手~まことの初恋~

加藤ゆうき

第1話花

 花は嫌い。

 あの女が纏っていた化粧品の臭いに似ているから。


 その中でもスズランはとくに嫌い。

 何か、嫌なことを思い出しそうだから。


 それなのに、あなたに出会ってしまった。

 「花が嫌い」など、言えるはずもない。


 私はただ、花と真剣に向き合う彼の美しい姿を眺めるしかなかった。



 五年前、私は父を失った。

 舌切り自殺だった。両腕がなかった父には、それしか自ら命を絶つ方法がなかったのだと思う。

 理由は分からない。私、田川たがわまことの保護監督者である吉田よしだ清仁きよひとでさえも教えてくれない。

 心配性であった父が遺したボイスレコーダーに記録されているはずもない。

 私はただ、父の遺産を凍結という形で守られ、児童養護施設の子どもたちに囲まれて淡々と日々を送るだけだ。

 あの女への復讐のチャンスがやって来るまで。


 ある日、私はいつもと違う帰宅路を辿っていた。

 理由はとくにない。ただの気紛きまぐれだ。

 そこで、パチン、パチン、という鋭い音が耳に入った。右側の垣根を越えた先からだった。

 かすかに男声が聞こえる。垣根に耳を傾けると、他にも「右?」「左?」という言葉が何度も出てくる。

 この垣根の先には何があるのだろうか。気になった私は枝の隙間を覗いてみた。

 するとそこには、初老の女性一人が花を持って寄り添っていた。私と年が近そうな男性に。

 男性は花を硝子ガラスを扱うように慎重に女性に手渡している。その姿に違和感を抱いた。

 そこまで花が大切であれば、なぜ片手で他人に手渡すのだろうか、と。

 それも、大半の利き手ではない左手で。

 私はどうも、些細な疑問であっても捨てることができない性質らしい。

 垣根の隙間から目を離せずにいた。

 どれくらい時間が経ったのだろうか。しばらくすると女性は男性から離れた。

 女性の気配が消えると、男性は垣根に近付いてきた。

 離れなければ、施設に帰らなければ、と思った。

 それでも私は一歩も動くことができなかった。

 「誰? そこにいるのは」

 男性には右腕がなかったのだ。

 初秋、世間では長袖を着る人が増えている中、彼の半袖は薄い紙のように宙をさ迷っている。

 私は父を思い出した。父は優しい声をしていた。誰、とたずねる彼に似ていた。

 父の優しさは声だけではない。性格も温厚だった。それゆえに、両腕がないことで常に第三者に気を遣っていた。腰が低いともいう。

 父のおかげで優しさ、心の温かさを知った。他人を想う気持ちも、父から教わった。

 人に尽くすことの満足感、相手を心配するゆえの怒り。挙げればキリがない。

 だからこそ、今でも父の死は受け入れ難い。私はただたちの悪い夢を見ただけなのだと思いたい。

 「君、泣いているの?」

 男性が訊ねた。鼻を啜る音から、どうやら私は涙を流していたらしい。

 毅然きぜんとした声で、私はから戻った。

 「どうして、泣いているの?」

 彼の姿さえ見なければ、無言で垣根から立ち去ることができたかもしれない。

 私はつい答えてしまった。

 「……辛いことを思い出してしまいました」

 詳細は言えなかった。言えるはずもない。垣根の向こうには顔すら知らない他人が立っているのだから。

 この時点で私が知っていることといえば二つ。

 一つは花の匂いをまとっていること。

 もう一つは、彼には右腕がないということ。

 たったそれだけだった。

 それなのに、どうして答えてしまったのだろうか。

 私は彼の右肩から目が離せずにいた。

 「理由は分からないけれど、それは悪いことをしてしまったね」

 謝罪の声も優しく、そして毅然としていた。誇りに満ちているようだ。

 「お詫びといっては難だけれど、僕に名乗らせてほしい。僕は高木たかぎれん雅号がごう高木たかぎ睡蓮すいれん

 「……雅号?」

 「僕は華道家なんだ」

 その体で花を活けるの? という疑問は浮かばなかった。さきほどの女性の声が過去の私の声に重なり、脳裏で再生されたからだ。

 私はかつて父の手となって日常生活の補助をしていた。

 あの女性も、もしかしたら五年前、十二歳だった私と同じ立場なのかもしれない。

 「疑問に思わないんだね」

 彼の声は軽やかだった。垣根で姿が隠れていると思っているのかもしれない。こちらからは数ヵ所の窓から見えているというのに。

 「理由がありませんから」

 私はできるだけ当たり障りのない言葉を選んだつもりだった。

 けれど彼はプッと吹き出した。

 「面白いことを言うね。気に入った。良かったらうちの中を見ていかないかい?」

 私は自分が花を眺める姿を想像してみた。

 それはただ一言、あり得ないと思った。

 「私……」

 花は苦手なんです。そう言おうとしたとき、彼は悲しそうに訊いた。

 「花が嫌いなのかい?」

 空の袖が静かに揺れた。かつて父が落ち込んだように。

 自分の気持ちに正直になれるはずがなかった。

 「い、いえ! 見せてください、お花!」

 「そうかい? ではその位置から右に回ったら、玄関があるから」

 今度は幼い子どものように嬉しさを隠さずに言った。

 こうして、私は彼と出会った。

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