第3話風

 「……え? も、もう一回言って。よく、聞こえなかった」

 一ヶ月後、私は耳を疑うような言葉を耳にした。

 「今週末、アメリカに行く。向こうで華道を広めるんだ」

 「どうして? そんな急に」

 ドクドク、と鼓動が激しくなる。自分でも分かるほど、私はひどく混乱している。

 小学生のとき、理科の授業でカエルの心臓解剖実験があった。心臓は他の内臓と独立しても、しばらくの間脈を打った。

 バラバラになりそうな私の心臓と同じだ。

 一欠片は驚き、もう一欠片は悲しみ、残りの欠片は名前も知らない感情。

 それぞれが独立した思考を持ち、彼の声一方に耳を傾けるのがやっとだった。

 「急ではない。以前から考えていたんだ。僕のような人間でも華道ができることと、華道そのものを伝えたいと」

 私とは逆に、彼は期待に満ちた目をしている。

 ツリ目の瞳は夕日を背に輝き、いくつもの壁を打ち砕くかのように胸を張っている。

 「なに、永住するわけではない。僕はこの家を継がなければならないからね」

 「そういう問題じゃ……!」

 「大丈夫。向こうの介護士も手配済みだから」

 「そうじゃなくて……」

 私は自分自身をもどかしく思った。彼と違い、思ったことを口にすることができない。

 その代わりに見えない何かが口から溢れてくる。に包まれると、あの女が去ったあの日を思い出す。

 「心配しないで。僕は必ず日本に戻って来るから。また会えるよ」

 彼は私の心を知っているのかしれない。それなのに、わざとらしく焦らす。

 「その頃は、きっと君も立派な介護士になっているだろうね。今はお互いに十七歳の高校生だけれど」

 彼は左手でそっとハンカチを渡してくれた。私は受け取ることができずに、ただ涙するしかなかった。

 彼がハンカチで目元を拭ってくれると、私の顔面は電流が走るようだった。

 涙が余計に溢れだす。

 「君、やはり泣き虫なんだね」

 「う……ぞんなごど、ない!」

 そうではない。私には言うべきことがあるはずだ。

 ただ一言、彼のようにストレートに言いたい。

 「鼻水まで垂らして……えーと、ティッシュはどこにあったかな?」

 彼の視線は波を打つように泳いでいる。

 私があまりにひどい顔をしているから見せるわけにはいかない。

 それでも相手の目が自分に向けていないことぐらいは分かる。

 彼は本当にティッシュを探しているようだ。

 私が欲しいものは、そんなものではないのに。

 「あ、あった。はい」

 彼の笑顔を見たのは、その日が最後だった。

 今さら風を掴んでも、何にもならない。

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