不器用と不格好

那由多

不器用と不格好

 私立優弦高校は、目下冬休み真っ盛りである。

 一般的に冬休みはとても短い。そのくせ課題が出たりして、あまり自由な時間がない休みだ。

 そんな冬休みにもかかわらず、図書室には生徒の姿があった。

 男女一人ずつ。閲覧スペースの机に向かい合って座っている。彼らの手元には木工用ボンド、テープ等の修理道具が並んでいた。

「これ、冬休みにする事?」

 二年生の岸本和樹が向かいに座る同じく二年生の長谷川礼子に尋ねた。

 セリフでもわかるとおり、基本的にこの作業に対するやる気は見受けられない。 防寒に、と彼はブレザーの下に薄いセーターを着ていたが、エアコンの効く図書室内ではむしろ暑く、今はブレザーを脱いでセーター姿に軽く腕まくりをしている。

「本の修理に季節なんて関係ないわ。痛んだ本は修理して、利用者に気持ちよく読んで貰わなきゃ」

「……司書の鑑だねぇ」

「ありがとう」

 言いながらも礼子の手は只管に動き、本の修理を続けている。

 一方の和樹はまるっきりやる気がないのか、手元に置いた本を開きもしていない。

「他の連中は?」

「他?」

「色々いるけど、そもそも委員長は?」

 図書委員会の面々を指折り数えながら列挙する和樹。

「委員長は、彼女と約束があるらしくて無理だって」

 そういえば、委員長はいつの間にやら彼女を作っていたのだ。そして和樹はその彼女の事も知っている。邪魔をする勇気はとてもなかった。

 その彼女からの逆襲が怖いからだ。

 他の連中についても聞くのをやめた。短い休みだ、みんな予定も入れているだろうし、仮になくったってこんな作業には来たくないはずだ。委員長が来ない時点で、誰についても説得なんてできそうもない。

「正直者が馬鹿を見るって奴か……」

 電話がかかってきたときに、正直に暇だと言ってしまった自分を殴ってやりたい。

「嫌だった?」

「え?」

「本の修理、私とじゃ嫌だった?」

「あ、いや……そういう事じゃ」

 言われて改めて、二人きりであることを意識してしまう。気づいていたが、極力気にしないようにしていたのに。

 何というか言い様の無い緊張感に包まれる。

「そ、そう言えばさ、うちの書庫、幽霊が出るらしいね」

「知ってるわ」

「見たことある?」

「無いわ。そもそも、あそこは普段立ち入り禁止でしょ?」

「そうなんだけど、噂だと、カギがかかってないらしいんだよね」

「へえ、それで? 今から肝試しする?」

「……やめとくよ」

 怖いからではなく、帰るのがどんどん遅くなりそうだから。和樹は心の中でそう付け加えた。

「あー、えー、で、何をすればいいんだったかな?」

「本の……修理」

「そうだった、そうだった。どれどれ、こいつは……」

 自分でも吐き気を催すほどにわざとらしい。

 情けなさを噛みしめつつ、手元の本を開いた。背表紙と中身が泣き別れしそうになっている。和樹は木工用ボンドを手に取った。

 専門的な知識は無い。ただ、本が分解しないように最低限の補強をしていく。仕上がりはお世辞にも美しいとは言えない。だが、また読めるようになる。そこが大事なのだ。

「それにしても、よくもまあこんなに手荒く扱えるものだね」

 表紙と本体が泣き別れになりそうな本と格闘しながら、和樹はそんなことをぼやいた。

「まあ、ここを利用する全ての人が本に愛着を感じる人ではないから」

「中にはドミノ倒しをする奴もいる……か」

 礼子は軽く肩をすくめただけだった。

 しばしの沈黙の後、今度は礼子が口を開く。

「どうでもいい話をしてもいい?」

「どうぞ?」

 促された礼子は、一呼吸置いて話し始めた。

「岸本君は、料理とかするほう?」

 本当に関係ない話だな、そう思いつつ和樹は首を左右に振った。

「ふぅん、私は結構するわ。好きなの」

 そういいながら、礼子が修理しているのは料理の基礎本のような本。

「休みの日、朝御飯は大抵私が作るわね」

「へえ、凄いじゃん」

 照れたように、一瞬目を伏せる礼子。だが、すぐに続きを話し出す。

「でも、今日はこれがあるから、朝ご飯はお願いねってお母さんに言ったの」

「うん」

「ところがね、お母さんてば結局起きてくれなかったの。えーと、なんていうか、癖? 休みの日の癖になっちゃってたのね」

 そういう事もあるだろう。

 そんな事より珍しいのは饒舌な礼子だ。普段、割と淡々と喋る礼子が一生懸命喋っている。これは事件だ。

「それで、ついでにね。あくまでついでなのだけど、お弁当も作ったの。今日ほら、せっかくのお休みなのに作業でしょ? で、少し多めに作ったのね、持ってこない人がいるかなと思ったから」

「そうか、昼か」

 和樹も全然考えていなかった。

 午前中で解散となるに違いないと信じていたので、手ぶらで来ている。

「そういえば、持ってきてないな」

「……た、食べる?」

 突然の質問に、思わず数回瞬きをしてしまう和樹。礼子はその和樹を見つめたまま返事を待っていた。

「……いいね。貰うよ」

「そう、それじゃ、お昼になったら食べましょう」

 礼子の口調は元に戻った。喋っている間にも手は動き続けていたらしく、手元の本は綺麗に修理されている。礼子はそれをもって本棚の群れの奥へと姿を消した。

「……早いなぁ……」

 ポツリと呟き、再び作業に戻る和樹。

 風が窓を揺らした。葉が散り切って、裸になった木が冬の風に揺れている。


 戻ってきた礼子の手には、新しい本があった。

 それを手に席に着き、再び作業を始める。一方の和樹は、もうすぐ一冊目の修理が終わりそう、といった状態だ。

「嘘ってどう思う?」

 礼子の唐突な質問。和樹は、そのあまりの脈絡の無さに少し面食らった。

「どう……とは?」

「……例えば、一般的な概念としての良し悪しとか……」

 どことなく歯切れの悪い礼子の言葉。

「まあ、一般的には悪いんだろうけども、そこはそれ、時と場合に寄っちゃ嘘をつくことが必ずしも悪いとは限らないんじゃないかと思うけど」

「意味が良くわからないけど……?」

 礼子は素直に首をかしげた。自分から一般的な概念とか言う単語を持ち出しておいて、その態度はないと思う和樹だったが、改めて言い方を考えてみる。

「つまり、いい嘘というのもあるかもしれないという話だな」

「ふうん」

 礼子は少し考え込むような仕草を見せた。どうにか一冊目を追え、話が途切れた隙に二冊目を求めて本棚へと和樹は席を立った。

 

 薄暗い本棚の間を、傷んだ本を探しながらふと和樹は思う。今日の礼子はどこと無く変だ。どこがどうとはいえないが、何かしらいつもと雰囲気が違うのは明らかだった。それが少し不気味であったが、同時にいつもと違った対応に居心地の良い柔らかさを感じていたりもする。それが自分の思い過ごしなのかどうか、確信が持てない程度の微妙なものだ。

 適当な本を取って席に戻ると、礼子は手も動かさずにぼんやりと考え込んでいた。

「手が止まっているようだけど」

 和樹が声を掛けると礼子はゆっくりと和樹に視線を合わせてきた。深い黒の瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚える。

「例えば、ある目的で誰かに嘘をついて、その人を呼び出したとしたら、それは悪いことだと思う?」

「は?」

「さっきの続きよ」

 礼子に言われて、席を立つ前の会話を思い出す。嘘の良し悪しについてだった。

「目的に寄るだろうな。たとえば、それが誰かの人生を左右するとかで、どうしても出て来て貰わなければいけないけど、直接理由を伝えられない……とかなら」

「悪くない?」

「まあ、呼び出された相手が、嘘をつかれたと知ってなお、納得できるならね」

 それがどんな状況に当たるのか、具体的な例示は思いつかなかった。

「ふうん」

 礼子は少しだけ和樹の顔を見つめ、それから二、三度小さく頷いた。

「そうなのね。少しほっとしたわ」

「……なんで?」

「さあ?」

 なぜか礼子が首をかしげる。

 礼子は再び本の修理に戻った。礼子の手付きは鮮やかなもので、見る間に本が修理され、補強されていく。十分と掛からずに二冊目の修理を終わらせて、再び書架の奥へと姿を消した。糊が乾くまで、本棚には戻せないので、机の上に寝かせておいている。そのタイトルを和樹は読んでみた。

「嘘の使い道」

 思わず眉をひそめてしまうタイトルである。目を引くという意味では、実によく考えられたタイトルだが、中身がそれに伴っているのかどうか。レジに持っていくまでには相当考えてしまいそうなタイトルだった。

「なんで、こんな本が高校の図書室にあるんだ?」

 確かに、学校が学生に読ませるには、いささか抵抗を呼びそうなタイトルだ。でも、この学校の図書室の担当教諭は、代々変わり者だというから、こういうのを平然と買う人もいたのかもしれない。和樹はそう考えて納得することにした。


 戻ってきた礼子の手には、文庫本が持たれていた。それを見て、また首をかしげる和樹。この奥はハードカバーばかりだったはずだ。文庫の書架はもっと入り口に近いところにおいてある。

「なんで、そっちから出てきて文庫?」

「誰かが、破損したのをこの奥に隠していたみたいね。ほら」

 そう言って礼子が差し出した文庫本は、確かに酷い状態だった。表紙とページどころか、ページとページが泣き別れしそうになっている。

「こんな重症の被害者を放置するなんて、犯人は極悪人ね」

 文庫を見ながら礼子が言った。淡々とした口調だが、きっと相当怒っているのだろう。漂ってくる空気が冷たかった。

「捜査本部でも設置して、犯人探しに乗り出すか?」

 ちゃかしてみる和樹。しかし礼子は軽く首を左右に振った。

「いいえ、まずはこの被害者の命を救うことが先決よ」

「なるほど、ごもっとも。それでは、救急隊にまかせるとしよう」

 それには答えず、黙々と修理を始める礼子。肩透かしを食らったような状態になり、思わず和樹は礼子のほうに非難の目を向けてしまう。

 そんなことは意にも介さず、素早く、そして丁寧に文庫本を修理していく礼子。その表情は真剣で、先ほどの怒りと合わせて、本に対する礼子の愛情のようなものが伺える。何となく、そういう彼女は綺麗に見えた。

「まさか……」

 和樹の中では、相当に突飛なアイデアで、思わず口に出して否定してしまう。礼子が怪訝な顔をしながら視線を和樹に向けた。

「何?」

「……なんでもない」

 そう言って、和樹は手元の本の修理を再開した。


 「そういえば、この本は面白かったわ」

 修理を終えた例の文庫本を手に、礼子が突然そう言った。

「へえ、どんな本?」

 言いながらタイトルを覗き込む和樹。礼子はその眼前に表紙を突き出した。

「……恋愛小説?」

 乙女チックなタイトルが書かれた、爽やかなピンクの表紙。なんとなくドライなイメージのある礼子には、似合わないような気がする。

「……意外って顔ね。私は、面白ければ、何でも読むわ」

 不満そうな顔の礼子。考えを先読みされ、和樹は返す言葉を捜した。

「どんな話?」

 結局、こんな言葉しか出てこなかった。

 罵声か、あるいは冷ややかに呆れられるか。身を強張らせたが、特に礼子は何も言わない。

 返事を避けようという姿勢があからさますぎただろうか。恐々と礼子に視線を向けると、彼女は何やら言い難そうにもじもじしていた。

「どうかした?……なんか、悪いこと言ったっけ?」

「え……いや、そうじゃない」

 あからさまに様子のおかしい礼子。和樹はその手から文庫本を抜き取った。

「あっ、ちょっ……」

 慌てる礼子をよそに、和樹はカバー裏の粗筋に目を通してみた。

 ある日、図書室で二人きりになった主人公とヒロイン。ヒロインは主人公に対して好意を持っているが、内気な性格が災いしてなかなか伝えることが出来ない。そこで、本の話からどうにか話を持っていけないかと、四苦八苦する、という話らしい。ラブコメとでも言うのだろうか。

「あ……あの」

 礼子が上目遣いに本に手を伸ばそうとする。和樹はその手に本を渡しながら、ぽつりと尋ねた。

「面白そうだ。けど、この話が、どうかしたの?」

「……別に」

 そう言った礼子の表情は、とても寂しそうだった。そのまま沈黙。黙々と作業を進める中で、今度は礼子がぽつりと言った。

「岸本君て……、鈍いとか言われない?」

「……いや、別に」

 それっきり、また黙って仕事が進んでいった。


 それからは随分とスピードが上がり、昼までに、一人辺り十冊近くの本を修理できた。そこはかとなくイライラした礼子が怖かったが、仕事が進んだことについては、和樹は大満足だった。

「お昼に……しようか」

 和樹の控え目な提案に、礼子は仕事の手を止めた。ちらりと時計に目をやり、それから小さく頷いた。

「良いんじゃないかしら」

「えーと……ご相伴には預かれるのかな?」

「そういう話だったわね」

 やはりまだ少し機嫌が悪いところが伺える。こういうときの礼子は怖い。まるで見当もつかないが、原因は自分なのだろう。そう思うと、声を掛けるだけでも息が詰まりそうになる和樹だった。

「とりあえず、手を洗いに行きましょう」

「ああ」

 二人は連れ立って図書室を出た。


 手を洗う事ができる場所が階下に降りないと無い。

 それぞれ、二階にあるトイレに別れて入った。

 トイレに入るなり、思わず深々と息をつく。

「なんだってんだよ……」

 ポケットからハンカチを引っ張り出し、口に加えながらつい愚痴がこぼれる。

「お、岸本じゃないか」

 名前を呼ばれた和樹が声のほうを見てみると、用を足しているのは図書委員会顧問の国語教師だった。

「なんだ、お前も来ていたのか」

 意外、と言う響きの言葉。首をかしげたのは和樹のほうだ。

「え? だって本の修理……」

「おお、急に長谷川がやりたいなんて言いだしてな。まあ、本に対する愛情が深いのは素晴らしい事だ」

 しきりに感心する国語教師。

「まあ、許可してくれたら人員は集める、任せてくれというんでな。まあ、さすがに来ないわけにはいかないんで、職員室で待機させて貰ってたんだ」

 国語教師はそういいながら、軽く体を上下に揺すり、それから水を流した。丸々とした体を揺すぶりながら、そのまま手洗いのほうに来たので、和樹は場所を譲った。

「すまんな。で、調子はどうだ? ちょっと様子を見ようかと思ってな」

 国語教師の言葉をそっちのけにして、考え込む和樹。今朝からの礼子の不可思議な言動が、ゆっくりと頭の中で繋がっていく。何となく、パズルのピースが合わさったような気がした。

「先生、もうすぐ終わりますから、大丈夫ですよ」

 和樹は国語教師がどいた手洗い場にたち、蛇口から出る冷たい水で手を洗いながらそういった。

「お、そうか。いやあ、ありがたい。階段が辛くてな……」

 用を終えた国語教師は、額に浮いた汗をハンカチで拭いながら、そう言って笑った。このくそ寒いのに、階段上がったぐらいで汗ばむとは燃費の悪い体だ。


 後は頼んだ、と言い残し、国語教師は職員室へと戻って行った。生徒を信頼してくれる教師でよかった。そう思いながら、和樹はもう一度頭の中を整理していく。

 未だに信じられない。状況証拠はすべて出そろっているのだが、それでも尚、信じられない。 

 自分が特別疑り深いわけではない。今現在、こうして学校に来ているのが何よりの証拠だ。

 ただ、確信を得るには少し探りを入れてみないと無理だ。

 繰り返すけど疑り深いわけじゃない。ただ、こういう状況に慣れていないのだ。

 バクバクと脈打つ心臓を抑えながら、和樹はトイレを出た。


 和樹が図書室に戻ってみると、閲覧室ではなく、事務室のほうで礼子が待っていた。

 机の上には、大き目の弁当箱。何やら表情の硬い礼子がその向こう側に座っている。

 極力平静を装い、弁当をのぞき込む。

「凄いね」

 和樹の言葉に、ちょっと体を強張らせる礼子。

「たいしたこと……無いわ」

「そうかな? 凄いと思うけど」

 弁当箱の中には、卵焼き、小さなハンバーグ、唐揚、ほうれん草の胡麻和え、お漬物、などなど、色とりどりのおかずが詰まっている。見た目にも鮮やかで和樹の食欲を否応なしに刺激する。

 インスタントだが、湯気の立つ味噌汁も用意されている。

 逸る心を抑えつつ、和樹は礼子の向かいに腰を下ろした。

「頂いても?」

 和樹の言葉に、礼子はこっくりと頷いた。渡された割り箸をパキンと割って、卵焼きに箸をつけた。

 ぱくりと一口。

 柔らかい卵はうっすらと塩味がついていた。卵の甘みを引き立てる絶妙の塩味だ。

「うん、美味い」

 和樹は素直にそう言った。

「そう……鈍感だから、味がわからないかと思ったけど……。良かった」

 嬉しいような、照れているような、しかめ面のような、何ともいえない味わい深い表情を見せる礼子。

 ハンバーグや唐揚げは脂身の少ない部分で作られている。冷めても大丈夫なようにという配慮だろう。ほうれん草も水気をしっかりと切ってあり、ゴマのたれとしっかり絡まって香ばしい。

 和樹は引き続き弁当のおかずを突きながら、ふと思いついたように礼子に言った。

「さっき、下で先生に会ったよ」

 ピクッと礼子の肩が震えた。その顔が、見る間に真っ赤になる。

「そ、そそ、それが?」

「俺が鈍感なら、長谷川は回りくどいってことで良いのかな?」

「な、ななななな……」

 何でとか言いたいのかもしれない。

 ここまでわかりやすい反応が見られるとは思っておらず、和樹はなんだかおもしろくなってきた。

「そんな風に言われたこと、ない?」

 笑いが止められない。

「人生で、少なくとも一回は言われるんじゃないか?例えば、今からとか」

 ここぞとばかりに意地の悪い言葉が口から出てくる。

「な……え……?」

 もはや日本語にもなっていない音が礼子の口から漏れる。

「君が突然言い出したって? 先生褒めてたよ、感心だって。でも、なんで急に言いだしたの?」

 おたおたとする礼子が面白くて、和樹はぺらぺらと喋り続けた。向かいに座る礼子が何かを掴み、投げつけてきたことも見落とすほどに。

「ひょっとして、はせべっ……」

 和樹の言葉はそこで遮られた。真っ赤な顔をした礼子の手から放たれた分厚い本が和樹の顔面に直撃したからだ。それっきり、和樹の意識は暗転した。


 昼食後、残っていた作業を終え、二人は連れだって校門を出た。

和樹の鼻の頭には、ヘタクソな張り方の絆創膏が張ってある。もちろん、礼子の手によるものだ。

 料理や本の修理は手際が良かったのに、どういうわけかこれだけは随分と歪んでいた。

「ほんとに……ごめんなさい」

 もう何度も言った言葉を、改めて和樹に向けて言う礼子。

「もういいってば」

 和樹のぶっきらぼうな言葉に、礼子は悲し気な顔で頭を下げた。

 その礼子をじっと見つめる和樹。顔を上げた礼子の目がその視線とぶつかった。

「お、怒ってる?」

「ううん、全然」

「じゃ……じゃあ、何?」

 恐る恐る尋ねる礼子。

 和樹は一つ小さく息をして、真面目な表情を礼子に向けた。

 しばしの沈黙。白い吐息だけが立ち上っては消えていく。

「……考えたんだけど」

 和樹が口を開いた。

「え?」

「いや、昼からさ、ずっと考えてたことがあるんだ」

 昼食前、和樹が言いかけた言葉。

 ひょっとして、はせ、までで礼子が強制的に中断してしまった言葉。はせ、はきっと長谷川と言いかけたのだろう。その後、その後はいったい何を言いかけたのか。

 礼子は動悸が早まるのを感じた。

「長谷川ってツンデレ?」

「へっ!?」

 きょとんとした顔の礼子を前に、和樹は言葉を続けた。

「ほら、ツンデレってあるじゃないか。実物って見た事ないな、と思っていたんだよ」

「は?」

「普段はツンツンしてるのに、一度惚れたりすると二人きりの時には、別人のようになったりとか、まあそんな人のことらしい。なかなか実物を見る機会が無くってさ」

 気絶させられたことに対しては、然程気にしていないようだ。散々謝ったし、私の方もケリをつけよう。礼子は考える。

 とすると、目の前に立つボンクラ男が口にした言葉に対して、私は全く真新しい気持ちで反応すれば良いわけだ。

「それって、昼食前に言おうとした事?」

「ああうん、そうぶふぁっ……」

 礼子は無言で手に持ったカバンを和樹の顔面に叩き付けた。

「い、いふぁい……」

「人が……人が必死で……」

 礼子の目に涙がにじむ。

 いつの間にか好きになっていた。けど、どうしても言いだせなかった。恥ずかしいのか悔しいのか、そういう用件で呼び出すことがどうしてもできなかった。だから、わざわざ策を弄したのだ。普通はあり得ないような策を。

 短い休みの一日に彼が出てきてくれたら、私だって勇気を振り絞る。

 そう考えていた。

 けど、回りくどい、と言われた途端頭に血がのぼった。

 恥ずかしくて、今すぐにでも消えたくて、それで思わずあんなことを。

 もうダメだ。完全に嫌われた、と思った。普通はそうだ。けど、起き上がった彼は気にしていないよ、言い過ぎたと言ってくれた。言ってくれたがそれだけだ。

 昼の続きを聞くことはできなかった。

 何とか聞きたかった。

 あの言葉の続き、ひょっとして、何?

 その続きが……ツンデレ?

 ツンデレって何?

「もういい!!」

 気が付くと、礼子は速足で歩きだしていた。

「ま、待って」

 その手を和樹の手が握る。

 ドクン、と心臓が大きく脈打った。

「な、なによっ!!」

「ち、違うんだって……」

「何が?」

「いや、えーと……」

 この期に及んで言い淀むなんて。

 振り返り、和樹をにらみつける。

 和樹は困ったように目線を泳がせ、やがて意を決したように礼子の目を真っ直ぐに見つめた。

 ごくり、と息を飲む。白い息が二人ともずいぶん大きくなっている。

 しばしの沈黙。

 つぅっと赤いものが和樹の鼻から流れ出した。

「き、岸本君、は、鼻……」

「へっ、わっ……」

 思わず手で触ってしまい、鼻血は鼻と口元全体を赤く染めた。

「てぃ、てぃっひゅ……あふ?」

「あああ、ちょ、ちょっと待って、上向いてて……」

 礼子は慌ててカバンの中をひっくり返した。


 誰もいない校庭の片隅。

 普段なら運動部が練習終わりに顔を洗ったりしている水道の前に和樹と玲子はいた。

 顔に広がった鼻血を洗うためだ。

 校庭にある水道の水は、ことのほか冷たかった。

 真冬だから当然と言えば当然なのだが、鼻血を拭き終わるころには口元や鼻が冷たさで麻痺するような感覚にさえなった。

 だが、そのおかげか鼻血は比較的すぐに止まった。

「あー、カッコ悪……」

 和樹は玲子から渡されたティッシュの残りで鼻の周辺を拭きとりながら、そう呟いた。

「ご、ごめんなさい」

 もし分け無さそうに三歩程後ろで項垂れる礼子。

「あ、いや、謝らないで」

「どうして? 私はあなたの顔を二度もケガさせたのに」

「確かに。もう顔は二度とやめて欲しいけどね。けど、元はと言えば俺がちゃんと言わなかったから」

 気まずそうに小さな声でそう言い、和樹は目を逸らした。

「ちゃんと?」

「そうなんだ、えーと。こんな状態でだけど、聞いてくれる?」

「ええ、聞くわ。聞かせて頂戴」

「ああ、えー、そうだな。さっき俺は……」

 ごくり、と和樹が喉を鳴らす。

 息が詰まりそうな緊張感。

 吐息が白い。

「さっき俺は、ひょっとして長谷川は俺の事好きなの、と聞こうとしたんだ」

 息を吞む礼子。

「けど、無理やり遮られたろ? 仕切りなおされると、いう勇気がどこかへ行っちゃってた。つい、今まで」

「それで、ツンデレ?」

「そう」

 気まずい沈黙。

 礼子が口を開く。

「それで、私があなたの事を好きだと言っていたらどうした?」

「そ、それは……えーと」

「言って。誤魔化したら、今度こそ承知しない」

 礼子の言葉に、和樹は思わず鼻を押さえた。

「あー、言うよ。それはもちろん、俺と君は両想いって事になるね、と」

「それはずるい言い方だわ」

「そう?」

「私しか好きって言ってない。そんなの不公平だと思う」

 やっぱりなぁ、と和樹が小声で言ったのを礼子は聞き逃さなかった。

「そんなのダメよ。ちゃんと言って。私は、あなたの口から聞きたいわ」

 詰め寄る礼子。

 それを手で制し、和樹は一歩後ろへ下がった。

 まだ赤味の残る鼻と口元のまま、真面目な顔で和樹は一つ咳払いをした。

「好きだ。長谷川の事が、好きなんだ。俺と、付き合ってほしい」

 そう言った和樹の顔は、真っ赤だった。それを黙って聞いている礼子の顔も真っ赤だった。

「わ、私も……好きよ」

 礼子の返事に和樹は右手を差し出す。

 礼子はその手をしっかりと握り返した。

 その手の上にポタリと落ちる赤い染み。

 顔を上げた礼子が見たものは、唖然とした表情の和樹と、その鼻から流れ落ちる一筋の赤い鼻血だった。

「きゃあああ、岸本君」

「あああ、ご、ゴメン」

「だ、大丈夫? ハンカチ、使って」

「あ、ありふぁと……」

「上、上向いてぇ」

 寒空の下、慌てる二人のやり取りはしばらく続いたのであった。

 このおかげで、この日は握手以外何もせぬまま終わった。

 帰宅後、両者とも自分の間抜けさ加減に枕を濡らしたことは言うまでもない。

 

 もちろん後日、初デート、初ハグ、初キスへと進んでいくのだが、それはまた別の話。


 

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