生きるために仕方ないこと(8/8)
教会が角にあるT字路を曲がり、緩い坂道を下っていくと総武線のガードが見えた。ドライバーが左右を気にしながら徐行する狭いトンネルだ。
俺はそこをくぐり抜けて線路沿いを歩く。
青果市場が近くにあるため、早朝なのにトラックが忙しく行き交っていた。昼間のような活気で、クラクションやバックを知らせる電子音が一日の始まりを告げている。
歩行者優先道路の住宅街に入り、喧騒が遠のいた頃、動物の声に気づいた。
立ち止まり、耳をすますと、それが猫の鳴き声だと分かる。
他の音で容易にかき消されてしまうくらい、か細く、断続的なものだが、誰かを探す感じの、何かに助けを求める声だった。
電柱や建物に絡まる糸をたぐりよせる要領で、声のありかに近づいていく。
やがて、二軒の一戸建て住宅の間に段ボール箱を見つけた。
建ぺい率ギリギリに設計された家と家の隙間は、人ひとりがかろうじて入れる幅で、排水溝に向けて雨樋が下がっている。滴る水を避けるためか、箱は底の部分を地面から50センチほど高い位置にして、左右の壁にぴったり納まっていた。真横から見ると、稼働中のエレベーターみたいだ。持ち主が雨風(あめかぜ)を防げるジャストサイズな場所を見つけ、置いていったんだろう。
それぞれの家の前には、水を入れたペットボトルが3本ずつ、猫避けとして置かれている。
俺は手提げ鞄を地面に置いてしゃがみ、井桁状に閉じられた段ボール箱を恐る恐る開けてみた。
子猫だった。
モルモットほどの大きさ。全身が黒色で、生まれたばかりなのか、立ち上がる方法を習得していないようだ。
外光の侵入に気づくと、野球ボールより小さい頭をこっちに向けて、盛んに鳴き始めた。まだ両目も開かず、体を前後左右に動かすだけで、四方の障害物に抵抗できないでいる。
隙間から離れ、俺は辺りを見回した。
ジャージを着た男がそばを通ったものの、イヤホンの音楽に集中して少しも気にかけない。
何も見なかったふりで、段ボールの蓋を閉めかけると、子猫は懸命に縁(へり)に手を伸ばした。
無力な小動物の「強い意思」に驚き、俺は思わずレスキューに動く。
箱は何年もそこにあるふうに壁から外れるのを拒み、両腕で何とか引き出した。
そして、少しの思案の末、路上に置かず、公園まで運ぶことにした。
目的地に繋がる神田川沿いの遊歩道は目と鼻の距離なのに、鞄を脇に挟みながら段ボール箱を抱え歩くのは意外に大変だった。
公園のベンチで子猫の安否を確認すると、そいつは移動してきたことをまるで理解しないそぶりで体をくねらせた。
それでも、環境の変化を感じ取ったのか、数分もしないうちに鳴くのを止め、俺の耳に届くのは体が箱にぶつかる音だけになった。
ひと仕事終えた達成感で深呼吸し、タバコと使い捨てライターをベンチに置く。
陽が昇り、遊具がはっきり見えるくらいになった。薄い光がブランコの金属部分で頼りなく反射している。
俺は冷めたソーセージマフィンにかぶりつく。
固形物のがさついた感触が喉元に残り、半分食べたところで、メール画面に妻のアドレスを表示した。
「俺、管理職になるよ。いま、子猫と公園にいる」
何の前置きもなく、それだけ書いて送ってみた。
返事はしばらくないだろう。お腹の子と眠ってる時間だからな。
でも、起きたらすぐにメールを送ってくるだろう。そして、そこには、正直で的確な言葉が並んでいるんだ。昔の明日香みたいに、いつでも、必ず。
この街での出来事が「思い出」検索に残るよう、俺はスマホをしまい、コンビニに向かうことにした。
ミルクか水でも買わなきゃな。
喉が渇いたから?……違うよ。
子猫のためだ。
おわり
■単作短篇「生きるために仕方ないこと」by T.KOTAK
短篇小説「生きるために仕方ないこと」 トオルKOTAK @KOTAK
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