第2話 イエローブーツがはしゃいでる

どれくらいの時間眠っていたんだろう。季節はもう12月というのに、ひどく体が汗ばんでいた。悪夢でも見たようだ。時計に目をやるとまだ11時過ぎ。あれからどうやら2時間ほど眠っていたようだった。スマートフォンに目を通し、仕事をするためにパソコンへ向かう。人間、眠ってみると意外と気持ちが切り替わるようで、今朝の萎えた気持ちはどこかへ吹き飛んでいた。


びゅんびゅんと吹き付ける風に窓が軋む。パソコンの画面に向かって猫背で座り込み、無言で淡々と曲を作っていた。曲のタイトルはどうしようか。とりあえずまあ今はいいや。僕はまず作曲をする時、ドラムから打ち込む。楽曲のベースになる楽器だからだ。小気味よいスイングの効いたエイトビート、いや違う。スイングジャズのようなノリの良いドラムか。いや違うな。結局ドラムはハーフテンポのスロービートで打ち込んでいくことにした。


暫くドラムの打ち込みに専念していると、スマートフォンがブルッと震え、画面には「雫」の文字があった。雫からのメールにはこう書かれていた。


『明日何だけど、何時くらいに家を出る?』


うーんどうしようか。正直さっき二度寝したから夜更かしするのは間違いないとして、それを踏まえた上で14時位に出発か?いやでも、昼を過ぎてしまうと気持ちが萎えてしまうかもしれない。久しぶりのデートだし、たくさん遊べるように体にムチを打って少しはやめに家を出よう。


『じゃあ、10時位には家を出よう。まず通っていた小学校に行きたい。そこから適当にぶらついて、お昼ごはん。その後は都心に出て少しブラブラしながら帰り際に商店街に寄って買い物をして帰ろう。寄り道も色々したい。』


久々のデートだからか、それとも見納めという気持ちからか、いつも以上に気合を入れてプランニングをした。果たして雫がどう思うのか少し疑問だが、最初に見納めしたいということも伝えているし、大丈夫だろう。


「さ、続きやろう」


そう独り言を零し、再びパソコンに向かう。イントロは冬らしく少し寒さを感じるように寂しい雰囲気で作っていくことにした。この曲のコンセプトは雨。決して止むことのないこの街の雨を象徴した曲だ。イントロのドラムの打ち込みが終わり、次にベースに手を付ける。


曲を作っているときは楽しかった。それが沢山のお金になるということは決して無いのだが、それでもすべてを忘れて曲作りに没頭しているときが何よりも楽しかった。そうこうとイントロの展開に悪戦苦闘していると、気づいてみれば時計の針は18時を指していた。行けない、雫の仕事が終わる時間だ。


パソコンの電源を切り、台所に向かう。今日の夕飯は生姜焼きだ。雫が次の日も仕事だと、生姜焼きは臭いと文句を言われてしまうのだが、明日は休み。2人の好物の生姜焼きを作って大盤振る舞いだ。


まず熱したフライパンに胡麻油を注ぎ込む。程よく油をなじませて、玉ねぎを投入だ。甲高い音を鳴らしながら玉ねぎが飴色に染まっていく。頃合いを見てお肉を投入。お肉に火が通ってきたら塩コショウをまぶし、しょうがを溶かした醤油と味醂をフライパンに注ぎ込む。気持ちのいいリズムでフライパンを返す。具材とタレが良い感じに混ざりあえば生姜焼きの完成だ。お手頃かつ美味しいという何ともコスパの良い料理だ。


ガチャ


30分ほど料理に時間を使ったところで、ドアの開く音が聞こえてきた。雫が帰ってきたようだ。水をぽたぽたと垂らしながら家に入ってくる雫に「おかえり」を告げると、「ただいま」と返事をし急ぎ足で洗面所に向かう。


「着替えとタオル、持ってきてくれない?」


雫は今日もびしょ濡れだった。そりゃそうだ。恐らく皆が想像している以上に土砂降りの雨が降っている。毎日靴を交換しなければいけないし、かえって来ればすぐにシャワー。ほっと一息つく暇もなく、レインコートも傘もほとんど役に立たない。10秒も外に出ていれば、すぐにびしょ濡れの豪雨だ。


「はい、着替えとタオル。それと、生姜焼きできてるから」


「ありがとう。シャワー浴びるまで、少し待っててね」


そう言うと雫はお風呂場のドアを閉め、蛇口に手を伸ばした。シャアアという音が台所まで響いてくる。その間、僕はタバコに火をつけ、コーヒーを淹れる。20分もすれば雫はお風呂から上がってきた。髪の毛の先をタオルで優しく包みながら襟がよれよれになったTシャツを来て出て来る。一通り化粧水を肌に塗り終われば、夕食の時間だ。


「今日も雨の中、お疲れ様でした」


「いえいえ、君こそ。じゃあいただきます」


再び温め直した生姜焼きを口に運ぶ。みりんの甘みとしょうがの匂いが鼻腔を刺激し、お肉の美味しさがじんわりと口の中に広がった。そこへ間髪入れずにお米を口の中に入れる。うん、今日も美味しい。


「どう?」


「ん。美味しい。」


「雫が美味しいって言うの、珍しいね」


「そうかな」


久しぶりに料理を褒められた僕は少しだけ嬉しい気持ちになった。生姜焼きは僕が一番好きな料理でもあり、一番得意な料理でもある。それだけに、生姜焼きに対するプライドが少なからず芽生えているようだった。


「明日なんだけど、あのプランで問題はない?」


「特に問題ないよ。楽しみだね」


「そうだね。」


相変わらず会話は続かない。こんな当たり前な日常も、あと1年で水の底に沈んでしまうのか。そう考えると、また胸の奥底がズキンと痛んだ。政府からの緊急速報を耳にしてから1日、正直実感がなかった。まだ後1年も時間があるというのも、その原因のうちの一つだろう。そもそも、この雨ももしかしたら止むかもしれない。数ヶ月間、毎日休みなく働き続けた雨雲に、お疲れ様を言いたい気持ちだった。


「ねえ、本当にこの街は沈んでしまうのかな。」


「政府が言うんだから、間違いないよ。ドッキリだとしたら悪質すぎるしね」


「そうだよね。私もこの街で育ったから、なんだか悲しい気持ちになってきた。今更だけどさ。」


「僕も同じ気持ちだよ。だからデートに誘ったんだ。」


「雨の中のデート、それはそれでロマンチックだね」


「そうでしょ」


「でも、この街が沈んだからと言って、私たちが死ぬわけじゃないでしょ。別の街に引っ越せばいいんだし。」


「そうだけど、この街は死ぬよ。」


食事を終えて他愛もない会話をしていると、いつの間にか夜も更けて時間は23時を回っていた。食器を洗って、お風呂に入ろう。そんなことを考えていると、雫が後ろから抱きついてきた。


「ちょ。どうしたの」


「良いでしょ?」


「少し待って。お皿洗うから。」


1年後にこの街が沈むという状況なのに、寂しくなれば他人の体を求める。むしろ、こういう状況だからこそ人肌恋しくなるのかもしれない。子孫を残さなければいけないという、人間としての本能だろうか。皿を洗い終わり、雫を見てみる。


「おーい、起きてる?」


「…」


雫は全くだらしない格好で眠っていた。仕事でよほど疲れたのだろう。毎日豪雨の中、本当にお疲れ様だ。


「雫の相手は、明日だな」


そう独り言を言い、ブラジャーにスウェットというとてもだらしない格好で寝ている雫の横を歩き、部屋干ししてあったタオルと下着を手に取った。そのまま洗面所に向かい、服を脱ぎお風呂場に入る。予めためてあったお湯に体を沈め、ホッとため息を付きながら顔をお湯で濡らす。そのままぼーっと、ぼーっと、ぼーっと、この街が雨に沈んでしまうときのことを考えていた。


気づけば1時間ほど経っていただろうか。うちには追い焚きがないので1時間もお湯に浸かっていれば、ぬるくなる。その頃合いを見て浴槽から体を出し、シャワーの蛇口を捻って頭から水を浴びる。シャンプーをして体を洗い、浴室から出た。


時間はもう既に0時を回っていた。いけない。明日は絶対に寝坊出来ない。寝る支度をしながら玄関を見てみると、見覚えのない黄色の長靴が丁寧に並べられてあった。雫が明日のデートのために買ったイエローブーツだろう。少し暖かい気持ちになって、そのイエローブーツを手に取る。


この街では、長靴がとても愛されている。雨が止まないという土地柄だからだろうが、いろいろな種類が仕入れられており、子供向けから大人用まで、色んな柄の長靴が用意されている。雫が明日のために買ったイエローブーツを眺めていると、なんだかブーツがはしゃいでいるような気がした。


ベッドのど真ん中で静かに眠っている雫の体を端っこに寄せ、その横にゆっくりと体を委ねた。安物のマットレスが僕の体を押し返す。リモコンで電気を消して、雫と2人で毛布を分け合い、目を閉じる。


「おやすみなさい。」



今日も、雨は降り続けている。


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