第32話

 19世紀も初頭のシャンティイは、パリの喧騒を離れた貴族たちのくつろぎの場として賑わっていた。

 緑輝く遊歩道。夏の終わりを告げる涼しい風とともに、美しい装飾の馬車が城の庭園へと走ってゆく。若い恋人達や、散歩に来たらしい裕福な老夫婦たちのための、静かでゆったりとした時間が流れていた。

 さて、そんな遊歩道を、とある劇作家が偶然通りがかる。

 彼は悩んでいた。次の芝居の案出しがうまくいかないとか、新しい劇場主と反りが合わないのだとか――今となってはその内容こそ瑣末なことであるが、兎に角、彼は爽やかな夏の遊歩道を、思考の行き詰まりに俯き、肩を落として歩いていたわけである。

「靴だろう?」

 ふと、そんな彼に声がかけられた。

 脈絡のない一言に思わず立ち止まると、親しげな笑みを口もとに浮かべた若者がひとり、商売道具でもあるらしい木箱に腰掛けて、こちらを見上げている。なるほど、靴磨きの者であるらしい。

「うん、旦那が浮かない顔をしているから、おれも気になって声をかけたのさ。せっかくの立派な靴が、昨日の雨で台無しだ。すぐ元通りのぴかぴかに戻してやるから、ちょっとおれに貸してごらんよ」

 北東部系の訛りのある、気安い話し方の若者である。言葉も決して上品ではないのに、不思議に俗な嫌味のない、親しみを感じさせる物言いだった。

 身なりもきちんとしていて、ふわりとした金の髪や小麦色の肌によく似合う小物を――それも、かなり年季の入った上質なアンティークばかり――揃えている。

 劇作家は話し方から想像した彼の出自と、都会的で洗練されたいでたちの差に、たちまち興味を抱いた。それで、気まぐれに靴磨きを任せてみることにしたのである。

 若者は嬉しそうににこりと笑うと、大切に使い古されたブラシと油脂の小瓶を手際良く並べていく。鼻歌を歌うような手つきで革靴を磨きあげながら、昨日の雨がひどかったという話にはじまり、劇作家の仕事のこと、シャンティイ城奥に眠るという名画のことや、パリ学生街の野犬騒ぎのうわさなど、他愛もない世間話を楽しむ。そうしてあっと気がついた頃には、くすんでいた黒革は、劇作家本人も忘れていたようなつややかな輝きを取り戻していたのだった。

「なかなかいい腕じゃないかね」

 劇作家は素直に感嘆して言った。

「靴磨きは色々とやらせたことがあるが、こう気分のいい仕上がりは初めてだよ。しかし君、ここらじゃあ見ない顔だ」

「そりゃあ、シャンティイへはおとつい来たばかりだもの。もうひと月もしたら、またここを発つよ」

「おや、なんと忙しない。そりゃあまた、どうして?」

 少し残念がってそう尋ねると、若者は鈍い痛みをこらえるように、わずかに表情をゆがめた。そのとき劇作家は、優しいオリヴィエの瞳の中に、遠い時間と、彼の永らくの苦悩を見た。

「人を探して旅をしてるんだ。――大切な、友だちを」


 *


 アデルという友を失い、なすすべなくブローニュ・シュル・メールの家へ帰ってきたとき、扉にかけたリュシアンの手は震えていた。

 やさしい友だった――。生まれが違い、リュシアンに理解できる感覚ばかりではなかったが、彼には彼にしかわからぬ責任や苦悩があったのだろう。

 住居の暖炉の燃えかすから、借金の催促状のようなものが見つかった。文字が読めるようになった今ならわかる、アデルの両親の返済義務は、まだ終わってはいなかったのだ。店がうまくいっていれば、それだって助けになったかもしれないのに。打ち明けてくれれば、喜んで協力したのに。

「……ばか野郎」

 おれのせいだ。

 なのに、それでもあいつにはおれこそが唯一の友だった。不器用に、へたくそに、全身全霊でおれを愛した。結果、あいつはその誇りを引き裂かれ、夢だった店を手放すまでに追い詰められたのだ。

 ぜんたい、どこから間違ったのだ、おれたちは。出会って互いを好きになったのが、そもそもいけなかったのか。あのとき互いの心に触れて、支えたいなんて思わなければ、おれたちは、身も心もこれほど痛み引き千切られずにすんだのか。

 おれがあいつを不幸にしたのか。

 それは考えるだけで恐ろしい想像だった。リュシアンはこれまで、多くの人を慈しみ愛した。この扉の向こうで待っている、家族だってそうだ。

「扉を、あけるのがこわい」

 波止場に夜が来る。女たちはつぎはぎだらけのドレスで男を待っている。病気で息を切らしながらも、休む金がないから、まだ客待ちを続けている娼婦もいた。リュシアンが物心ついた頃から、なにも変わらない光景である。

 幼馴染のジジが不意にこちらを振り向き、目が合った。

 彼女には生まれたその時から、身寄りがなかったという。将来は身売りをするしかないだろう、と囁かれながら少女時代を過ごし、リュシアンとは兄弟同然に育った。否、今から思えば、いずれ身を売って金を稼いでくれるというあてがあったからこそ、波止場の大人たちも彼女を養ったのだろう。そしてその通りに、ジジは娼婦となった。ほかにどうしようもなかったのだ。

 ジジはリュシアンの眼になにかを察したのか、女たちの輪を外れてこちらへ歩いてくる。昔からそうだった。目つきのよくない彼女の訝しげな態度は、リュシアンの沈んだ表情のわけを問いただしているように見える。

「店はたたんだよ。友だちが……もうだめだって、おれたち」

 ジジはどういった反応を返すか、考えあぐねているようだった。もとより彼女はアデルをよく思ってはいなかったが、リュシアンの声音の悲痛さに、並ならぬものを感じたのだ。

「おれは、誰よりそばにいた大事な友だちの苦しみに気がつけなかったんだ。わかるか、おれの親友はおれの隣で、おまえと同じ地獄へ沈んでいった!

 今でも信じられないよ。賢くて、高潔で、立派な男だった。情けない、ああ、おれはこわい! 友だちのひとりさえまともに守れなかったこのおれが、今更、おまえたちや家族になにをしてやれる? これまでは必死なりに、なんとかがんばってきたつもりだった。だが、今になって思えば、そのがんばり自体が、はじめからまるっきりまちがっていたのかもしれない!

 郵便夫を首になったときともまたちがう、おれは、自分のおろかさがおそろしいんだ。おれが妙なことを試みて、余計な手を出したせいで、救われるどころか辛い目にあう者があったかもしれない。あいつや……家族や……おまえたちと同じだ」

 リュシアンはどうにかそこまで絞り出すと、俯いてきつくくちびるを噛んだ。しばらくの沈黙が2人を覆うかに思われたころ、ジジは気の抜けた声で「ばかだねえ」と吐き捨てた。

「その、あんたの親友っていう男娼がなんて思ってるか、アタシがあててやろうか?」

 思わぬ返事だった。驚いてわずか顔を上げたリュシアンの額を、ジジが呆れ顔で小突く。

「思い上がるな、そもそもあんたがどうこうできるような話じゃねえんだ、だよ。

 いいか、善人を救う神ってやつがたとえばこの世のどこかにいたとして、それはあんたじゃないだろ。あんたみたいな一介の郵便夫にアタシ達の貧乏暮らしを変えて欲しいだなんてね、そんなこと、はなから誰も頼んじゃいないのさ。あんたにできることなんか、もとよりひとつだけだろ」

「ひとつ……だけ」

 ぼんやりとその一言を反芻する。

 無力で無学なリュシアンにできること。今まで、ずっとしてきたことで、ほんとうに愛するだれかのためになっていた、たったひとつのこと。

 そうして浮かび上がった、ひとつの記憶があった。

 ――大丈夫、旦那さま、おれがここにおります。おれが旦那さまのそばにおりますから――。

「そうか……おれは……おれはあいつに会いにいかなくちゃならない!傷ついたあいつのこと、全部は癒せなくても……そうだ……おれたちは、もともとそういう友だちだったじゃないか……!」

 そうだ。もとより、ふたりはともに無力だった。時代の流れや厳しい生活。ふたりを責め苛んでいた現実に、正面から太刀打ちできたことなどいくらもない。それでも、なにはなくとも、おれたちは生きていかねばならない。そのため互いに寄り添って、手を繋いで、わずかな暖をとることを、たぶん、おれたちは愛と呼んでいた。

「ありがとうジジ。おれ、ここでぐずぐずしちゃいられないや!」

「あんたは能天気なくせに、ときどきそうなるね。できもしないことにできない、できないって頭を抱えちまう。神の仕事を奪おうなんざ、思い上がりもいいところさ。あんたの悪い癖だよ」

「へへ……それを元に戻してくれるのは、いつもおまえだな」

 大きな瞳に輝きを取り戻し、リュシアンは強く友の両手を握りしめた。

 悪態をつきながらも、リュシアンの様子に満更でもないような表情のジジ。そういえば久々の再会だ、とまで考えたところで、リュシアンは突如小さく「あっ」と叫んだ。

「なあ、ジジ。おまえがいやなら、無理にとは言わないんだけど――」

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