生きるために仕方ないこと(7/8)
返す言葉がなかった。
説明するのもバカらしく、真実を知らせても面倒になるだけだ。
「あなた……人違いしてるんでしょ? どうして……」
女の声色がだんだん弱まり、鼻がひくりと動き、唇が歪み、両方の目から涙があふれ出る。まるで、親友の訃報でも聞いたみたいだ。真顔から泣き顔に変わる人間の表情を、俺は初めてリアルに見た。
「あの人は、わたしのお父さんです……だから、変な噂を立てないでください!」
絶叫に近かった。命乞いって感じだった。すがり声が耳にこびりついた。
底意地の悪い、確信犯だったらザマーミロだが、そんな奴は人前で泣かない。
俺は黙って背を向けた。得体の知れない、不条理な罪悪感に腹を立てながら。
それにしても、なぜ、「わたしのお父さん」なんて言ったのか……1年後に理由が分かった。
女がグラビアアイドルで表紙を飾る漫画雑誌を、偶然見つけたんだ。
キャッチコピーは「とれたて果実、本誌初登場!!」。ページにはリゾート地で撮影された写真が並び、かなりきわどい水着姿だった。
驚いたよ。思わず、「あっ」って声を出したくらいだ。
「変な噂を立てないください!」も納得できた。
当時、女はタレントデビューを目指してたんだろう。カメラマンとの色恋はご法度だ。
女が俺を呼び止め、涙ながらに自分の思いを訴えたのは、生きるために仕方ないことだった。
あの晩、浮気調査に失敗した俺は、この通りをとぼとぼ歩いて帰った。
家に着くと、部屋の灯りがすっかり消え、明日香の姿はなかった。テーブルの上に、「帰るね」の書き置きだけ。エアコンで暖まった空気が、無人になってからまだ間もないことを知らせていた。
電話でもメールでもなく、直筆の文字を残したのが妹らしい。昔からそんな奴だ。
新大久保の駅から300メートルほど西に直進すれば大久保駅がある。
それぞれの駅に停車する山手線と総武線はどっちもJRだから、駅を繋げればいいのにな。この街に住んでたときと同じ考えが頭に浮かんだ。
辺りはまだ暗いが、あと30分もすれば、通りを行き交う人々の呼吸が日常に溶け込むはず。
自転車が走り抜けていく脇で、俺は足を止める。
街のランドマークだったシティホテルがIT企業の研修センターに変わり、小滝橋通りの交差点にあったコンビニも別の店になっていた。
懐かしのマンションは昔と変わらぬ佇まいだが、かつての俺の部屋で別の家主が寝息を立てていると思うと、なんだか不思議な気分だ。自分の意思でこの街を離れたのに、同窓会名簿から名前が消された疎外感。
電線に止まっていたカラスがゴミ置き場に急降下し、食べ物をついばんで飛び去っていく。
公園を目指して、俺は大久保通りから住宅地の奥まった場所に入る。
結局、明日香は離婚した。
俺が職を得た後も、何度か会ったり、連絡を取り合ったが、いまはそれも減った。カメラマンとの顛末については知るよしもない。雑誌やテレビで、あのグラビアアイドルを見かけることもない。
……そう、実は一度だけ、「探偵物語」を妻に話したことがあるんだ。
結婚記念日に、ららぽーとのイタリアンレストランで食事したときだ。
「女の人は、本当にカメラマンの娘だったんじゃないの? 別居している父親と会うのが禁じられてたとか……」
俺の口元にパスタソースが付いていることをジェスチャーで知らせながら、妻は言った。
「だったら、自分の娘と別れるふりしたり、タクシーで逃げる必要ないだろ」
状況を生々しく思い出して、俺は反論した。
「違うわ。ケンカごしの男に詰め寄られたら、誰だって大切な娘を避難させるでしょ。それに、前の家族には明日香ちゃんとの結婚を内緒にしてたのかも」
黙ったままの俺を見て、妻はそれ以上続けず、話題を変えた。
娘だったのか、浮気相手だったのか、いまとなっては分からない。明日香が俺の報告を待たずに帰った理由……俺の部屋で旦那と電話で話したかどうかも分からない。
いずれにせよ、女が自分の人生のために俺に懇願し、カメラマンの男も自分の人生のために妹から離れていった――それだけが事実だ。
(8/8へ続く)
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