第22章 瓜二つの少女
アサトがリオネールと失踪してから17日が経過していた。失踪の噂はリベルターに留まらず瞬く間に全世界に広がり、人類のファングへの反感は強まっていた。
リベルターを中心に彼女の捜索は継続されているが、依然行方は掴めていない。息潜める彼女はファングの目の届かぬ下町の花屋で、人間となんら変わらぬ生活を送っていた。
晴天の下、色彩豊かで芳しい花が並ぶ小さな花屋前には十人ほどの若い女性の人だかりができていた。その中心にいるのはリオネールだ。彼は顔がいいこともあり、花屋周辺の女性らの人気者になっていた。彼が店頭に立てば、こうして人だかりができるのは当たり前のようになっていた。
女性らの黄色い声援を慣れた様子でかわすリオネールの視界の端には、店前でマスクをしたアサトが素手で掌サイズの雪だるまを黙々と創作している。指先は赤く染まっているが、当人はちっとも気にしていない。
しかもせっかく綺麗な丸に仕上がったそれを投げ捨て破壊するという奇行に出る始末。彼女のそんな行動をリオネールは微笑ましく眺めていた。
夕暮れ、カミラが店仕舞いをする店前でアサトとリオネールがゾウやライオンなどの小さな雪像を創作していると、一仕事終えたルイ、デューク、スズネが訪れた。彼らも無事職に就くことができ、仕事終わりにはこうしてアサトの様子を窺いに来るようにしていた。
ルイらを発見したカミラは彼らに紙コップに淹れたコーヒーを振る舞い、仲睦まじく雪遊びをするアサトとリオネールを見つめていた。
「ほんとあの二人ったら仲良いのよ~。リオちゃんが店番してくれてる時もアサちゃんったら、必ずリオちゃんの目の届く範囲にいるし。二人で出掛けることも多くて、なんだか可愛いのよね~。
それにほら見て、アサちゃんがしてるペンダント。リオちゃんがプレゼントしたのよ、いいわね初々しくて~」
うっとりした顔で饒舌に話すカミラの言葉にルイらがアサトに目を向ければ、確かに彼女の胸元にはペンダントが飾られていた。
スノードームのペンダントだ。澄んだ水の中でクリスタルでできた薄紅色の桜の花と花びらがゆらゆらと踊るシンプルな物。夕陽に煌めくそれは彼女の不思議な魅力を駆り立てているようにスズネには感じられた。
彼らがカミラと談笑を楽しんでいると、不意にスズネが「あーっ!」と大声を上げ、ルイもデュークもひどく驚いた。
そんな彼らをよそにスズネが駆け寄ったアサトは雪遊びに飽き、あろうことか偶然目にしたネズミを捕獲し大口を開け胃袋に納めようとしていた。すかさず彼女を言葉で阻止したスズネに命を救われたネズミは、あたふたと近くの家屋の軒下へ消えて行った。
ぼんやりとネズミを見送るアサトにスズネが、あれは食べちゃダメだと教え込む。親子のような姉妹のような彼女らを眺めるルイらの元に、リオネールが歩み寄った。
「まったく、彼女はよっぽどアサトのことが好きみたいだね。アサトもまんざらじゃなさそうだし妬けちゃうなー」
肩を竦め苦笑するリオネールを尻目に、ルイが言いづらそうに開口する。
「この一週間、あんたとアサトを見てきて思ったんだけどさ、あんたってほんとにアサトのことが好きなんだな」
「あれー? 今さら気付いたの?」
「いや、なんつーかさ、アサトにさんざん付きまとってるし、最初はストーカーかよって思ってたけど」
ひどいなぁと笑うリオネールを一瞥したルイは、今度は雪を口に入れようとするアサトを慌てて阻止するスズネと彼女に目を向けた。
「あんたとアサトの過去を知って、正直全部信じたわけじゃねぇけど、あんたがアサトを好きな気持ちは本物だって分かった。じゃなきゃ天敵のファングの前に何度も現れねぇよな」
危険を冒してまで何度もアサトに会いに来たリオネールの心情を今になってようやく知ることができたルイは、相変わらず微笑みを浮かべている彼を真摯に見上げた。
「俺らはこれからもグリムを狩る。けどそれはあくまで〈人間を襲うグリム〉が対象だ。今は見逃すけど、あんたが次に人間を襲う素振りを少しでも見せたら容赦なく狩るからな」
「うーん、それは構わないんだけど、もしアサトが人間を襲ったら彼女も狩るの? 友達なんでしょ?」
「そん時は全力で止める」
リオネールが素朴な疑問を投げ掛けると、ルイはなんの迷いもなく強く言う。
彼の山吹色の瞳を見つめ、リオネールは小さく溜め息を吐く。
自身以外がアサトを特別視していることが煩わしくて仕方なかったのだ。彼女に想われるのも想うのも自身だけでいいと理不尽に思案する彼は、何かと彼女に近付く邪魔なルイらに密かに殺意を抱くが、今殺すことはしない。
リオネールにとって彼らは赤子のように脆弱で、その気になればいつでも殺せる存在。
今殺せばお気に入りのこの花屋が汚らわしい赤で汚れてしまうのは彼にとって本意ではなかった。だから彼女に近付くことをもう少しだけ我慢してやろうと妥協することにした。
瑠璃色の空に星が散りばめられた澄んだ夜に、アサトとリオネールは肩を並べ花屋周辺を散歩していた。
露店が並んだ通りをのんびり見回りながら二人だけの時間を過ごす今この瞬間が、リオネールにとってかけがえのないものだった。
今は花屋に厄介になっているが、特別な出来事などなくても、決して裕福な生活ではなくてもアサトと生きる一瞬がとても愛おしいのだ。ずっと続けばいいのにと切実に思っていた。
そんな叶うはずもない夢を抱いているリオネールの横で、アサトは興味深く食べ物の露店を見回していた。犬のように嗅覚を研ぎ澄ませ、肉が焼ける芳ばしい匂いに鼻をひくつかせていると、露店を見回る人波の一部で彼女の視点が定まる。
黒いマントにフードを目深に被ったアサトと同じくらいの背丈の少女は人波の渦中に佇み、彼女を真っ直ぐ見つめていた。露店の灯りに照らされた少女の顔を目にしたアサトは愕然とし動きが停止した。
なぜならその人物の顔がアサト自身と瓜二つだったからだ。
ほんの数秒見つめ合っていた二人だったが、少女は踵を返すと人波を掻き分け小走りで去って行った。無意識に少女の後を追うアサトが隣にいないことにリオネールが気付いたのは数秒後のことである。
アサトは前方を走る少女を追っていた。少女の速度はアサトにとっては遅く追いつくことは容易なのだが、彼女はそうしなかった。時折彼女の様子を窺うかのように振り返る少女の様子から、撒く気はないのだと分かったからだ。
まるでどこかに誘われているかのようにアサトが感じ始めた時、少女の足が完全に停止した。
露店通りから二百メートルほど離れた人通りのない住宅地。わだちが伸びる路上のど真ん中、点滅する街灯の下で彼女らが互いの酷似した顔を見つめ合っていると、少女の背後から一人の男が現れた。
真っ白でオールバックの髪に鼻の高い年配の男は、そこにいるのが当然であるかのように少女の横に並んだ。
ただならぬ雰囲気を醸す二人を警戒するアサトに、少女は笑い掛け、フードを取った。頼りない街灯の下、ウェーブの掛かった焦げ茶色の髪が肩に落ち、淡藤色の大きな瞳がアサトを見つめる。
「こんばんは、アサト。私はフィオナ・カンナギ。そなたと同じくグリムである。
今日はそなたから奪った大切なものを返すために会いに来た」
その若い容姿に似合わない古風な口調で言われた言葉は一部アサトには理解できなかった。今さら誰がグリムであろうと驚きはしないが、フィオナと名乗る少女は自身から何を奪ったのか思い当たる節はない。
そもそも自身と瓜二つの顔を持つ相手など一度会ったら忘れるはずもないのだが、アサトに彼女の記憶がないことは今が初対面ということなのか、記憶喪失以前に出会ったことがあるのかも判断がつかない。
脳内でいくつものハテナが浮かび始めたアサトの心情など知るよしもなく、フィオナは再び開口する。
「一つ確かに言えることは、我々はそなたの敵ではないということだ。警戒するでない」
そう言うとフィオナと男は目配せし合い、男はアサトに歩み寄った。伸ばされた骨ばった両手に身を引くアサトだったが、その動作は無駄に終わり、男は無遠慮に彼女の頭を板挟み状に掴んだ。
そうなれば彼女はパニック状態になるだけで、なんとか逃れようと男の手を揺さぶり引っ掻く。両側からサンドイッチのように頭を潰されるんじゃないかと懸念を抱くアサトに構わず、男の手の力は強まる。
過呼吸になり苦しむ彼女を一瞥した男は目を閉じる。すると男の掌が白光を放ち、アサトの脳内に吸い込まれるようにして消えていった。解放されたアサトは雪上にへたり込み、額から大粒の汗を噴出させながら自身を抱きしめている。
彼女の脳内では不可思議な現象が生じていた。脳内に吸い込まれるようにして侵入した白光はぐるぐると円を描きながら散り散りになり消えると、彼女に映像を見せ、知識を与えた。
それは彼女が失った遠い昔の記憶そのものだったのだ。とても重要な情報でもあるそれを忘れていたことに彼女が愕然としていると、フィオナが男の隣に歩み寄った。
「その記憶はラファエルが……この男がそなたから奪った記憶なのだ。一部にしかすぎないがな。
本来なら返したくはなかったのだが、状況が芳しくない故苦肉の策に出るしかあるまい。
我らに問いたいことが山ほどあるとは察するが、今は答える気は皆無だ。だがいずれ我らの知る全てを公にしよう、どのような形であれな」
無情に淡々と語るフィオナを見上げているうちに、アサトの呼吸も整い始める。フィオナの言う通り、アサトには確かに質問したいことがあったが、フィオナが答える気がないと宣言した以上実行するだけ無駄なのだろうと悟る。
さて、と前置きをしたフィオナを見つめながら立ち上がるアサトはでん部に付いた雪を払い落とした。
「記憶が戻ったところでそなたに伝えたい。その記憶がどれほど重要で、どれほどの危険を意味するか理解できることだろう。そして、己が何をすべきか。
そなたには酷なことだろうがな、あと37日しか猶予が残されておらぬ」
フィオナの言葉の意味を嫌というほど理解できてしまうアサトは目元に影を落とし俯いた。濁流のように押し寄せる感情から目を背けたい衝動に駆られるがフィオナの視線がそれを許さぬとでも言うように絡み付く。
「改めて言葉にしよう。
アサト・カンナギ、全グリムを従える紅蓮の王よ。世界を破滅に導く咎人・リオネールを殺すのだ」
抑揚のないその言葉は、アサトを深淵の闇に突き落とすには十分すぎるほどの威力を秘めていた。人工的に得た体温が冷めていくような感覚にふらついた彼女はレンガ塀にもたれ掛かる。目頭が熱くなり、胸が締め付けられるように痛い。
記憶を忘れたままリオネールと共に平凡に生活していたほうが幸せだったとアサトは悲観していた。
世界が破滅し、誰が死のうと彼女にはどうでもいいことだった。そんな理由で彼を殺すことはしない。だが、彼を殺さなければならない理由も記憶と同時に知ってしまった今、いくら心が悲鳴を上げ拒絶しようと殺すしかないのだ。
彼女自身がやっと見つけた生きる理由も失うことになる。ただリオネールと共に生きたい、誰もが叶えている他愛もない願いですらアサトには叶えることが許されないのだから。
降り始めた雨が積雪を溶かしていく。フィオナとラファエルは意気消沈し去り行くアサトの背中を神妙に見つめていた。
「彼女は彼を殺しますかね?」
ラファエルがそんな疑問を投げ掛ければ、フィオナは「さあな」と答える。
彼らはアサトの過去を知る人物、記憶喪失であれ彼女がリオネールを特別視していることは分かっていた。彼女にリオネールを殺すようけしかけたものの、彼女がどう動くかは本人以外分からないことだ。
「我らは我らにできることをしよう。ファングへ行くぞ」
雨に打たれ、宵闇に消え行くアサトの背中を見送ったフィオナとラファエルは彼女とは逆方向へと去って行った。
幻世の花笑み 月影星矢 @tukikageseiya
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