第三章 Sheol
第16話 拘束
まず覚えたのは頭の強烈なぶれだった。脳細胞のシナプスが空中に浮遊しているような感覚。遠い昔に失ってしまった手足の感覚が戻ってくるようだった。
次に感じたのは下腹部と、自身の体に張り付く体温だった。己のものではない体温に疑問が浮かぶ。誰かが自分の体に触っているとでもいうのか。
三番目が顔にかかる吐息だ。断続的に吹きかかるそれは、高い興奮状態にあることを悟らせた。
ぽつり。熱い体液が頬にかかった。
虚脱感が体中に満ちていた。
目を開く。黄金の髪の毛が揺れている。
見れば、相手は服を纏っていなかった。
「はぁ~………おはよう。げんき? 痛いことしてごめんなさいね」
「く、 ぁ」
声を上げようとして気が付く。肢体の感覚がない。意思を伝えれば動くこの世でもっとも忠実な下僕は、今まさに手と足の付け根の先で冷たくなっていた。バッテリー切れだった。いくら踏ん張ろうと付け根しかない腕と足では、よちよち歩きが関の山だった。
自らも服を剥がれていた。腹部には皮製のベルトが巻きついており、手術台に乗せられているようだった。
濃密な香り。人生において少ない回数かいだ記憶のある香り。下腹部に張り付く気だるさに思わず呻いた。
「………どけ」
ラックは言うと、髪の毛を振り乱す姿にぎりぎりと牙を剥いた。
視界一面に映りこんでくるのは女の姿だった。同年代。白い肌に金色の髪。爛々と輝く金色の瞳。黄金のような女だった。
女は吐息を荒くしてラックの上に乗っていた。肢体が動かず、腹を結ばれて身動きもままならぬ男の上に。
「お久しぶり。こう分かるかしら」
「誰だ貴様。どけ。殺すぞ」
ラックが短く吼えた。牙をむき出し、女の喉首にかじりつかんばかりだった。
そして見た。金髪というのは染め毛に過ぎず、頭頂部に赤い髪の毛がちらついているのを。生傷のような痛んだ赤い色。見るものの視線を奪う独特な色合いだった。
赤い女。記憶に合致するのは一人しかなかった。しかし、その女は昔死んだはずだったのだ。
「ウェヌス……お前なのか……?」
「えぇ。ご名答」
ウェヌスと呼ばれた女はにたりと微笑んだ。
―――ウェヌス。ラックの両親と同世代を生きた王族最後の一人。王権を巡る戦いの果てに追放された哀れな女だった。ラックとは遊び仲間の幼馴染であり―――ラックが肢体と心臓を失う羽目になった事故の責任を負わされた人間だった。真実はもはや分からない。当事者とも言われるウェヌスの両親と親族は既に無く、そして最後の生存者であったウェヌスは雪原に追放されてしまったのだから。
幼いラックには政治がわからなかった。ウェヌスと別れねばならないことが辛かったのだ。なぜ何も知らないウェヌスが追放されるのかと最後まで言葉という武器でエバーグリーンを統べる老人達に立ち向かったのだ。老人達は首を振るとただの子供に過ぎないウェヌスを雪原へと追いやった。生命が生きていけるような環境ではない極寒の地獄へと。それは死刑宣告に等しかった。
ウェヌスの両親はアルバーク一族を完全に葬り去ろうとしていたに違いなかった。証拠の隠滅を図ろうと全員を殺すつもりだった。しかし、奇跡的にラックが生き残ってしまった。
いつしかウェヌスという女の記憶も薄れていく。十年以上の年月が経過した。時折思い出しても、白亜の世界に銃一つ持たず投げ出されたウェヌスが生きているはずが無いのだと、諦めていた。
だが、目の前にその女がいた。凍傷も、切り傷も、やけども、打撲傷も、曇り一つ無い白い肌を晒している。記憶が正しければスタジアムのシャワールームで鉢合わせした姿とほぼ同一だった。
なるほど、と納得する。
「はめられたのか……あの
「
「久しぶりというべきなんだろうが。再会の嬉しさが沸いてこない。スタジアムで嘘の情報を流したのがお前なら、俺たちをはめたのもお前か。最初に言っておく。俺には時間が無い。お前とおままごとしてる時間なんざないんだ。縄を解け、ブチ殺すぞ」
「あははは本気で言ってるの? 本当に鈍いんだねぇ。忘れっぽい。シャワールームで肌を見せてあげても気が付かなかったくせに――――クククッ……」
女がぞっとするような目をした。深淵の果てを見てきたような暗い瞳だった。金色の瞳はしかし濁りきっていた。汚泥を掻き分け泥水を啜って生きてきたことを悟らせた。地獄を見たのだろう。ラックの地獄が檻の中の鳥ならば、女の地獄は針地獄だったに違いない。
女が―――ウェヌスがラックの首を掴んだ。首輪が嵌っている。振りほどくこともままならない。人形のようにもてあそばれるだけだ。
「逃がすわけが無いじゃない。こんなに深く愛しているのに……」
「どうかしてるのかお前。強引な女は嫌いじゃない。無理矢理な女は嫌いだ。理解したか?」
「ぜんぜん? 意味わかんない」
「あぁそうかい。どけ。ベルトを切れ。扉を開けろ。要求は三点。
「知ってるしってる。みんなが甘いんだって」
「クソったれ」
言葉は通じている。話が通じていない。違う文化圏の人間と話しているようだった。
雪原を彷徨うということは、地獄を歩くに等しいことだ。装備を整えた上でならまだしも、ろくに武器も食料も無いまま放り出されたとすれば、正気を失ってもおかしくは無い。ラックの知るウェヌスという気の弱い女の子は既に死んでしまったのだろう。正気を失っているということは、理性以外の全てを失ってしまった状態であるという。生き残る為にありとあらゆるものを犠牲にしてきたなれの果てが己に跨っていた。
ウェヌスが吐息を漏らす。ラックの頬にぽつりと唾液がかかった。暗い瞳はここを見ているようで見ていなかった。どこか遠くを見ているようだった。恍惚とした狂気に一瞬理性が飲まれかける。どうやら妙な薬品を嗅がされたのか飲まされたのか体の火照りが止まらない。いいではないか。きっと眼前の女は自分の命尽きるまで優しく世話をしてくれるだろう。極寒の大地に命がけで漕ぎ出していくほうが狂っているのだ。心臓のことも事情を話せばきっとなんとかしてくれるだろう。
意識が朦朧としていた。混濁していたのだ。視界で踊る女の姿は背筋が凍るほどに艶やかで、淫らで、原始的な欲求をかき鳴らすようだった。しかしそれは、蛇の毒のように対象者の神経を麻痺させるものだ。受け付けてはならぬものだ。
わかっていても、ラックは言葉による反撃を試みるしかなかった。何せ体は相手の思うままなのだから。
「二人だけの時間を楽しまなくっちゃあ……ね? 悪くは無いでしょう……」
「ぐっ………ううぅッ……」
呻く。生命力を根こそぎ持っていかれるような感覚。押し寄せる波に翻弄されるがままの木の葉の如く。
「ぐ………くあっ……あっ……!!」
心臓が怪しく波打った。動作不良。不整脈。全身があの世側に持っていかれる灼熱の苦痛。胸から伝わる違和感に呼吸が乱れる。
というのにウェヌスは手加減をしない。根こそぎ全てを略奪せんとばかりに口に口を合わせた。ぬるりと侵入してくる舌を吐き出すこともままならない。不整脈が沈静化していく。ぐったりと虫の息になったラックの耳元にウェヌスの赤い唇がぴたりと寄り添った。
「心臓のことも知ってる。修理なんて諦めて―――“繋いで”あげる。そうすれば死ななくて済む」
「………ハァッ………はぁっ……っあ……」
わけが分からないと首を振るラックへ、ウェヌスは室内の隅に人差し指を向けた。
「人を生かしたまま保存する手段は失われて久しいけど――まだ、世界には残されているの。私たちが忘れてしまった時代のものがね。素敵じゃない? 装置にさえ繋がれていれば死なないで済む。あなたの不完全で壊れ気味の心臓を外してアレに繋げば―――生きていける。ずっとね。寿命尽きるまで。これをあなたのためにくみ上げるのにずいぶんと時間がかかったわ。必要経費もね。だけど、払うだけの価値はあった」
なるほどとラックは思った。従属せよと言っているのだ。その禍々しい装置を見て直感した。この場所に足を踏み入れたのか誘拐された哀れな犠牲者たちは、この装置の実験台にされたのだと。そして装置につながれたら最後、装置抜きでは生きていけなくなるのだと。
「余裕ぶっこいていられるのも………今のうちだ。俺の仲間が……救助に向かっている」
「ないわね。こっそり抜け出してきたことは知ってる。だってエバーグリーンからずーっとつけてきたのよ? 仮に救助があるとしてもエバーグリーンからここまで何日かかるのかしら」
ウェヌスがあざ笑う。見下すような目つきではなく――おいたをした子供を叱り付けるような生ぬるい感情の宿った瞳でラックを見つめていた。
ラックは思う。ニュークとリリィはどこで何をやっているのだ。手も足も出ないならば彼ら彼女らに救助してもらえねばならない。引き伸ばすのだ。ウェヌスが自分を装置にくくり付けて自分だけの人形に改造させないように。
「クソ……されるがままと思うなよ!」
ウェヌスが甘く鳴いた。
幾星霜のスノーホワイト 月下ゆずりは @haruto-k
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。幾星霜のスノーホワイトの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます