第33話

 ルーアンを経由してセーヌ川をくだり、シャンティイ、サン・ドニ聖堂方面からパリへ。あてもないリュシアンの旅路の、ひとつの目的地がここだった。

 かつてアデルの両親が名実ともに健在だったころ、仕立の名人を探したり、流行を取り入れたりするために、よくパリへ出かけていたらしい。アデルも随分憧れがあったようで、あんなに何度も行っていたのに、僕は数えるほどしか同行を許されたことがない、と不服そうにぼやいていた。ル・ブランのときと同じ商売をやりなおす気なら、今度こそ憧れの街に行こうとしてもおかしくない。

 どうしても探しだし、会わねばならない友がいる。仕送りは必ずするから、どうかしばらく旅に出させてくれ。

 ブローニュの実家でそう切り出したとき、家族の反応は様々だった。

 想像通り、ルチオは強い怒りを示した。その友というのが、一緒に店を営んでいた金持ちなのだとは、皆まで言わずとも想像できる。兄貴を捨てたような奴のために、どうして兄貴がそこまでしなくちゃならないのだ……。ルチオの訴えを冷静に退けたのは、あの大人しかったシエルである。

「兄ちゃんが考えて決めたことなら、そうするのがいいと思う。ぼくらも昔と違って、もう立派に働ける歳だもの。リュシアン兄ちゃんは今まで、長いことぼくらのために頑張ってくれたんだ。そろそろ、兄ちゃんも自分のしたいように生きるべきだ。マルグリット姉ちゃんがそうしたみたいに」

 マルグリットはモントルイユでの生活の中で、建築業を営む実直な青年と恋に落ち、現在は彼と力を合わせて不自由なく生活しているらしい。

 聞けば、あの泥棒事件の後から、フィーユとサンセールはあのマダム・ゾーイのパン屋を手伝いに行っているそうだ。謝礼の代わりにもらえる大小さまざまのパンは、ここのところおおいに家族の食卓を助けているのだとか。

 加えてなんとシエルは、独学でひととおりの読み書きができるようになっていた。

「できれば働きながら、医学の勉強がしたいと思っているんだ。母ちゃんの病気がよくなるように、ぼくがいい薬を選べれば、きっといいと思うから。兄ちゃん、もし都会でよさそうな本をみつけたら、ぼくに宛てて送っておくれね」

「おまえたち……!」

 知らなかった。リュシアンが家を離れているあいだ、守らなくてはと思っていた弟妹はこれほど頼もしく成長し、それぞれの人生を見つけていたのだ。

 手紙と金のやりとりができるよう年長の兄弟たちと準備を済ませてまもなく、家族に見送られリュシアンは旅立った。

 そうして、かつて嗜みとしてアデルから教わった、靴磨きや縫製の仕事で日銭を稼ぎながら、はるばる今日までの旅路を続けてきたのである。

「それで、よかったのかい。ホントにその旅に、アタシまでついて来させちまって」

 ほとんど中身の入っていない小さな鞄を弄びながら、ジジがふいにたずねた。

 一緒に旅立ってから、彼女は派手で露出ばかり多かったドレスから、質素だが実用的なコルセットとペチコートに着替えた。まだ見慣れないものの、活動的なジジにはこういうのもよく似合う、とリュシアンは思っている。

「うん。しばらくブローニュを離れて、いろんな場所を旅して回るって考えたとき、なんとなく、おれはおまえが一緒だといいなって思ったんだ。

 おまえこそ、よかったのか。目的が目的だから、このとおりあまり優雅な旅路じゃないが」

 どうせ身売りのほかに生き方など知らない。どぶねずみみたいにこのまま死ぬだけだ――。当然のようにそう言って、夢を見ることすら諦めていた彼女に、幼馴染としてもっといろんな世界を見せてやりたい、というお節介が、まったくなかったとは言い切れない。結局どこまでゆけどリュシアンは欲張りなのだ。自分の手で誰かを幸せにしてやりたいと思う傲慢は、そう簡単に消えてなくなるものではなかった。だから、最終的にどうするのかはジジに選択を委ねたのだ。

 リュシアンがほんとうに不思議そうな顔で訊くので、ジジはあの、呆れと愛しさが混じったような声音でふっと笑った。

「波止場の梅毒でくたばるはずだった女だよ。アタシにはもったいないくらいさ」

「ならよかった。おまえといっしょにいるのを見ると、あいつ、またヤキモチ妬くかもしれないけど……まあ、そのときはそのときだ」

 そうなったらなったで、また喧嘩をすればいい。そうして今度こそ、きっちり仲直りをしよう。なんといっても、いまは冷静に互いの言い分を整理してくれそうな賢い女性がふたりもついているのだから。

(それに、おれだって、きみがパヴォットと一緒になったと知ったときは、ちょっと寂しかったのだぞ)

 いまになってようやくはっきりした自分の気持ちや、人に話すうちにまとまった考え、反省すべきだったこと、やっぱり譲れないこと。つぎにアデルに会ったら、話したいことはたくさんあった。きっとそれはアデルも同じだろう。何から順番に話せばよいのか、ここのところしきりに考えてしまうのは、きっと遠からず彼に出会える予感がするからだ。


 さて、新しい街へ到着して最初にすることといえば、安くてできるだけ真っ当そうな宿を見繕うことである。看板を見比べてあれこれと物色していると、リュシアン達は思わぬ人物と出くわすこととなった。

「ジハードさん!? ジハードさんじゃないか!」

「リュシアン!? おまえっ、どこへ行ったのかと思っていたぞ!」

 ふたりは数年来の再開に喜び、それ以上に、出来過ぎた偶然に驚いていた。

 ジハード巡査は郵便配達をしていた頃から顔馴染みで、ル・ブランを始めてからも、なにかとよく面倒を見てくれていた治安官である。彼には――彼を含め、店を通じて仲良くしていた人にはほとんど――ろくに挨拶もできず街を去ってしまったから、リュシアンの行方を不思議に思っていた人もあるにちがいない。

 これまでの身の上話と、ジジのことを紹介する名目を兼ねて、三人は連れだって、ジハードが常連としてよく使っているという宿へ入った。もとより軍の治安官であったジハードは、ここ数年で配属が変わり、活動の拠点もパリへ移っていたのだという。

「出世もいいことばかりじゃあないな。新しい上司は人使いが荒いよ。詐欺師を現行犯逮捕の次は、暴動の鎮圧に向かえだと! なんでも、今度の催事に乗じて、革命エボリューションの真似事を企んどる連中がいるらしい。まったく、銃も持ったことのない学生連中がなにをしようっていうんだか」

革命エボリューション?」

「そうとも」

 ジハードはひとりで酒を飲むうちに、初対面で敬遠していたジジにもすっかり気を許したようだった。

「その昔、王族お貴族様たちの牛耳る社会が気に入らんと、パリの民衆が世直しを企てたことがあったのだ。それが1789年の革命エボリューション……しかしマドモアゼル、かの偉大なる以降に生まれた貴女が、その恩恵を受けた、己は自由と平等の保証された社会で生きていると感じたことが人生で一度でもあったか?」

「いいや、。 ふうん、なるほどねえ」

 波止場に生まれたリュシアンの「幼馴染の女」と聞けば、ジハードにも彼女の出自を想像することは容易い。下衆な勘繰りはしたくないと考えながらも、リュシアンとそう歳の変わらないジジの、今まで置かれてきたであろう境遇を思えば、溜息をつかずにはいられなかった。

「世の中というやつは、そう簡単には変わらんのだ。なにしろ構成員が皆、我々と同じ人間なのだからな。ちょっとお上が変わったところで、大雑把に見てみれば、似たような過ちも繰り返すさ。

 正直、今度の任務は我々も気が重い。連中、とびきりのいい教育受けた育ったはずの、若くて立派な金持ちの坊ちゃんたちだぜ。うまくいくわけがないってのが、どうして分からんかなあ」

 リュシアンは黙って会話に耳を傾けていた。変わらない現実と、それでも何か変えようと立ち上がる若者たち。その場に自分が出くわそうとしているという、出来過ぎた偶然。

「……その話、もうすこし詳しく聞かせてくれないか」


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