生きるために仕方ないこと(6/8)


懐かしい道を久しぶりに歩くと、公衆電話が減ったことに改めて気づいた。よく利用した電話ボックスも姿を消している。

その「カメラマン事件」の頃は、ツイッターもフェイスブックもなく、見知らぬ人間と簡単に繋がれない時代だった。

他人との関わりが希薄だった俺は、誰かと話す機会が極端に少なかった。だから、心臓もあれだけバクバクしたんだろう。


カメラマンの女は美人だったよ。

ぶっちゃけ、明日香よりも見た目は魅力的だった。

20代前半……いや、ひょっとすると未成年だったかもな。大人の女というより、大人になりかけの女って雰囲気で、「かわいい」から「きれい」へ移りゆく間だった。


女は何かを耳打ちされた後、「じゃあね」と小声で男に言い、俺の前から去って行った。

容疑者と二人きりになった俺は、どぎまぎする胸の内を隠し、徹底交戦のつもりで開き直った。

月の写真を見たこと、アルタ前から尾(つ)けていたことを偽りなく告げ、明日香が恋人なんかじゃなく、妹なことを証明した。

最初のうち、男は疑いの目を向けていたが、「あんたの奥さんと不倫してたら、こんなとこに来ねぇだろ」ってセリフに納得して、塩をかけられたナメクジみたいになった。

そうして、明日香に電話しようとする俺を制し、何も言わずにひとりでタクシーに乗り込んだ。敵前逃亡。

……俺は呆然とした。

立ち尽くすってのは、あんな様を言うんだろう。

浮気の証拠どころか、こっちの正体を明かしただけで相手を取り逃す失態。

部屋で待つ明日香に連絡する気も起こらず、俺は来た道を引き返すことにした。

手ぶらじゃ帰れないので、せめて、奴らの密会場所を写真に残そうと思ったが、その考えが間違いだった。

立ち去ったはずの女が和食屋の前にいて、携帯電話を耳にあてていた。

出会い頭の事故に遭ったみたいに、俺はひるんだ。

そして、タイミング悪く、目と目が合ってしまった。

落ち合うはずだった男から電話がきて、予定が急きょ変更された――おそらく、そんな展開だろう。

俺は店の撮影を諦め、女の存在を無視して歩き続けた。知らぬが仏。何事もなかったように。

「ちょっと、待ってよ!」

突然、甲高い声が背中に響き、タクシーや黒塗りの車が行き来する通りで立ち止まるのを余儀なくされた。

デコラティブな扉の横で、キャバ嬢のパネルが妖艶な瞳を俺に向け、黒服の男が訝しげに様子を窺っている。

「……あなた、何なんですか?」

女は肩で息をする感じで、気丈に言葉をぶつけてきた。刺々しい口調ながらも、「あなた」「ですか?」なんて丁寧語から、「こいつはそんなに悪い女じゃない」と瞬時に判断した。

「何でもねえよ」と俺。

「いきなり現れて、いったい何のつもりですか?」

「……何のつもりもねえよ」

ヒステリーに火をつけないよう、ポケットに手を突っ込んだまま冷静に応えた。

新宿の路上で警察沙汰はごめんだ。通行人には、恋人同士の痴話喧嘩くらいに思ってもらえば御の字だった。ぶっきらぼうな対応でも、俺は怒り心頭なわけじゃない。むしろ、女には同情する気持ちもあった。

「あなた、誤解しているでしょう?」

「誤解?」

相手の言葉を反復して、問い返した。

「不倫とか愛人とか……そんなんじゃないから。あの人、独身です!」



(7/8へ続く)

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