第4話 ラッキーストライクを燃やして

「やばいね」


「うん、やばい。」


雫とのデート当日。僕らは家の中から外を眺めていた。今日もいつものようにこの街には雨が降り続いているのだが、今までと違うことが一つだけあった。


「どうする、これ。」


僕らの嬉々とした心とは裏腹に、豪雨、豪風、雷、僕らに嫉妬した雨雲達がいつも以上に猛威を奮っていた。その豪雨のせいで、駐車場に置いてあった車が少しずつ流されていたのだ。この街の終わりを心の底から実感した瞬間だった。時計の針は11時を指している。僕らは既に支度を終え、レインコートを羽織っていた。


「いや、行こう。この街、もうダメかも。」


雨に濡れたくないという気持ちに負けそうになったが、意を決して勢いに身を任せるかのように口を開いた。僕の言葉から感情を読み取った雫は、不安と決意の入り交じる表情で小さく頷いた。


「レインコート、傘、長靴、他に雨対策で持っていけるものある?」


「ない」


「だよね」


一見コントのようなやり取りをして、僕らは玄関のドアを開ける。瞬間、地響きかと言わんばかりの風切音と打ち付ける雨の欠片が僕らを襲った。ここまでひどい雨風はいつぶりだろうか。いや、今までに体験したことのないものだった。


「あと一年って…ハァ…ハァ…本当に持つのかよ!」


「そんなの…わからないよ!!」


散弾のように打ち付ける雨の中、僕らは車へと走った。たった2m離れた相手に話しかけるにも大声を張り上げなければ行けなく、どんどんと体力が削られていった。駐車場の定位置から3mほど流されてしまった車の鍵を開けなだれ込むように車の中へ突っ込む。車のドアを締めた瞬間、雨音から静寂に耳の焦点が変わった。


「うわービショビショだよ。先が思いやられる…というかこれ、車少し浮いてない?」


「いや、大丈夫。夜中がひどかったみたい。今は水が盆地に流れててなんとか地に足ついてる状態だよ」


「じゃあ、びしょ濡れの中申し訳ないのですが、雫さん運転お願いします」


「はいはい」


恥ずかしながら、僕は27歳になったというのに車の免許を持っていない。それどころか原付免許すら持っていないので、運転はいつも雫に任せっぱなしだ。車に鍵を差し込み、右に軽くひねる。エンジンが入ると同時にカーナビが僕らに語りかけてきた。


『目的地を設定してください』


「あれ、最初はどこだっけ?」


「小学校だよ。スーパーナカムラまで行けば僕が案内するから」


「了解」


カーナビに目的地という餌をやり早速車を走らせた。この街の交通状態はもはや壊滅的、あらゆるところから水が吹き出し、木々の破片が道に転がっていたり、時には標識が折れていたりする。電車もほとんど機能していないので、この街では車移動が基本中の基本だ。こうやって外に出てみると、よくこんな街で生活しているな、という気持ちになる。


車に乗り込み一段落ついたところでタバコに火をつける。僕がいつも吸っている銘柄はラッキーストライクなのだが、雫はこの匂いがどうしても嫌いらしい。車という密室で吸ってしまえば、間違いなく嫌な顔をされるだろうが、依存症というものは非常に怖いもので、後々雰囲気が悪くなるということを頭に入れながらもついつい吸ってしまう。


「臭い」


「そういうと思った」


「ラッキーストライク、嫌いだって言ってるでしょ。服に匂いが染みちゃうじゃない」


「帰ったら洗濯しよっか」


案の定、雫には嫌な顔をされた。適当な返事で場をもたせつつ、ぷかぷかと浮かぶ煙に新たな煙を吹きかける。トントントンとイライラを表すかのようにハンドルを指で小刻みに叩く雫の顔を見てみると、眉間にしわが寄っており、いかにタバコが臭いものなのかを表情で語っていた。


『200メートル先、右方向』


『1.5キロメートル、道なりに進む』


『400メートル先、○○街道を左方向』


『目的地周辺です。案内を終了します。』


40分ほど車を走らせ、目的地のスーパーナカムラに到着した。ここからは僕がナビ代わりだ。


「えーと、次の信号、右。坂道があるからそこ暫く登って」


「あのカーブミラーを右に、すぐ丁字路があるからまた右」


「そこから暫く道なりにまっすぐ。あそこの駄菓子屋で左」


「曲がったら右折出来る道が2つあるから、2つ目を右」


「あそこの駐車場に止めて。」


数十年ぶりに来る母校だと言うのに、登校ルートははっきりと覚えていた。幼少の頃に通いつめた6年間の記憶が、頭のなかに強く根付いているらしい。少し砂利になっている駐車場に車を止めエンジンを切る。


「ここが悠の通ってた学校?」


「うん、小学校だけどね。」


「ずいぶん小さいね。生徒どれくらいなの?」


「一学年ごとに40人だったから、240人くらいかな?」


「えー、少ない。私の小学校。全校生徒1000人はいたよ」


雫と過去の話をするのは本当に久しぶりのことだった。同時に、僕は雫の過去についてほとんど何も知らないということに気づいた。あまりお互いに干渉しないように歩んできたからなのか、地雷を踏むのが怖かったからなのか、僕が彼女の過去を聞くようなことはなかったし、彼女が僕の過去を聞いてくるようなこともなかった。


故に、彼女の過去の一部を知ることが出来て嬉しい気持ちすら感じた。僕らの関係は本当に薄い薄いもので、だからこそ長い時間癒着していられているようだった。暫く車の中で雫と他愛もない会話をしていると、校門から先生と思われる人が出てきた。物凄く必死な表情で車に向かって全力疾走をしている姿を見ていると何故か笑いがこみ上げてきて、相手に失礼だと思いながらも、雫と2人で笑った。


「あはは笑 ねえ、今みた?すごい顔だったよね笑」


「見た見た、おかしかったけど僕らもあんな感じに必死なんだろうな笑」


2人で一緒に何かを見て笑うなんてことが本当に久しぶりだったので、なんだがこれまでの曇った心が一気に晴れていくように思えた。それはおそらく雫も同じで、僕らは一気に心の距離を縮めるかのようにたくさん話した。もちろん、過去のことも。


「雫ってさ、出身どこなの?」


「え、知らなかったっけ?私は長野だよ。原村ってとこ、凄い田舎なんだけどね。」


「全然知らなかったな。長野か~。諏訪と松本と軽井沢しか知らないや」


「普通はそうだよ。私のところは諏訪郡原村というところだったんだけど、凄く空気が澄んでてね。だからこの街にやってきたときはびっくりしたよ。空気の味って本当にあるんだ~って。」


「えーそうなのかな、この街から殆ど出たこと無いからわからないや…。」


「タバコをやめたらわかるかもよ?」


もうこの段階で、デートを決行して正解だったと強く思った。雲間から光が差してくるように、ホコリまみれのガラステーブルを拭いたときのように、心のなかが晴れやかになった。物凄く幸せな気分になり、そして同時に、この時間がとても愛おしく思え、そして会話のきっかけとなったこの小学校が雨に沈んでしまうことがひどく悲しいことに思えた。


「ちょっと踏み込んでみていい?」


僕は勇気を振り絞って雫に問いかける。


「いいよ」


雫は快く受け入れてくれた。


「正直、僕に対してどう想ってる?」


ずっとずっと気になっていたことだ。相手の心に迫るのが怖くて、自分が傷つくのが怖くて、ごまかし続けた感情を雫にぶつける。1日の中で会話するのは1時間にも満たない、ただご飯を提供し、部屋を綺麗にし、おかえりを告げ、たまに欲求のはけ口になる機械と化していた僕に対して、果たして雫はどう思っているのだろうか。


「じゃあ私も踏み込むね。正直悠のことはさっぱりわからない。私さ、今まで悠の心に迫るようなことは避けてきた。だって何考えているかわからないし。でもね」


「でも?」


「今の質問で、なんだか馬鹿らしくなっちゃった。だって、悠も体裁を気にするんだって。悠みたいにさ、寡黙で自分のことを話すこともなくて、それでいて相手に迫ろうとしない、そんな人って、自分がどう思われていようが関係ない、って思ってそうでしょ」


「確かに」


「でも吹っ切れちゃった。何よ今更、僕のことどう想ってる?って。何も想ってないわよ。怖かっただけ。失礼なことを言って捨てられるたりするんじゃないかって。6年も付き合ってて馬鹿みたいだよね、私。」


「馬鹿なのはお互い様かなあ」


「だからさ、これから時間をかけて埋め合わせ出来るといいね。」


もはや、数時間前の僕らとは完全に別人となっていた。仮面夫婦のような陰鬱とした雰囲気だったのが嘘みたいに、話が絶えない楽しい車内になっていた。雫がこんなに生き生きと喋る人だったのかと、驚きを隠せなかった。失われ続けていた人として大切な感情がパズルのように蘇っていくような気がしたと同時に、この6年を振り返って、胸がチクチクと痛みだした。


予想以上に小学校で時間を使ってしまったため、当初のスケジュールは大きく崩れてしまい、僕らは家に帰ることにした。車のエンジンでさえ、朝より生き生きしているように思え、僕らはとても単純な感情に生かされているんだと思えた。




再び雫の隣でラッキーストライクに火をつけてみた。


「臭い」


「そういうと思った」


朝と同じ会話。でも、息を吸うと強く光る火種のように、心は確実に熱くなっていた。

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