第4話



水切りカゴの中からスプーンをつかみ、冷蔵庫を開け、ムースを取りフタをはがし、スプーンでぐちゃぐちゃに生クリームをムースを口の中にかきこむ。


甘酸っぱいまったりした泡が舌の上で溶けない……


「あぁっ!……」


唇が引きつって、あぁ!あぁ!……と、からだの奥から動物じみた濁った声が、あとからあとから沸いてくる。


あぁ!……あぁ!


彼女が出て行ってしまった!


彼女が出て行ってしまった!……



彼女が一週間前、出て行った。


お見送りのキスの習慣などいつの間にか泡と消え、先に出勤するわたしが、あわただしくしている彼女に、「いってきます」と声をかけ、声ではなくドライヤーの音が返ってきたり、時には、トイレの中から「いってらっしゃい」と声が聞こえてきたり……するのが普通になっていた。


その日の朝はめずらしく、出勤するわたしに彼女がトコトコついてきて、玄関で見送ってくれ、それがとてもうれしくて、つま先立って彼女の唇に唇を寄せると、顔を背けてうつむいた……


そして、そのうつむいた真顔で、重い、と言った。


「え?」


笑った表情でしかものを言わない人なので、聞き間違いかと思い問い返すと、すぐにいつものわたしの大好きな笑顔を見せてくれ、いってらっしゃい、と言い、ドアをガチャリと閉めた。


その日、仕事を終えアパートに帰ると、彼女の荷物がきれいになくなっていて、「今までありがとう」とだけ書かれたメモ用紙が一枚、テーブルの上にのっていた。


ケンカなんかしたことなかった……


電話もメールもつながらない。


なぜ、どうして……という言葉よりも先に、「また?」という言葉が、テーブルの上のメモを見下ろしながら、口をついて出たのが、自分で笑えた。


わたしから去っていく女の子たちは、みんながみんな、わたしがストーカーとなって化けて出るとでも思っているのか、携帯番号もメールアドレスも住所でさえも変え、跡形もなくきれいさっぱり消えてしまう。


……ふざけんな!


ふざけんな!


あたしはそんなに暇じゃない!……



床の上についた右手の指の先に、桜の花びらが一枚、たった今、風に置かれたように落ちていた。


開けているキッチンの窓から入ってきたのだろう。


素脚に床が冷たい……


わたしはキッチンの床に座りこんでいた。


こうやって、虎みたいに……虎が吼えるみたいに泣くのは何度目だろう……


咲いては散り、また咲いて散る……


桜は疲れないのだろうか……


シンク下のひんやりしたホーロー製の白い扉に額をつけてもたれた。


「あたしゃもう疲れたよ……」




二階の和室の窓を大きく開け放つと、ピンク色の海だった……


子どもの頃住んでいた家の庭に、三本の八重桜の古い大木があった。


お父さんもお母さんもお兄ちゃんもいて、みんなでその海を見て笑っていた。


ただ、ただ……笑っている……


記憶の中で永遠に散らない桜……


家族がそろっていた頃の最後の幸福な思い出……



ずっといっしょにいてくれるって……


ずっとずっといっしょにいてくれるって約束したのに!……


……嘘つき……


わたしの嘘つき……


そんな言葉、彼女の口から一度だって聞いたことはない……



顔を上げると、窓辺に置いてある赤いカフェオレカップが逆光で陰り、その背景に、きれいな水色の四角い空が見えた。


わかってる……


映画のDVDは本物の忘れものだけど、カフェオレカップはいらないから置いていったんだ……




ツイーツイー……と、高く鳴く鳥の声が耳に届いた。


明日は仕事だ。


いい加減にしないと、両目が土偶……で出勤することになってしまう……


わたしはシャツの裾を引っぱって顔をぬぐい、


「よっこらしょっ……」


と、立ち上がる。


左手につかんだままだった透明のプラスチックのカップに、ほんの少しピンク色のムースが残っていた。


わたしはスプーンでカップの内側に残っている生クリームやムースを丁寧にかき集め、口の中に運んだ。


ゆっくりと舌の上でその甘酸っぱい泡を溶かす……


もういい……


カシスアンドラズベリームースは、もういいな、と思った。


次は……


生クリームの下に、ビターチョコとミルクチョコのムースが層になった、ダブルチョコレートムース……


息を吐いた。


のどがまだ少し震えている。


……やっぱり……


ストロベリーアンドチーズクリームムースにしよう、と思った。





(了)

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IN THE MOUSSE 森さわ @morisawa

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