生きるために仕方ないこと(5/8)

……そう、「探偵物語」の途中だったな。

喫茶店で[容疑者タカシ]を待つ間、俺は自分の行動をシミュレーションした。

店に別の出口がない限り、ターゲットは必ずまた現れる。和食屋のビルは正面以外は他の建物に面した立地だったので、刑事ドラマもどきの逃亡劇はないだろう。

問題はその後だ。

もし、奴らがホテルに入ったら、その時点で俺のミッションは完了なのか。あるいはさらに2時間待って、コトの後に捕まえるべきか。

張り込み開始から1時間半。堂々巡りの考えが結論づかないうちに事態が動いた。

道を挟んで正面から見る女は、想像していたより幼いルックスで、いくら若作りなカメラマンでも年の差があり過ぎると思った。

席を立ち、慌てて身支度したせいで、首元まで締めかけたジャンパーのファスナーがシャツの一部を噛んでしまう。手を動かしながら急いで店を出ると、冷気が痛烈に肌を刺した。

歩行者は数えるほどで、目標に難なく近づけた分、心臓がカラータイマーみたいに激しく打つ。

ラブホテルは歩いてすぐの距離なのに、奴らはあらかじめルートを決めていた足取りで、反対の方向を目指した。

バッティングセンターを併設したゲームセンターだ。いや、ゲームコーナーを持ったバッティングセンターか……どっちでも構わないが、そこは歌舞伎町の外れにある、突飛なスポットだった。

遅れて入店した俺は、五十過ぎのオッサンよりも場に馴染み、保護色の昆虫みたいに姿をくらますことができた。

ミッキーマウスのUFOキャッチャーを容疑者たちが楽しむ傍らで、俺はゲームを選ぶ仕草で室内を回遊した。マシンに金を落とし、ホンモノの客を装うべきだが、経費に余裕がない。

複数のゲーム機が並ぶコーナーはコンピューター音が鳴り続け、親子が一組、リュックを背負ったオタクっぽい男がひとりいた。

大胆にも、俺はターゲットとわざとすれ違ったり、横顔をさりげなく見て、親族的に「義弟」の男をようやくモンタージュした。

ギロリとした二重瞼の目と存在感のある鼻。それに季節外れの浅黒い肌が生命力の強さを誇っている。

女と笑い、しきりに会話を交わすそいつを見て、俺は怒りを抑えきれなくなった。

明日香を裏切り、旨いもん食って、若いネエちゃんとイチャつくオッサンにハラワタが煮えくりかえったわけだ。

そして、経過報告しようとケータイを開いたとき、奴らは出口に向かった。ゲーセンの奥から早足で追いかける俺。

路上に出たところで、男は気配を感じたらしく、足を止めて振り返った。

視線が合う。

わずか2、3メートルの距離。

相手は俺を見て、一瞬たじろいだ。まるで、昔どこかで会ったが、名前を思い出せないといった表情だ。明日香が俺の写真を見せたことがあるのかもしれない。

「あのさ……」

俺はとっさに言葉を発した。

思いがけない展開に、シナリオを忘れた。いま思い返せば、沈黙に耐えられなかったってのもある。

男の隣で、きょとんと首をかしげる女。

「……あんたの奥さんが連絡を取りたがってるよ」

究極のアドリブ。声が上擦り、心臓が飛び出しそうだった。

今度は男が首をかしげ、女は異星人に遭遇したような立ち姿だ。

「明日香だよ。あんたの奥さんだ。いま、俺の家にいる」

「キミはなんだ?」

「俺は……俺は明日香の知り合いだよ」

「知り合い? 恋人か?」

槍みたいに尖った声で、男は一歩前に歩み出た。

情けないことに、俺の両足は地面に接着して離れない。正直に「兄」と名乗らず、「知り合い」とごまかしたこと、俺の家に明日香がいると言ったこと――不倫疑惑が俺の方に矢印を変えてしまった。

完璧なミス。オセロの駒がいきなりひっくり返された状況。

「……俺は、明日香の兄だよ」

「兄? 知り合いなんだろ?」

浅黒い顔を上気させ、タカシという男は眉をしかめ、野太い声で迫ってきた。身長はあまり変わらないのに、かなり上から見下ろされた。

ギロリとした目は想像上の邪悪な生き物みたいで、油断すれば飛びかかってきそうだった。

奴は何かを言いかけて止め、女に体を近づけて耳打ちした。

車道側から吹きつけた風が、足もとのピンクチラシを近くの駐車場までさらっていき、それでも足りない様子で路上のアルミ缶を転がした。



(6/8へ続く)

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