第31話

 *


 「あの晩」の翌日、リュシアンが目を覚ましたとき、住居の部屋の中にアデルの姿はどこにもなかった。

 おかしいな、昨日の夜は確か――否、考えてみればリュシアンにはベッドに入った記憶がない。慣れない酒なんか飲んだから、気がつかないうちにぐっすり眠りこんでしまったのだろう。それではアディはどこだ?

 その日はル・ブランの営業日であった。休みの日は何かの交渉だとか、人に会う用事があるとかで、たまにふらりと出かけるアデルだが、外出を理由に店番を空けたことはいちどもない。余程の事情があるにしても、彼なら書き置きくらい残しそうなものだが。

 ひょっとして、眠りこけてるおれに気を遣って、先に店へ降りているのかも。リュシアンは努めて前向きに、そう自分へ言い聞かせた。内容こそ忘れてしまったが、眠っているあいだ見ていたのはひどく悲しい夢だった気がして、まだ胸がざわざわする。不安なような、寂しいような、心が締め付けられるような気持ちが彼を駆り立てた。

 そうして住居の階段を降りたリュシアンを待っていたのは、やはり誰もいない、綺麗に店じまいをしたままのル・ブランの店先であった。

「…………アディ?」

 リュシアンの不安はみるみるうちに形を成す。

 さっと血の気が引くのにつられ、おぼろげな昨日の記憶をたどる。あいつが言うからおれもつられて酒なんぞ飲んだが、そもそもどうして急にあんなことを言い出したのだろう。眠りに落ちる前のあいつはたしか穏やかに笑っていたけれど、いまから考えれば、表情の影にどこか思いつめた様子はなかったか。おれの知らないところで、悩みを抱え込んでいたりしたらどうしよう。アディは頭がいいせいか、難しく考えだすと、気持ちが壊れるまで止まらなくなっちまうことがあるから。

 藁にもすがる思いで、整然と片付けられたル・ブランを、リュシアンは片端からひっくり返した。なにか、なにかあいつの心をさぐる手がかりがないか。気のせいか、店の中はいつもより綺麗に整頓されていて、主人の片割れのいなくなるのを見越していたようだった。瞼の裏側に、いつか目にしたロープの輪がゆうらり揺れて、背筋が冷たくなる。

 奇しくも最後に手にしたのが金庫の鍵であった。祈るような気持ちで鍵をあけ、中を――ふたりで力を合わせ、懸命に稼いできた金が大幅に減っているのを、そして反故の切れ端に書かれた「さよなら」の文字をリュシアンは発見する。

「――ああ、よかった!」

 側から見ればとても奇妙なことだが、そのとき真っ先に彼のくちびるからこぼれたのは、心からの安堵の溜息だった。

(金を持っていったということは、あいつは世を捨てたわけではないのだ。金があれば、どこへ行っても生活はできるものな。おれのもとから出て行った理由はわからないが、とにかく、生きているのまでいやになっちまったわけではないんだろう。うまくやって、達者で暮らせそうなら、ひとまずそれでいいんだ)

 が潰えたことに束の間胸をなでおろし、ぱたんと金庫を閉じたあと、しかしリュシアンは再びぼんやりと途方に暮れた。

 ぜんたい、彼はなぜ今、どこへ行ってしまったのだろう。

 大喧嘩をしたのはもうずいぶん前のことになるし、ここのところはお互い真面目に、つつましくも平穏に過ごしてきたはずである。おれがすこし町の人と話しただけで不安でいっぱいの顔をしていた、あのさびしがりのアディが、ひとりで旅立つとはよほどのことだ。ああ、ひょっとすると、パヴォットがいっしょなのだろうか。それなら――いいのだが。彼女がそばにいるなら、あいつもさびしくないものな。

 ひとりで店を受け持つことには慣れているはずなのに、どうにもそわそわと落ち着かない。待っているべきだれかがいないというのは、こうも心細いものなのか。リュシアンはまるで異国の館にひとり取り残されたような気持ちで、居心地悪く店の中をうろついていた。

「あら、リュス。今日もひとりで店番?」

「今日もというか、えーと。その」

 おしゃべりな主婦が声をかけてきても、いつも通りの笑顔を取り戻せない。世間話で適当にお茶を濁せばよいものを、不自然に言い淀んでしまう。あっという間にごまかしのきかない状況を作ってしまい、リュシアンは仕方なく真実を話した。

「店主のアディが……いなく……なっちまった」

「ええっ」

 うまく丸め込んで逃げる元気すらなくて、リュシアンは興味をむきだしに訊ねられる不躾な質問に、正直な答えと「わからない」だけで返事をした。

 金庫の話がでると、彼女の目がぎらりと俗っぽく光る。

「金が減ってる? いやだね、あんた、そりゃあ決まってるわよ、夜逃げよ。あたしゃはじめから怪しいと思ってたのよう、あんな派手な金持ちの男は。かわいそうに、あんた騙されて、まんまとトンズラされたんだわッ」

「あいつはそんなやつじゃないッ! あいつのことなにも知らないくせに、勝手なこと言うなよ!」

 違う世界に生きる人間への、軽蔑とひがみに満ちた口ぶりであった。思わず声を荒げる。まさに、そうだ、こんな風な勘違いから、おれはあいつを守ってやらねばならなかったのに。

 ひっきりなしに喋っていた女は、突然の大声にひるんだか、口を半端にあけたままぽかんとしている。リュシアンはそれでようやくはっとして、慌てて謝った。

「あ……ご、ごめんよ! こんな言い方するつもりじゃ……。おれ、なんだか頭の中がぐるぐるしてて、気持ちがふつうじゃないんだ。あいつが戻ってきたら、ちゃんと埋め合わせもするから……ごめんよ、いまは、その」

 傷ついた顔で頭を下げるリュシアンに、女もそれ以上何も言いかねて、曖昧な表情のまま去っていく。申し訳ないのがあいまって、リュシアンの心はますます沈んだ。これも初めてだ、誰かとのお喋りで、余計に気分が落ち込むなんて。


「へええ、やっぱり尻尾巻いて逃げてやがったか、件のアディちゃんはよ」

 ぞわりと突如、舐め回すような嫌味な声音が降ってくる。

 座ったままうなだれていたリュシアンは、跳ねるようにして顔を上げた。目が合うだけで胃の腑が凍りついてしまいそうなこの男は――ああ、忘れもしない。アデルの知り合いを騙り、リュシアンに何食わぬ顔で暴行を働いた危険人物である。ワルテールという名などより先に、嫌な心象は強く記憶にこびりついている。

 汚らしい身なりと粗暴な雰囲気。高潔なアデルと長く付き合いのある者とはとても思えず、あのときのリュシアンは決死の覚悟で追い返した。しかし、この口ぶりと勝ち誇ったような眼は何だ?

「笑わせるぜ、あの貴族被れのクソガキ、何が『約束は果たす』だよ。まあいい、どうせもう搾れやしねえや。先に契約をフイにしたのは奴なんだからよ、この店に寄りついちゃあいけねえとかいうくだらん条件も、当然白紙に戻るわけだなあ、ええ? 俺もてめえの間抜け面を正々堂々拝めるってもんだ」

「どういうことだ?」

 ? 確かにこの男は、思い出したくもないあの日以来、ぱったりリュシアン達の前に姿を現すことはなくなった。てっきり、治安官の見回りをきらって、ちょっかいをかけに来たくても来られないものだと思っていたが。まさか、アデルがこいつにこっそり手を回して?

「『契約』なんて、店の事でそんな話は聞いていないぞ。おまえ、アディと何を話した? なにか、おれにも関係のある取引があったのか?」

 他の知り合いにはとてもしないような強い語気で問いただす。ワルテールはその真剣な表情に、鼻とも歯ともつかない場所から勢いよく息を吐いたかと思うと、腰を折って声も高らかに笑い出した。

「おい、同情するぜ、優等生のアディちゃんよ! オトモダチの馬鹿が伝染ったか? こんな間抜けのために淫売までして、とうとう人生棒に振ったかよ! 頭の軽いお針子グリセットだって、男選びに関しちゃまだ何倍もうまくやるだろうぜ!」

「だまれ! これ以上おれの友だちを侮辱するなら、ただじゃおかないぞ!」

 自分のことはいい、しかし大切な人や、その人を含む生まれ育ちや職業を貶められるのは許せないのが彼という男である。とっさに威勢よく噛みついたものの、リュシアンはふと、先程の暴言のおぞましい本質を思い出す。


「おまえ――いま、アディの――あいつのことを、なんて言った?」


 口から出まかせの、ただの下品で無礼な言いがかり……であれば、どれほどよいだろう。そうであってほしい。しかしリュシアンは今になって、この男に関する忌々しい真実に気付きかけていた。

 

 いや、でも、しかし、そんなはずはない、そんなはずは――。頭の中で必死で否定するたび、記憶の中の不可解な記憶が答え合わせのように胸を、鼓動を打つ。


 ――「僕がどれほどの犠牲を払ってきたか」。

 ――らしくもなく乱れたシャツ。

 ――「触るな、なんでもないったら!」。

 ――紅いくちびるがとてもきれいで。

 ――「ね、僕を抱きしめてくれないか」。

 ――黒の貴婦人という不思議な身売りが。

 ――定休日の翌日、ぐったり動けなくなって。


「取り消せよ……失礼な冗談だったと言え……!」

「カコイのてめえが一番よくわかってンじゃねえのかよ。想像つくだろう、うん? あの淫乱が女みてえにきゃんきゃんよがって、媚びた顔して腰振るところがよ。阿片浸りで姦されてたときとてめえとのときで、どれだけ違ったのかは知らねえが。傑作だったぜえ、特にてめえのことをちらつかせたときの反応なんか、まるで」

「だまれ、だまれ、だまれ! アディは立派な若旦那だぞ、そんな奴じゃない、そんな奴は知らない! あいつは、あいつはッ……!」

 頭を抱えこむ。空が見えない。天と地とがわからなくなって、リュシアンは大きくふらつきその場にうずくまった。

 わかっている。わかっていたじゃないか。どれだけ美しくて、気高く賢い人間であろうと、金がなければいずれ行き着く悪夢のような地獄があることを。ニコレットやジジが、生まれやによって、誇り高い人間性や優しさを欠いたことが、いちどでもあったろうか? つまり、そう、逆も然りなのだ。


 ――「僕を君の情夫にしてくれ」。


 確かに誰よりも美しく、高潔であった友を思い浮かべて、リュシアンはうう、ともああ、ともつかぬ声でうめいた。

「あいつのこと……なにも……わかってなかったのは、おれのほうじゃないか……」


 モントルイユの街は今日も変わらない。

 貴族たちの馬車が気まぐれに行き交う石畳の道。朝夕は貧しい労働者たちがあくせくとその上を行き交い、その職さえ失った者は途方にくれながら、裏路地で飢えと寒さを凌ぐ。疑問を抱く人間などない。富めるものにとっても、貧しきものにとっても、それがこの町の「あたりまえ」だった。

 この街角にもひとり、路頭に迷う若い男があった。

 冬の太陽がつくる、うっすらとした陽と陰の境界線。「まともな世界」と「そうでない世界」は、日ごと曖昧に、しかし歴然と区画されている。

「ハ、何だよ、威張り散らしてたブルジョア様の最期の品揃えがこの程度か。シケてんなあ」

 ワルテールが飾り棚の小さな銀細工を一瞥し、けたけたと笑いながら去っていく。リュシアンはぼろのシャツの裾を握り締めながら、日の当たる大通りを呆然と眺めていた。


 彼らとて、少し前まではあちら側の人間だったのである。

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