第3話



次の日曜、習慣で、朝七時に自然と目が覚めた。


彼女の仕事がシフト制で、土日に出勤になることが多いので、朝が弱い彼女を起こすため、休日でも七時には起きている。


当たり前だけれど……、胃がどうしようもなくもたれていた。


テレビのとなりに置いてある小さい引き出しの中に胃薬を探していて、あ、と思った。


彼女のお気に入りの映画のDVDが、デッキに入ったままになっていた。


リモコンの再生ボタンを押す。


イギリス映画で、映像の色に透明感があってとても綺麗な、ハッピーエンドの女の子同士のラブストーリー……


彼女がどこからか手に入れてきて、時間がある時、真面目な顔をしてくり返し見ていた。


可愛らしい女の子同士が顔を合わせては、ピンク色の頬と唇を寄せ合ってチュッチュッとキスしてばかりいる。


それがくすぐったくて、よくその女の子たちのマネをして、真剣に見入っている彼女の細い首に抱きついては、カフェオレ色のそばかすの散っている頬に、とがらせた唇をぶつけた。


「もうっうるっさ……」


彼女は笑いながらからだをよじって嫌がり、でも視線は画面から離さなかった……



たまらなくなって、DVDを止めた。


胃薬の箱が空っぽだったので、またベッドにもぐりこんでからだを丸める。



……なぜ……


なぜ、彼女はあの映画が好きだったんだろう?……


特別映画好きというわけでもなかった。


……好きだったんだろうか?


コメディ映画でもあるのに、彼女はクスリともしなかった。


ベッドの上にあぐらをかき、背中を丸め腿に頬杖をついた、テレビの画面を見つめる時の彼女の定番の姿。


折り曲げた指を唇にあて、眉根をひっそりと寄せるような表情で映像を見つめていた……



……そうだ!


夕食なんて大げさ……


ランチだ!


彼女を今日のランチに招待しよう!


ランチのほうが、招待される側からしてみたら、気楽でいいに違いない。


メニューはもちろんクリームシチュー、デザートはカシスアンドラズベリームース……


……仕事で疲れて帰ってくるかもしれない……


「ジャガイモがまだ溶けていない、つくりたてのさらさらのシチューが好き……」


スーパーに行かなきゃ……


ちょっといいお肉を買って……




「おじゃましまーす!本当に来ちゃいましたぁ……」


彼女が遠慮がちに言い、玄関でイエローのローファーを脱いで裸足になった。



「おいしー」


シチューを一口食べて、彼女がにっこり微笑む……



食後、ベッドの上に移動し、壁に寄りかかって二人並んで座り、ムースを食べた。


彼女は映像に見入って、一口食べたところでスプーンを止めた。


食事中からあの映画のDVDを、音声を低くして、見るともなく流したままにしていた。


今流れているのは、主人公の女の子が、自分が心から愛しているのは「元カノ」だと気づき、男性の婚約者にきっぱりと別れを告げ、小雨の降る街の中を愛する彼女を捜しまわり、スーパーマーケットでその彼女を見つけ、びっくり眼の彼女をお菓子の棚ごと押し倒し、カラフルなチョコレートやキャンディのパッケージの上で、二人笑いながらキスをくり返す……というラストシーンだった。


「……こういうの、どう思います?」


わたしは、彼女のベッドの上に投げ出された素足の、骨ばった繊細な足指や、青白いつややかな足の甲に見とれながら、聞いた。


「夢物語みたいですけど……、あるんでしょうね」


彼女が女子校出身で、バレンタインデーに同級生や後輩からチョコレートをもらったことがあるという話を聞かせてくれた。


中には、確か、真剣なものもあった、と言った。


「なんか、女の子にもてたってすごくよくわかります」


映画のエンドロールを眺めながら、彼女がふふっと笑い、


「女の子同士のキスって気持ちよさそう……」


と言ったあと、ムースを一匙、口に運んだ。


「試してみます?」


「え?」


彼女の白いのどがコクリと動き、ムースを飲みこんだ。


彼女のカシスの香りのする形のよい唇にそっと唇を近づける……


……と、その唇を強くへの字に曲げ、彼女が首を引き、そのしかめた表情のまま、何か言った……


「ほらっ気をつけろ!」


表で男の人の怒鳴る声がした。


……目が覚めた。


時計を見た。


もう十一時を過ぎていた。



外が騒がしい……。


ベッドから出て、キッチンの窓から外を見ると、引越業者の制服姿の人たちがアパートの階段で、声を掛け合いながら、斜めにした冷蔵庫を慎重に下ろしているところだった。


そのうしろで、黒のハーフパンツの裾下の、毛むくじゃらな日に焼けた脛が、足止めを食らっていて、


「何でエレベーターがないんだよ!住人が死んだらどうすんだよ!棺桶どうやって運ぶんだよ!」


と、ふざけ半分の不機嫌な声が聞こえた。


「ちょっと!声が大きい!」


あ!……と思い、ドアを開け、外に飛び出した。


荷物を抱えた人々の最後尾にいた、やはり荷物を抱えた彼女がすぐわたしに気づき、あぁこんにちは!と、きらきらの笑顔を見せた。


わたしの目の前を、先ほどの不機嫌な声の主の、白髪まじりの長い髪を首のうしろで一つに結ったサムライのような男性が、大きな観葉植物の鉢を抱え、ゆさゆさと葉を揺らしながら通り過ぎ、階段を下りていった。


「騒がしくしてすみません」


そのあとを、ダンボール箱を抱えた彼女がわたしのそばまで、トウシューズでも履いているかのような足取りでゆっくり下りてきた。


わたしはあわてて洗っていない顔をこすり、髪をなでつけ、短パンの裾を引っぱりながら、不思議な思いがして彼女の笑顔を見つめた。


魔法が解けていた……


金曜の夜と変わらない素敵な笑顔、昼間の光の中、まぶしいほどの笑顔なのに、まるで心に触れてこない。


「引越しされるんですか?」


「そうなんです。せっかくお知り合いになれたんですけど……」


弱い風が吹いて、前髪が彼女の左目を隠した。


彼女は器用に浮かせた左ひざと右腕で段ボール箱を押さえ、左手で前髪をかき上げ、その左手の薬指で指輪がピカリと光った……


「……えぇ残念……とても残念です……」


下の駐車場から、おい出るぞ、という声が聞こえ、彼女は、じゃ、と、わたしに笑顔でうなずき、ちょっと重いんだから待ってよ!……と、言いながら鉄の階段を下りていった。


重い……


わたしは自分の部屋に急いで戻りドアを閉めた。


表から、少しずれて二台の車のエンジンがかかる音がし、オーライオーライ……と言うトラックを誘導する慣れた感じの声が聞こえた。


「ぐっ……」


のどからうめき声が漏れ、手で口を覆い、唇を噛んだ。


両目から涙が噴出す……


「重い……」


彼女はあの朝そう言った。



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