第3話 土砂降りピチカート
朝。それはこの街にとって、私達にとって、とても意味のあるものだった。代わり映えしない当たり前の光景が私たちの安息だった。窓の外側で今日も延々と降り続ける灰色の涙を気にもとめず、六畳一間の狭い部屋でタバコに火をつけ、虚ろな瞳で虚空を見つめている彼を見ていた。
「ん、おはよう。」
「おはよう、今日は早起きだね」
少しタバコくさい朝。彼と顔を合わし朝の挨拶を済ませる。朝の顔と言わんばかりの煙草の煙が優しく私を包み込む。この街では、レインコートが必須だった。毎日のように降り続ける大雨に、私たちは為す術がなかった。ただただそれを受け入れ、雨が上がる日を待ち望みながら、いつもどおりの日常を送る。自然の前において、人間というのはあまりにも無力だ。
いま目の前でタバコをふかしている彼は、芹沢 悠(せりさわ ゆう)。いつも私より先に起き、窓の前でタバコを吸いながら大粒の雨を眺めている。何を考えているのかあまりわからない男だ。彼と私は交際関係にあり、すでに6年が経過した。6年という長い月日を共に過ごしているにも関わらず、彼のことをあまり知らない。いや、知ろうとしていない、というのが正しいだろうか。
「今日も降ってるね」
「また記録更新したらしいよ。」
「そう」
このように、私から話を振ってみても、会話が長続きしない。父と娘のようだ。果たして彼が私のことをどう思っているのか、このままの関係でも良いのか、知ることが少し怖かった。その結果、6年間の間ズルズルと同じような毎日を過ごしている。私は彼についてあまりにも知っていることが少ない。
『政府より特例の緊急避難速報です』
テレビから流れてきた音声に引き寄せられるかのように、彼はテレビの方に目を向ける。その彼の視線を追いかけるようにして、私もテレビに目を向けた。黒服を身にまとった首相が何やら重々しい口調で言葉を紡ぐ。
『数ヶ月前より続く、XX町の豪雨ですが、』
ああ、またこの話か。
『このまま行くと、後1年で水没します。直ちに避難してください。』
『繰り返します、このまま豪雨が続いてしまうと、あと1年でXX町は水没してしまいます、直ちに避難してください。』
そんなこと、わかっていた。毎日のように記録を更新し続ける降水量。既に盆地は水没し、完全に水中都市と化していた。そんな状況を今まで放置していたのは政府の方ではないか。今になってアナウンスするのは、あまりにも遅すぎる。どうして今更。
数か月前から降り続けるこの豪雨、私は少しだけ、ほんのちょっとだけ好きだった。嫌なことも全部洗い流してくれるような気がして、雨に当たるとスッキリする。どうせならこのまま降り続けて、全て洗い流してしまえばいい。そんなことすら思っていた。しかし、彼は違うだろう。彼はこの雨を鬱陶しく思っており、そしてこの街から出たいと思っているのであろう。
「引っ越さないとね」
私は彼に気を使うように、彼の顔色を伺うように、静かに口を開いた。
「どこに行こうか」
彼もそれに応えるかのように、静かに言葉を紡いだ。どこがいいって?そんなのは決まっている。
「雨の降らない街が良いな」
雨の降らない街なんか在るはずがない。皮肉を込めた一言だった。どの街にいても、この星にいる限り雨に打たれ続ける。それは紛れもない事実だった。
そうこうしている内に時計は7時40分を指していた。いけない、早く支度しなくちゃ仕事に遅れちゃう。
「あ、やば。もうこんな時間、仕事が始まっちゃう」
「朝ごはん、できてるから。」
「ん。」
私は彼と、必要最低限の会話だけを交わして仕事の支度を始めた。シャワーをあびている時間などなかったし、どうせ浴びたところで雨に濡れてしまうのだから、霧吹きで寝癖を整える。そして顔を洗い、軽く化粧をする。リビングに戻ってみると、美味しそうな朝ごはんが用意されていた。白米に焼き魚、きゅうりの漬物に味噌汁といったザ・朝食と言ったメニューだ。
うん、今日も美味しい。
それを口に出せばいいのだが、どこか強がってしまう自分に屈してしまい、口に出せずにいた。しかし、毎朝のこの食事が私の仕事に対するモチベーションになっていることは紛れもない事実。正直、彼より私のほうが収入が多いため、こうやって家事を任せているのだが、どれも女の私より完璧にこなしていた。
「じゃあ、行ってくるね。」
「うん、行ってらっしゃい」
ガチャン。
無機質な音を立てて鉄製のドアが影を遮る。カバンから鍵を取り出し、鍵穴に差し込み、ぐるりと回す。出発だ。
急ぎ足でエレベーターに向かい、1階のボタンを押す。動きを止めたエレベーターから追い出されるようにしてエントランスに躍り出て、傘をさし、車へと向かった。車まで雨にさらされることになるので、ここからは時間との勝負だ。いかに早く車にたどり着くことが出来るかで、仕事のやる気が変わってくる。
ざあざあと降り続ける雨に向かって体を投げ、一目散に車へと走り出した。自主的に飛沫を上げている水滴を置き去りにするかのように、慣れないハイヒールで地面を蹴り飛ばした。残り5メートルあたりになったところで遠隔操作のキーで車の鍵を開ける。車にたどり着くと無心でドアに手をかけ傘を肩と首で持ち、車に滑り込むと同時に傘を閉じる。今日は満点だ。
生きた証を残すかのようにぽたぽたと滴る水滴を横目に車にエンジンをかけ、職場へと向かう。私の仕事は一般的な事務。何も代わり映えしない普通のOLだ。
ドーン
車を走らせた直後、近くで雷の音が大きく鳴り響いた。これは近いぞ。なんて思いながら家の中にいる彼のことなんか気にもとめずにハンドルを回す。この街は車社会。雨でぼやけた赤いブレーキランプが花火のように自己を主張してくる。
会社につくと携帯がブルっと震えた。画面を見てみると「芹沢 悠」の文字があった。一体どうしたんだろう、忘れ物でもしてしまったのだろうか。パスワードを解除しメールボックスにたどり着く。
『ねえ、明日さ、デートしようよ。』
彼からのメールに、不本意ながらドキドキしてしまった。この街に雨が降り出してからというものの、私たちは一度も外に出てデートらしいデートをしたことがなかった。タバコの煙に包まれながら、手持ち無沙汰の不安感を埋めるようにして私たちは常に体を重ねていた。
『良いよ。ちょうど土曜だし。なんだか改まってデートだなんて、どうかしたの?』
正直、あまりにも唐突な誘いだったせいで、彼が何かを企んでいるのではないかと疑ってしまった。一体どういう風の吹き回しなのだろう。
『水に沈む前に、見納めしたいと思ってさ。』
なるほど。そういえば忘れていた。この街は後1年で沈むんだった。あまりにも当たり前の事すぎて、頭のなかに根を張ることができなかったようだ。
『なんだか、ドラマみたいだね。』
数か月前から降り続けるこの豪雨、私は少しだけ、ほんのちょっとだけ好きだった。雨の中でのデートがドラマみたい?それを聞いて笑う人がどれくらいいるだろうか。少なくとも私は本心だった。
スマートフォンの電源を切り、座席に座る。
いつもよりも心が軽やかな朝礼を迎えた。
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