃんに、ウォンバットは即答した。
「進撃の巨人っ」
気づくと、僕はいつのまにか拳をにぎりしめていた。
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