第5話 君とエレクトロニカ
あのデートの日からもう一週間が経った。僕らの関係は明らかに明日に向かって歩みを進めていた。まるで魔法にかかったかのように、まるで磁石になってしまったかのように、僕らは毎日毎日惹かれ合った。失われた6年間を取り戻すかのように体に触れ、心に触れ、そして思いに触れていた。
赤く燃え上がるストーブの中を覗き込み、石油の匂いに思わず咳き込んでしまうような朝。目を覚ましてみると、既に雫が台所で料理をしていた。あのデート以来、雫は僕より早く起きるようになり、そして朝ごはんを作ってくれるようになった。眠気を振り払うかのように大きいあくびをして、タバコに火をつける。
「おはよう」
「うん、おはよう。今日も僕より早いね」
「たまにはね、それよりだし巻き卵を作ってみたんだ。食べてみてよ。」
普通のカップルが当たり前にするようなことを、僕らは6年間付き合って初めて経験することが出来ているような気がした。熱くて甘い、黄色い幸せを噛みしめる。
「美味しい」
「なんか、コツが掴めてきた。」
雫はこれまでほとんど料理をしたことがなかったらしく、最初の頃はもうそれはそれはひどい食べ物を食べさせられた。塩辛い卵焼き、どうしたら作ることが出来るのか今でも理解できない真っ黒焦げな味噌汁、水分の量を間違えてふにゃふにゃになった白米。そしてやっと、今日、まともに食べられる卵焼きを作ることに成功したようだ。
窓の外に目をやると、相も変わらず雨が振り続けている。今日は土曜。雫は仕事が休みなようだが、あいにくこの雨のなか出かけるというのはとても労力がいる。お互い同じ気持ちのようで、朝食を終えた後はベッドの上でゴロゴロしていた。
「あ、今日納期の曲、作らなきゃ」
「どんな曲を作っているの?」
「今はエレクトロニカな曲を作っているよ。聞いてみる?ほとんど完成してるし。」
「聞きたい!」
快活な返事を耳にした僕は、熱く滾る衝動に突き動かされるように体を起こしパソコンへと向かった。電源ボタンを押し、5分ほど待機する。マウスのカーソルを二度クリックし、作曲ソフトを起動した。灰色の画面に浮かぶ色とりどりにマーキングされたトラックたちを見てると、この雨の降り止まない街で生きる僕らを見ているようで少し笑いがこみ上げる。
「いつ見てもわけわかんないや。どうなってるの?これ」
パソコンの画面を覗き込んだ雫が問いかける。このデータの羅列がどうして1つの曲になっているのか理解できないらしい。
「説明してもわからないよ。難しいからね。」
「なにそれ」
「まぁまぁ。じゃあ、再生するよ」
少し不機嫌そうな雫の顔を見ながらスペースキーに手をかける。再生ボタンが緑色に光り、拍数を示す縦線が動き始める。
70年代を彷彿とさせるような可愛いドラムのループにエレキピアノの音がコードを奏で、8小節を過ぎた頃にベースと歌が入ってくる。歌の邪魔をしないようにところどころ細いシンセサイザーの音が裏メロを奏で、楽曲に厚みをもたせる。
Aメロの終わりにはバスドラムが小刻みに震えだし、Bメロに差し掛かると同時に呼吸を止める。ピアノと歌だけの静かな旋律が続き、少しずつ盛り上がりを携えて、サビへと向かう。
サビで転調し、曲調がガラッと変わり始める。Aメロ、Bメロとは裏腹に、繊細でありながらも力強いメロディが部屋中に鳴り響いた。
「…どう?」
「よくわかんないけど、いいんじゃない?」
「自信無くすなあ…」
結構気に入っていた曲なだけに、雫の反応を見て少しがっかりする。もっと「凄い!」「とても良い!」などと言ったリアクションを期待していたからだ。しかしここで落ち込むようではまだまだ。ここからミックス・マスタリングを済ませて音源を提出だ。
────────────────
「ふぅ。完成かな~」
大きなため息と共に体を背もたれにあずけてのけぞりかえる。
「お疲れ様」
そんな僕を見かねた雫がコーヒーを淹れて持ってきてくれた。白く巻き上がる湯気を見ていると、いつも幽体離脱を連想してしまうのが僕の悪い癖だ。
「ありがとう」
コーヒーに手をかける前にタバコに火をつける。タバコの煙とコーヒーから上がる湯気が混ざりあって一つの鼠色となった。時間を見てみると既に17時。あれから4時間ほどノンストップで作業していたようで、それに気づいた時突然空腹が襲ってきた。
「夕飯、作らなきゃなー」
「ふふふ、今日はなんと、私が夕飯を作っていたのだ」
「え、本当?全然気づかなかった」
「ずっとヘッドフォンしてたからね~。話しかけても聞こえてないようだったし。暇だったから作っちゃった、生姜焼き。」
「おお、しかも生姜焼きとはわかってるね。どれどれ」
椅子から立ち上がり、キッチンへと向かう。漂ってくるのは生姜の匂い。あれ、醤油は?肉を焼いた時特有の香ばしい匂いは?生姜の匂いしかしないんだけど…。嫌な予感を抱えながらフライパンを覗き込む、と同時に僕はむせ返ってしまった。
「ちょ、ちょっと、なにこれ?!」
「何って、生姜焼きだけど…」
………
……
…
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
生姜焼きというよりも、生姜そのものだった。生姜をそのまま食べているような気分だった。なんで雫はこれを平気で食べられるんだ?どう考えても僕とは違う味覚をしている。そんな自問自答を繰り広げていると、雫が白いカプセルを手に取り、水と一緒に口に流し込んだ。
ゴクン。
大きなノド鳴りと共に僕の中に一つの疑問が浮かび上がった。
「雫、なんの薬飲んでるの?」
「あぁ~これね。別に大したものじゃないよ、気にしないで」
おそらくビタミン剤か何かだろう。雫は普段から美容に気を使っており、毎日化粧水と乳液は欠かさないし、髪の毛のケアもそれなりに徹底している。最近は少し太ってきたと言っていたので、おそらく代謝を良くする薬か何かだろう。
「あ、そういえば」
「どうしたの?」
ふと何かを思い出したかのように、雫が僕の方を振り返り質問を投げかける。
「さっき聞かせてくれた曲、なんて曲なの?」
「あー、まだ決まっていないんだ。」
「そうなんだ、決まったら教えてね」
「もちろん」
雫に質問されるまでてっきり曲名の存在を忘れていた。曲の顔とも言えるタイトルを何故忘れてしまっていたのか。自分の間抜けさにがっかりしながら曲名を連想する。あの曲は、雨の降り止まないこの街を題材にした曲なのだが、なかなかいいタイトルが思い浮かばない。
あれこれ妄想しているうちに疲れがどっと押し寄せてきた。倒れ込むようにベッドに横たわり、枕に顔を埋める。雫と僕の匂いが混ざった得も言えぬ匂いに包まれながら、深い深い夢の中へと沈んでいった。
コバルトブルーに染まる街 カレーは甘口派 @arukamiya
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