第35話 美よりも速く走れ
個室から出ると、ウェイター姿の池内君が僕のひじをつかまえて、いった。
「な、何なんだよ、あの女っ。高い酒ばっかりバカスカ飲みやがって・・・いったいどんな教育を受けてきたんだっ」
「し、知らないよっ。池内君が言いだしたことじゃないか」
「だって、高校生の女の子ならふつうは甘いカクテル一杯で『淳之介君、酔っぱらっちゃったァ』なんて君にしなだれかかるのがふつうじゃないか」
「ど・・・どんな計画を立てていたのさっ」
僕らがそうしてやりあっていると客のひとりが、
「おっ、きれいな姉ちゃんじゃないか。薫君、彼女かい?」
と声をかけてきて、池内君がへへっと愛想笑いをむけているすきに、僕はさっさとトイレへとむかった。
トイレでばしゃばしゃと顔を洗っていると、
「これがほんとのやきもちでございます」
なんていう池内君のお母さんの声がおもいだされた。そうなのだ。
「妬けちゃうなあ」
なんて高坂さんのことばを僕は、僕へのやきもちと素直にとらえていた。そうじゃない。もともと高坂さんが嫉妬していたのは、梓お姉ちゃんだったのだ。
(甘いなあ、僕も・・・)
かるく赤らんだじぶんの顔を鏡でながめながら、
(これがほんとの穂のかに赤らむ・・・なんてね?)
そう内心でおもってみて、いや、ととのってないなと首を振りながら、僕はトイレをでた。
個室にもどると、高坂さんは恥ずかしそうに微笑んで、僕をみた。
「ごめんね?お恥ずかしいところをお見せして」
「いえ、とんでもない・・・」
「あとで妹さんに謝っておいてね?失礼なことしちゃったから・・・」
あの後なにがあったのか、想像したくもないほど怖かったけれど、とりあえず唯をまもらなければならなかった。シャムは鉄面皮といっていいくらい繊細さとはほど遠い性格だったから、まったく心配はいらないのだけれど。
「いえ、じつはあれはいとこなんです。いま、家に遊びにきてたみたいで。唯の携帯からかけてきたから僕も最初はまちがったけど・・・」
「そうなの!?よかったあ・・・おなじ学校の妹さんなら、ちょっと困っちゃうものね」
「唯は、あんなこといいませんよ。繊細な子だから」
「そっか。そうよね、あまりにも淳之介君とちがうから、変だとおもったわ」
そのあと、何を話したらいいかわからなくて、僕らはそわそわした。そんな気まずい沈黙をやぶって、高坂さんは決意したように話しだした。
「―もうすぐね、インターハイなの。私の三年の総決算。それが終わったら、本格的に受験体制ね。でもそんなことほとんど考えられないくらい、私この大会にかけてたの」
「そうですよね、三年必死でやってきたわけですから・・・」
「うん。でもね、このあいだ体力測定があったでしょう?愕然としたわ。梓ちゃんの百mのタイム・・・信じられる?12秒2よ。おかしいわよ、あの子。いまは部活動にも入ってなくて、生徒会長やってて、しかもお勉強でも学年トップなのにさ。私の三年は何?ねえ、私が色黒なのは、毎日お日様の下で駆けっこしているからっていうのもあるのよ。あんな色白美人に、私の努力は負けちゃうの?私に、たった一つのプライドも残しておいてくれないの?」
まくしたててから、彼女は今度はつぶやくようにいった。
「親友にこんなに嫉妬しちゃうなんて・・・サイテーよね。あまりにみじめだわ。天才って、いるのね」
高坂さんは、あきらかに何か言ってほしそうだった。どうやって元気づけようか頭をフル回転させていた僕だったけれど、おざなりにすまさないためには、じぶんの好きな分野にひきよせて話すしかなさそうだった。
「実はですね、僕は文学好きで・・・小説を書いてみたこともあるんです」
「―へえ?・・・それで、どんなのを書いたの?うまくいった?」
一瞬あっけにとられたようだったけれど、それはそれで興味をもってくれたらしく、高坂さんは聞いてきた。
「いえ。今日書くことと、次の日書くことがぜんぜんちがうんです。かんがえてみると、あたりまえですよね。じぶんでじぶんがわからないでふらふらしている高校生に、芯をもった小説なんて書けるはずもないんです。菊地寛っていう小説家が、25歳になるまでは小説なんて書いてもムダだ、って言っていて・・・なるほどなって実感しました」
「ふうん・・・」
「吉本隆明さんってご存知ですか?」
「ああ、吉本ばななさんのお父さんよね?『戦後最大の思想家』なんていわれる・・・読んだことはないけど」
「そうです、そうです。あの人が、こんなことを言ってるんです。『小説家とかプロになるやつは、かならず10年はやっている。逆に10年やれば、誰でもものになる』って。『この首をかけてもいい』とまで言っています。太宰治も、『小説家になるまで、私は10年まともな飯を食わなかった』みたいなことを言っています」
「へええ・・・」
「それでこのあいだ、ネットでおもしろいデータを見つけたんです。だれかが、芥川賞とか文学の新人賞をとる平均年齢みたいなものを調べたんです。だいたい、35歳くらいだったとおもいます。そうなると、25歳からの10年で、ちょうどということになりますね」
「ほんとだ。ぴったり10年だねえ。ふうん・・・」
「25歳から35歳までなら、もちろん仕事をしながらということになりますから、まあ書く時間が一日平均3時間くらいとしましょうか。一年365日で、だいたい1000時間ですね。十年で、10000時間。今はやりのプロになるまでには10000時間ということばは、小説家になるためにもぴったりあてはまることになります」
「うん、うん。なるほどねえ・・・」
しきりに感心している高坂さんに、僕はわらっていった。
「もちろん、僕はなんにもやっていないわけですから、説得力ゼロですが。でも、そうしてすごい人たちのことばをつなぎあわせていくと、データ上はつじつまが合うわけです。それで・・・さきほど、陸上は3年とおっしゃっていましたよね?」
「うん。中学のときは、バスケ部だったの」
「まあ、あわせて6年だとしても・・・。僕は小さいころから梓お姉ちゃんを知っていますが、彼女は剣道の道場の娘です。有名な剣道家のお父さんから、もう物心ついたときから剣をしこまれていました。もちろん運動全般も。池内君も運動神経は抜群ですが、やっぱりお父さんが武術家で、子どものときからきたえられていたそうです」
「なるほど。もう、とっくに10年やってるってわけか・・・」
そうしてしばらく宙をながめていた高坂さんだったけれど、やがてふふふと低い声で笑いだした。
「ありがとう。ねえ、君いいね。へたに感情的なことばでなぐさめられるより、ずっとずっと元気がでたよ」
「それはよかったです」
そういって微笑みながら、内心、いや、これでは足りないと僕はわかっていた。もちろんあとは彼女の問題なのだけれど、でも、もうすこし力になれないものか。
(人はみんなが三角形/角度の足りない三角形/けれど三角ならべれば/いつかきれいなまるになる/だからみんながあつまれば/そこにまんまる笑顔咲く)
とうとつにさっきのポエムがおもいだされて、僕は首をふった。
(咲かないよ、そんなもの・・・)
あしたに向かって必死にはしる高坂さんの笑顔は、誰をもぶっちぎってゴールを駆けぬけることでしか咲かない。みんなでお手々つないで同時にゴールして、顔を見あわせて笑って、そんな笑顔は笑顔のうちに入らないのだ。
(さて・・・どうしたものかな?)
内心で思い悩みながら、僕は高坂さんと個室をでた。
ところが部屋をでると、お店にはカウンターを中心に気まずい緊張感がはりつめていた。理由はあきらかで、60歳すぎくらいのお爺さんが、カウンターの前で池内君にお説教をくらわせていたのだ。まあよくあることだけれど、礼儀がどうたらこうたらとつまらないことに文句をつけていて、池内君のお母さんはカウンターのなかで頬づえをついて聞いていた。そのお爺さんはどうやら3、4人の仲間といっしょに来たらしく、残りの人たちは一歩さがって微笑んできいていた。その余裕の態度が、どうも若者の受けるべき当然の試練を楽しんでいるようにもみえて、僕はむっとした。
「―どうする?」
聞いてくる高坂さんに、
「ちょっと様子をみましょう」
とそれでも僕はいった。僕が出ていってどうなる問題でもないのだ。それにしても、そのお説教はながかった。礼儀がいちばん大事だ、私も会社の役員をやっていたけれど礼儀のないやつは絶対伸びない、私ならあなたみたいなヤツは絶対やとわない、高い金を支払っているのだからそれ相応のサービスを、あなたのちょっとしたふるまいでお客様の大切な時間がパーになることもある、私だからこの程度ですむけれど私でなければもっと大騒ぎになっていた、それほどに君のふるまいは・・・云々。最後、
「そういうわけで、私は君にそうとう不満だからね!また次に来るときは、もっと成長した姿をみせてくれることを期待している。―ほんとうに反省しているなら、まずその髪型からなおすべきだな」
そうお爺さんが締めると、
「これだよ、これが英さんの優しさだよ」
「よかったね、次があるってさ。ふつうはないんだからね、次のチャンスは」
「今は傷ついたかもしれないけどね、こういうのは全部、自分への声援だと思ったほうがいいよ」
うしろのお爺さんたちが、まさしくまんまる笑顔で池内君に声をかけた。そのときはじめて、池内君は顔をあげた。目がぎらぎら光っていた。
「君にそうとう不満?だから、何だっていうんだよ」
「―え?」
「てめえごときに不満をもたれて、誰かがそれを気にするとでも思っているのか?『もっと成長した姿』だ?てめえの言うとおりに成長したとして、その先にどんな人間になれるんだ?まさかてめえみたいになれるとか、そんなすばらしい冗談は言わねえだろうな、爺さん」
(あらら・・・)
僕は肩をすくめ、
「よく耐えてるとおもったんだけど・・・やっぱり我慢できなかったか」
ととなりで高坂さんがつぶやいた。そのお爺さんは気おされたように一歩退いたけれど、それから顔を真っ赤にしてカウンターの中の池内君のお母さんにむかってわめきちらした。
「ど、どうして君はなにも言わないんだっ。母親として、きちんと教育しなきゃだめじゃないか。こんなちゃらちゃらした、礼儀もなにも知らない息子にして・・・このままいくと、この子はどうしようもない社会のクズみたいになっちまうぞっ」
そのことばに、今度は池内君のお母さんの目がぎらっと光った。彼女は、カウンターの中で立ちあがっていった。
「あぁ?それなら鏡もってきてやるから息子のとなりに並んで立ってみなよ、爺さん。それで、『男として私はこいつよりずっと魅力がある』って叫ぶ勇気があったら、お代はタダにしてやるよ。年寄りだからって言い訳したいなら、若い頃の写真をもってきてもかまわないよ。礼儀が大事だ?そんなもってまわった言い方しないで、もっとはっきり言えばいいじゃないか。『俺を尊敬しろ』ってさ。会社の役員だかなんだかしらないけれど、ウチの息子を我慢ばっかり大事にしてる、アンタみたいなださいジジイに育てるつもりはまったくないね。さっきからつまんねえことでぐちゃぐちゃいいやがって・・・とっとと憂さ晴らしに二軒目の居酒屋でも行きな」
さすがは元ヤン、すさまじい迫力にお爺さんたちはまさしく震えあがった。な、何だよこの女、とか信じられないよほんとに、とかほとんど聞こえないような声で口のなかでもごもご言いながら、あわてて退散していったのだ。
(やれやれ・・・)
何事もなかったかのようにまた仕事を再開した池内母子のところに近づいていくと、
「ああ、淳之介ちゃんね。もう帰るの?」
とお母さんが笑顔をむけてきた。僕はあきれて笑いながら、
「―なにがまんまる笑顔ですか」
とつっこんだ。彼女は一瞬きょとんとしたけれどすぐ気づいて、けたけたと笑った。それからすっかり地金が出てというのか、姉御風の素にもどっていった。
「だって、おかしいじゃないか。客だからって下手に出てやってるうちはナントカが大事だカントカが大事だって、さんざん人格者みたいな講釈たれていばりちらしてさ。こっちがちょっと凄んでみせただけで、大事なものなんてぜんぶおっぽりだして逃げちまった。そんなにお手軽な人格があってたまるものかね」
そして、くすくす笑っている僕に、やさしく言った。
「ウチの息子がだれかとつるみたがるなんて、はじめてなんだ。今日会って、なんとなくその理由がわかったよ。いつでもタダ飯食べさせてあげるから、またおいで」
「はい、ありがとうございます。―ごちそうさまでした」
僕は頭をさげて、高坂さんといっしょに店をでた。
「ねえ、かっこいいお母さんねえ」
高坂さんがいって、
「ですね」
と僕も深々とうなずいた。ビルとビルの合間から、きれいなお月様がみえた。
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