第34話

 *


 ある朝、サン・メリー通りの片隅で疲れ切って微睡んでいたアデルの目を覚ましたのは、慌ただしい足音と学生たちの騒ぐ声だった。

「話が違うじゃないか! どうなってるんだよ!」

 ああ、現在は彼らの「革命」の最中なのだ。ルチオと呼ばれる少年から以前警告があったが、アデルは動く気になれなかった。ここに留まればいずれは死ぬと言われたとて、もはや彼には場所を変えてまで生き抜く気力も、体力も、その理由もなかった。

 最もその「革命」も、どうやら上手く事が運んではいないようだが。最初に駆け込んできた青年が、怒りと焦りに震えながら叫ぶ。

「おい、落ち着けよ」

「これが落ち着いていられるか! 援軍が来ないんだぞ、とっくに約束の時間は過ぎてるのに! 奴ら、結社の仲間が撃たれていくのを見殺しにしてるんだっ!」

「見捨てられたってことでしょう。僕たち」

 誰もが理解しつつも納得を拒んできた言葉に、一団は水を打ったように静かになった。

「市民たちの協力がなければ、革命の成功は難しい。その市民たちが応じないとなれば……戦局は厳しい、どころの話じゃなくなるね」

「諸君!」

 凛としたよく通る声が、砦に響き渡る。重い腰を上げ立ち上がったのは、かつて近くで演説をしていたあの青年であった。きらきらと希望に輝いていた瞳は沈痛に伏せられ、苦悶の表情を浮かべている。かつて真っ向から食って掛かった相手であるのに、なぜか見ていられなくて、アデルは咄嗟に目を反らした。

「確かに、状況は厳しい。戦いは僕たちだけでやるほかはないだろう。

 だが、決して市民を責めてはならない。彼らにだって、それぞれ守るべき家族や生活があるのだ。今日ここで命を投げ出すことを選ばなかった、選べなかった人々を責め謗ることなど、誰にもできはしない。誰にも……。

 そしてそれは、諸君にも言えることだ」

 一団がざわっと大きくどよめく。

「僕も、誰も、止めだてはしない。諸君は志を共にする仲間であると同時に、大切な友人でもあるのだ。このバリケードへ、愛する人や家族を遺して来た者があることも、よく知っている。そんな君たちに、無理にここで戦えとは――ここで死ねとは、僕はとても言えないよ」

 アデルももう一度彼の顔を見た。首領の青年はただ、静かに微笑んでいた。

「リーダー! 警官隊が迫っている! 列を成して、武器を持って……降伏しないなら、このまま撃つと!」

 見張りをしていたらしい者が悲鳴のように怒鳴った。首領は傍らの銃を手に取り、バリケードの隙間から慎重に狙いを定める。

 彼は振り返らないままに言った。

「僕はたとえひとりでも、最期まで志を貫くつもりだ。それが、いつか未来を切り拓く光になると信じるから。

 諸君――僕と共に、ここで命を散らす覚悟をもつ者はあるか? 遠い未来、穏やかな幸福に満ちた我が国の未来に、自らのそれを賭けられる者はあるか?」

 大勢の規則的な足音が迫ってきて、ぴたりと止まる。誰の返事も聞こえなかった。表情の伺えない首領の髪から、ひとすじの汗が伝い落ちた。

 そのときである。

 ひとつの真っ赤な影が、バリケードを勢いよく駆け上がった。

「ルチオ!」

 誰かがそう叫んだ。学生一団の誰より小さくやせた身体、質素な身なりに、ぼろぼろの黒いキャスケット。少年はその身に余る真っ赤な旗を持って、バリケードの頂点へと上りつめる。

「聞け、怒れる我らの声を! 虐げられた者達の慟哭を! たとえ我らが今、ここに散ろうとも、革命の炎は決して消えることがないと知れ! 今一度、何度でもオレはここで叫んでやる――」

 誰もがその少年に釘づけとなった。一点の迷いもない、堂々たる背中であった。彼は旗を握り直すと、その色を誰の目にも焼き付けんとばかり、向かい風に大きくたなびかせた。

「『革命万歳、共和万歳! 友愛、平等、さもなくば死を』!」

「撃てーーーーーーッ!」


 タァン、


 と、響いた音はひどく乾いて軽やかだった。

 砦の頂、翻る深紅の革命旗を仰いで、痩せほそった少年の身体は簡単に宙を舞った。

「――おい、」

 どさり、と音をたてて、モノのように路地へ墜落した少年の骸。胸元に穴が開いている。着古しのシャツがゆっくりと、しかし確実に赤黒く染まってゆく。

「おい!」

 即死だったのだろうか、目を開けたまま死んでいた。虚空を睨む目は真っ赤に充血し、いまにも起き上がって敵に噛み付かんばかりの形相。しかし、若い命はもはやそれきりだった。まだ幼さの残るほほに、つうっと透明の雫が伝う。知ってか知らずか、彼は泣いていた。

「ルチオ……ルチオ、どうして! なにもあんな真似しなくたって!」

 突然のことに理解が及ばないのだろう、学生の何人かは銃を取り落していた。首領の青年も例外ではなく、無防備に振り返ったまま硬直している。

 ふたたび何発分かの銃声が響き、砦を構成していた椅子がぐらりと揺れた。混乱に乗じて、軍はすみやかに攻撃を開始した。

 崩れた砦の一部からぎらりと銃口が覗く。未だ茫然自失の首領を狙っているのだ。彼が倒れれば、一団の士気は総崩れになり、バリケードは瞬く間に陥落するにちがいない――。

 考えるより先にアデルは飛び出していた。

 消耗しきった身体のどこに、これほどの力が残っていたというのか。既に返り血に濡れた地面を蹴り、崩れかけたバリケードをよじ登ると、今にも火を噴かんと構えられた銃口を強く片手に握りしめた。

「――――!」

 ガァンッ! とどこか籠ったような、しかし強烈な爆音が響き渡る。首領の青年がうっすらと涙を浮かべたまま、ようやくはっとしたように振り返った。もろに撃ち抜かれた片手を直に見る勇気がなくて、その代わりに、青年の顔を睨むようにじっと見る。

「貴方は――」

 一瞬ののち襲い来る、寒気にも熱りにも似た激痛。感覚に抗うように、アデルはあらんかぎりの声で叫んだ。

「何をぐずぐずしているッ! 命に代えて未来を切り開くんじゃあなかったのか!」

 砦の奥では、学生たちが皆一様に銃を携えていた。ルチオの死に動揺し、悲しんではいても、歯を食いしばって武器を取り直している。

 青年は強く涙を拭うや、正面へ向かって吼えた。

「――畜生、何としても踏みとどまってやるぞ! 全員ッ、物に添ってかがんで撃つんだ! ルチオの死を無駄にするなああッ!」

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