生きるために仕方ないこと(6/8)
◇
懐かしい道を久しぶりに歩くと、公衆電話が減ったことに改めて気づいた。よく利用した電話ボックスも姿を消している。
その「カメラマン事件」の頃は、ツイッターもフェイスブックもなく、見知らぬ人間と簡単に繋がれない時代だった。
他人との関わりが希薄だった俺は、誰かと話す機会が極端に少なかった。だから、心臓もあれだけバクバクしたんだろう。
カメラマンの女は美人だったよ。
ぶっちゃけ、明日香よりも見た目は魅力的だった。
20代前半……いや、ひょっとすると未成年だったかもな。大人の女というより、大人になりかけの女って雰囲気で、「かわいい」から「きれい」へ移りゆく間だった。
女は何かを耳打ちされた後、「じゃあね」と小声で男に言い、俺の前から去って行った。
容疑者と二人きりになった俺は、どぎまぎする胸の内を隠し、徹底交戦のつもりで開き直った。
月の写真を見たこと、アルタ前から尾(つ)けていたことを偽りなく告げ、明日香が恋人なんかじゃなく、妹なことを証明した。
最初のうち、男は疑いの目を向けていたが、「あんたの奥さんと不倫してたら、こんなとこに来ねぇだろ」ってセリフに納得して、塩をかけられたナメクジみたいになった。
そうして、明日香に電話しようとする俺を制し、何も言わずにひとりでタクシーに乗り込んだ。敵前逃亡。
……俺は呆然とした。
立ち尽くすってのは、あんな様を言うんだろう。
浮気の証拠どころか、こっちの正体を明かしただけで相手を取り逃す失態。
部屋で待つ明日香に連絡する気も起こらず、俺は来た道を引き返すことにした。
手ぶらじゃ帰れないので、せめて、奴らの密会場所を写真に残そうと思ったが、その考えが間違いだった。
立ち去ったはずの女が和食屋の前にいて、携帯電話を耳にあてていた。
出会い頭の事故に遭ったみたいに、俺はひるんだ。
そして、タイミング悪く、目と目が合ってしまった。
落ち合うはずだった男から電話がきて、予定が急きょ変更された――おそらく、そんな展開だろう。
俺は店の撮影を諦め、女の存在を無視して歩き続けた。知らぬが仏。何事もなかったように。
「ちょっと、待ってよ!」
突然、甲高い声が背中に響き、タクシーや黒塗りの車が行き来する通りで立ち止まるのを余儀なくされた。
デコラティブな扉の横で、キャバ嬢のパネルが妖艶な瞳を俺に向け、黒服の男が訝しげに様子を窺っている。
「……あなた、何なんですか?」
女は肩で息をする感じで、気丈に言葉をぶつけてきた。刺々しい口調ながらも、「あなた」「ですか?」なんて丁寧語から、「こいつはそんなに悪い女じゃない」と瞬時に判断した。
「何でもねえよ」と俺。
「いきなり現れて、いったい何のつもりですか?」
「……何のつもりもねえよ」
ヒステリーに火をつけないよう、ポケットに手を突っ込んだまま冷静に応えた。
新宿の路上で警察沙汰はごめんだ。通行人には、恋人同士の痴話喧嘩くらいに思ってもらえば御の字だった。ぶっきらぼうな対応でも、俺は怒り心頭なわけじゃない。むしろ、女には同情する気持ちもあった。
「あなた、誤解しているでしょう?」
「誤解?」
相手の言葉を反復して、問い返した。
「不倫とか愛人とか……そんなんじゃないから。あの人、独身です!」
(7/8へ続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます