第35話

 ぼたり。ぼたり。

 一歩歩くたびに、血とともに、全身から力が抜けてゆくのを感じる。アデルはぽっかりと穴のあいてしまった左手を引きずるようにしながら、バリケードの総力戦を後目に一歩、一歩と進んでゆく。胸元を深紅に染めてぐったりと動かなくなった、小柄な少年を重たそうに背負って。

 ルチオのなきがらを、安全な場所に連れていってやりたかった。もう誰も、この悲愴なほどに勇敢な戦士の眠りを穢すことができないように。

 倒壊したカフェの片隅へ力尽きるように腰を下ろすと、アデルはもう、それきり立ち上がれなくなってしまった。これ以上なきがらが汚れないようにと気をつけていたのに、再び地面に横たわった少年は血塗れになっていた。その血がルチオ自身のものなのか、アデルのものなのかは、もはや判断が難しかったが。

 涙を流すほどに見開き、「敵」を睨みつけたまま、早すぎる最期を迎えた少年。そのまぶたを、震える指でそっと閉じてやる。ほんの少しだけだが、ようやくルチオの表情が安らいだような気がした。

 割れた窓硝子の向こうでは、まだ学生たちによる戦いが続いている。戦いというより、ほとんどつかみ合いのようになっていた。数でも経験でも負けているのだ、うまくいってもせいぜい相撃ち。それでももうあの学生たちは、その命がすっかりみな散り果ててしまうまで、決して諦めることはないだろう。

 バリケードの上辺を制圧され、上空からの銃撃で撃ち落とされてゆく学生たちは、まるで有翼の天使がその翼を奪われて墜落するように見えた。

 ああ、そうだ――。

「私は、君らのようになりたかったのだ」

 ひとりでに震えるくちびるの側を、ぬるい雫が伝い落ちてゆく。

「あのように、君のように、信ずるもののために飛び立って、地に落ち砕け散るそのときまで美しいままであれたならよかった」

 そのための翼を、あの友人はくれたのに。これならどこまででもゆけるのだといった私の手を、迷わず取ってくれたのに。

 結果、アデルは愛も自分自身も、何事をも信じ切れなかったのだ。墜ちても墜ちても墜ちきれず、無様にひとり生き長らえ、こうしてひとり生きている。そんな自分を認めがたく、もっとも罰したいのはアデル自身なのに、信じ愛していたあの光はもはや彼を罵ることも、嘲ることもしてはくれない。

 零れ落ちた涙がルチオのほほを汚している。拭い取ってやろうとほほを撫でた指は、いつの間にか地面に溜まった血で染まっていたらしい。清めるはずの肌を逆に汚してしまったのか、自分は。そう思い至ると無性におかしくなった。笑ってくれよ、と吐き出した声は、既にすっかりしわがれていた。

「醜いだろう。結局のところ、何事も成しえないのだ、僕は……」

 ああ、なんだか、ひどく寒い。意識の遠のくなか、アデルは一度、ぶるっと大きく身震いした。ルチオに触れていた手がぱたりと床に落ちる。苛む罰のような痛みは既に、強いまどろみへと姿を変え、彼をさらおうとしていた。

「めったなことを言うなよ、ばかだな」

 遠く、遠くから、懐かしい声が聞こえる。白く霞んでゆく世界の中で、アデルは自分でも気がつかぬほど、ほんのわずかに笑んだ。すこしだけ、寒くなくなった。

「だれかのために苦しむことの、なにがみっともないものか」

 砦を囲う路地の片隅。孤独な乞食がその生涯の最期に見たものは、あたたかで優しい、小さな蝋燭の光だった。


 革命は「暴動」として鎮圧された。

 翌日になれば、パリの街は早くも秩序を取り戻そうと回り始める。戦死した者たちのなきがらを撤去し、血を洗い流し、銃痕の残る家屋を建て直して。自由のための戦いなど、まるではじめからなかったかのように、人々の生活は途方もない重みで昨日を塗りつぶしてゆく。

 家屋の修復に駆り出されていたある者が、ふと足を止めた。

 戦死者の遺体は、既にほとんど軍と警察が処理してしまっている。派手に傾き、窓硝子の割れたこのカフェにも、もう彼のほか誰の姿もない。

 ただ、あの片隅――

 野で摘んできたような、質素でちっぽけな花束と、すっかりちびて炎も消えた蝋燭の入ったランプ。もうここにはいないが、確かにいたであろう誰かを弔ったような、小さな小さな墓だった。


 きっとそこにも、明日への希望に散った、無垢な若者たちの魂が眠っているのだろう。

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或る無情への墜落 降木要 @wihadone

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