第30話

 パヴォットが死んでからというもの、アデルは「人を愛する」ということについて、ずいぶん深く考え込むようになった。

 無様に落ちぶれ、老いたアデルに、それでもパヴォットは愛しているといった。彼の喜びをともに喜び、悲しみをともに悲しみ、まるで自分がアデルの一部であるかのように。そんな彼女の無垢と共に過ごした儚い日々の、あの温かな感情を、なんと呼ぶのが正しかったのか、アデルは彼女を失った今になって、ありありと思い知っていた。

 愛している、と、なぜもっと強く心から言ってやれなかったのだろう。そして、すまない、と謝ったのの倍くらい、ありがとうと言うべきだったのだ。

 孤独になったアデルにも、後悔する時間だけはたっぷりと遺されていた。

(パヴォットの純粋な魂は、無事に主の国へ召されたろうか)

 こうも不甲斐ない僕を慕ってくれた、しなやかで強い心の彼女は、きっと神の御許へ喜んで迎え入れられるにちがいない。そして、彼女ばかりか友をも裏切り、穢れきった身でなお生き長らえてしまった僕は、きっと同じ場所へは行けないだろう。いくら懺悔しても、パヴォットと言葉を交わすことも、赤子の顔を見ることも、この身が息絶えた後でさえ期待できそうにない。

 そこまで考えた後に思い至るのは、決まって、逃げ出したままになっていた友のことだった。

 今、どうしているのだろう。彼と過ごした日々の中、泣きたいほどに怒りが満ちたことも、叫びたいほどの憎しみを覚えたことも幾らでもあった。まるでリュシアンと出会うまで、自分は感情というものを知らなかったのかと思うほどに……。それでも頭に思い浮かぶのは、懐かしいあたたかで幸福な気持ちだった。

 苦しい現実にうずくまったアデルを抱きしめ、震える肩をさすってくれたリュシアン。あるいは、行き倒れたリュシアンをあわてて抱き起し、息があるのを確かめて安堵したあのとき。あの瞬間、ふたりの胸にあったものは何であったか。友よどうか幸福であれという、掛け値なしの純粋な願いひとつではなかったか。

 どこでボタンを掛け違えたのか、いつしか願いは変質し薄汚れ、あのままではいられなかったのは事実だ。慈しみは傲慢に肥え太った優越感へ、恋しさは嫉妬にまみれた独占欲へ。彼抜きでものごとを考えられないくらい、心の中へ深く入り込まれていたから、そばにいても離れていても胸が苦しい。

 けれど、好きだったのだ、本当に。ずっと友人でいたかった。神に、世界に認められなくとも、それだけはアデルの胸の中に確かな真実だった。

(もう一度……罪も憎しみも狂おしさも忘れて、出会ってすぐの頃に戻れたら)

 否、きっと、それでもうまくはゆくまい。生まれた世界が違いすぎたのだ。たとえワルテール氏が現れなくとも、少年泥棒たちに目をつけられなくとも、きっとふたりはどこかですれちがい傷つけあったろう。

 生きるとは、人を好きになるとは、どうしてこうも痛く苦しいのだろうか。それでもアデルは、リュシアンと出会わずに屋敷でひとり、じっと滅びの日を待っていればよかったとだけは、なぜか思えずにいたのだった。


「ほらよ」

 座り込み、惰性のまま差し出していた手に、ふと柔らかいものが触れた。見れば目深にキャスケットを被った小柄な少年が、ぶっきらぼうにパン切れを差し出している。

「くれてやる。食いな」

 随分生意気な施しである。しかし腹が減っているのも事実だった。とっさのことで声が出ず、わずかに首を動かして礼をする。半分に分けようとして我に帰った。そうだ――もはや、分け合うべき相手はない。パヴォットは死んだし、リュシアンのことはとうの昔、アデル自身が見捨てたのだ。

 動かないアデルに、少年は怪訝な顔をしつつ、自分もと残りのパンを口に放り込む。

を続ける気ならとっとと食っちまって、どこか別なところへ行ったほうが身のためだぜ。ここにはじき砦ができる。あと一晩もすりゃここら一帯、警察サツとの撃ちあいで炎か血の海だろうさ。ま、あんたも連中のいう自由や平等のために戦う気があるってんなら、話は別だがね」

 少年はそう言って、携えた銃に手をかけてみせた。――バリケード

 ようやく頭を上げて辺りを見渡せば、なるほどアデルの他に物乞いはいない。いかにも裕福そうな学生達カモが大勢いるというのに――よく見れば、彼らは道脇の宿屋やカフェなどに忙しく出入りして、机だの椅子だの、果てはピアノだのを運び出している。その誰もが胸にフランス革命軍のロゼット、そして腰には銃弾袋を下げていた。

「ロナンさん、あっちの状況はどうだって?」

「バリケードの場所には目処が立ちそうだ。いつもの酒屋裏の小道をそのまま使うらしい、ひとまずリュネ達を応援に行かせたよ。マルセルとルチオは武器の調達に回ってくれるか」

「了解。ルチオも、それでいいか?」

 ルチオと呼ばれたキャスケットの少年は、声のかかった方を振り向いて小さく頷いた。

「わかった。すぐに向かうよ」

 皆、先日演説で革命を謳っていた一団の仲間たちなのだろう。返事を聞いた二人が去っていくのを見届けると、ルチオはひとつ嘆息して、アデルの横に座り込んだ。

「このあいだの騒ぎを見てたよ。正直、オレもあんたの言い分に賛成だ。世界は変わらない。ばかな奴らさ。だが連中、あれで本気なんだぜ」

 騒ぎとは、演説のときだろうか。自分が激昂し泣き崩れるまでの一部始終をこんな少年に見られていたのかと、アデルはかあっとうなじに汗をかいたが、特に踏み込まれる様子はない。動揺を隠しながら、努めて落ち着いた声で応じる。

「しかしそういう君も、件の革命団の一員と見えるが」

「すべてうまくいくとは思っちゃいないよ。連中だって、賢いのの何人かはそれくらいわかってる。オレはただ、こんな糞みたいな世界で、なにもできず貧乏人の子としてくたばるってのにムカッ腹が立つだけだ」

「人生に一矢報いるための革命、か」

「それに、充分いい暮らしをしながら、まだ人々の暮らしをよくしたいだとか……。連中を見てると、なぜだか兄貴を思い出すのさ」

 遠くを見つめるきびしい目が、キャスケットのつばで翳っている。そういえば、まだル・ブランが健在だったころ、この型の帽子を店頭に置いていたことがあった。

「兄貴はオレと同じ貧乏だが、どこか連中に似てた。ばかみたいなお人好しだったよ。金持ちの友だちに誘われて店をやるんだと家を出たが、その金持ちにまんまと裏切られて、結局元の木阿弥だ」

 話を聞きながら、だんだんアデルは胸のうちが粟立つのを感じた。大きなキャスケットからちらりと覗く横髪は、懐かしい日向色とよく似た色味をしている――。まさか、そんな偶然があるはずは。

「そ、その君の兄君は、それからどうなったんだ。今は達者なのか、それとも――!」

「そこまで見ず知らずのあんたに話してやる義理があんのか?」

 ルチオ少年は怪訝な顔で、アデルに視線を返す。そうだ、この想像だってたいした信憑性はないのだし、 たったいま話している乞食がだなんて、とても信じられないにちがいない。否、むしろ知らない方がいい。

「……その通りだ。失礼を」

「へえ、あんた、物乞いにしちゃ物分かりがいいぜ」

「……」

 アデルはそれきり黙っていた。少し経つと、ルチオは横たえていた銃をとり、むくりと立ち上がる。

「じゃあな」

「行くのか。……ムッシュー、パンをありがとう」

「おう。あんたはせいぜい生きろよ」

 少年はくちびるの端をつりあげて、生意気ににやりとした。

 、という一言を反芻し、アデルはきっと、もう二度とこの少年と生きて会うことはないのだろうなと漠然と考えていた。

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