第2話鳥

 「違うよ、まことさん。日本の華道は左右非対称なんだ」

 「そんなことを言われても、難しいものは難しいよ」

 「弱ったな」

 偶然の出会いから一ヶ月、私は放課後のアルバイトが休みの日に高木家に通うようになった。

 そして今、間近で攻めてくる花の匂いと自分の美的感覚に苦戦している。

 「お疲れさま。そろそろ休憩したらどうかしら?」

 一ヶ月前、垣根から見えた女性、高木蓮の母親、高木たかぎらんがティーカップに紅茶を注ぐ。

 「あ、いつもすみません」

 私は慌てて蘭さんの手に自分の手を重ねる。自分でやるから、と。

 「良いのよ、まことさん。それより蓮は嬉しいのよ、初めてのお友だちができて」

 私はそれ以上突き止めなかった。すでに察していたからだ。華道家元の一人息子、それも五体不満足であれば、そこらへんにいる子ども近付こうとしないということを。

 「それに良い気晴らしになると思うのよ。この子、いつも製作ばかりで一日が終わってしまうから」

 蘭さんの笑顔は作りものではなかった。同じ女性だというのに、どこかの尻軽とは大違いだ。

 ときどき、私もこの人の娘に生まれていたら、どうなっていたのかと思う。

 花の匂いに慣れていただろうか。人を憎むことを知らずにいただろうか。

 けれど父と出会うことはなかっただろう。

 相変わらず、私の思考は暗い。

 それを自覚したのは、目の前にいる少年、高木蓮と出会ってからだ。

 彼は遠慮のない言葉から人に慣れていないことが分かる。それでも嫌味に聞こえないのは、彼の心が明るいからだ。

 彼は常に笑顔でいる。声のトーンも、男声らしくありながら高い。

 そうかと思えば、製作のときは声も表情も厳しくなる。

 相手が母親であってもお構いなしだ。

 彼の二面性は、私にとっては眩しい。決して近付くことはできないはずだ。

 それなのに、彼は私の暗い心を掴む。掴まれると苦しくなる。けれど息もできないほどではない。かえって心が踊りだす。

 そのせいかもしれない。私がこうして素手で花に触れていられるのは。

 「ねえ、まことさん。庭でお茶を飲まないかい?」

 チュン、と雀が鳴くと、彼はそう言い出した。

 「良いけれど、外は寒いよ?」

 「君は上着を羽織れば良い。僕は外に出たいんだ」

 彼は左手でティーカップを持ち、そそくさと縁側へ向かう。

 「仕方がないわね」

 同じ男性でも、彼以外の言葉であれば、宇宙語のわがままと捉えただろう。

 それがきちんと人間の言葉に聞こえるのだから、不思議だ。

 「持つよ」

 私は彼の右側に立ち、ティーカップの底を掴む。

 「ありがとう」


 夕方五時過ぎ、からすがカーカーと鳴いていた。オレンジ色の夕焼けに影ができたようだ。

 彼は影の動きを凝視していた。私の目を見ずにこう言った。

 「まことさんは僕の動きを把握しているね。慣れているとも言う。それに偏見もない」

 彼の声は珍しく枯れていた。風邪を引いたわけでもないのに。

 「……どうして、そんなことを言うの?」

 わたしはいまだに父のことを話せずにいた。それなのに「慣れている」と言われた。

 彼は勘が鋭い。華道という芸術に携わっていることも理由の一つだろうけれど、それにしては冴えすぎている。

 「誰か、存在がいたのかい? 今は確か、施設で暮らしているんだよね?」

 「そうだけど……どうして? 今日のあなたはいつもと違うわ」

 私が答えると、彼はしばらくの間口を閉ざした。

 カー、と烏が鳴くと、彼は左手を後方の縁側に着け、背中をのけ反った。

 紅茶はとっくに冷めている。

 「いつもと変わらないよ、何一つ」

 彼は相変わらず、烏を眺めている。

 「僕はいつも思う。もし両手に恵まれていれば、鳥になりたいと」

 「鳥? どうして?」

 これで何回目になるだろうか。私は「どうして?」を繰り返している。

 今日だけではない。この一ヶ月、私は私自身にも疑問を抱いている。

 決して華道に興味はないけれど、どうしたら彼と距離を縮められるだろうか。

 そもそも、どうして私は彼のことを意識しているのか。

 かつて私の母親だった女への復讐で頭がいっぱいだったのに、それすら薄らいでいるのは、どうしてなのか。

 あの女が取っ替え引っ替えしていた宇宙人と同じ性なのに、私と同じ人間に見えるのは、なぜなのか。

 私の疑問は許容範囲を越えそうだった。それでも謎は尽きない。

 今日、また一つ疑問が増えた。

 彼が鳥に憧れるのは、どうして?

 「両手が翼に変われば、空を飛ぶことができる。誰にも手を煩わせることがない」

 私は言葉を失った。同時に、この人も父と同じなのだと感じた。

 「けれど僕はこの体に生まれてしまった。それも両手が必要な華道家の子に」

 「……でも、あなたは花を活けている。相変わらず芸術にサッパリ向いていない私が分かるほど、素晴らしく」

 私はゆっくりと言葉を返した。嘘をついているのではない。私の顔を見ていない彼に、確実に届けるために。

 つまり、私は本心を告げた。初めて彼の家の中に入ったとき、花の匂いでむせるよりも先に、固唾かたずを飲んだ。

 一輪一輪の花が謙虚でありながら、花であることを誇らしく感じた。

 たった一つの壺に収まっているだけなのに、私の足元まで花畑が広がっているようだった。

 そのような魔法の手を翼に変えたいと言い出す。

 彼もまた、人なのだ。

 五年前の私が父と同じ血を求めたように、自分にないものを求めずにはいられない。

 このとき、私は初めて自覚した。彼に惹かれていることを。

 「そう言う君は、介護士に向いているようだね。気が利くし、何より人の心を理解しているようだ」

 「そう?」

 彼が声を発するたびに、私の心は空を飛ぶようだった。

 鳥のように。

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