或る無情への墜落
第29話
時は過ぎて、1823年、パリ。
「あの革命を、もう一度やり直しませんか」
乞食や浮浪児、娼婦くずれがうごめく路地へ、凛とした力強い声が響き渡った。
「今こそ、必要なのは大人達への再教育だ。僕たちとともに立ち上がり、みなさんの怒りを、苦しみを、世の中に訴えようではありませんか。頼れる我ら学生達のリーダーが導いてくれます。勇気を出し、武器を取るのです。本当の自由と平等、愛と夢に満ちた、我々のフランスを取り戻しましょう!」
しゃんと伸びた背、朗々とした話しぶり。遠くまで見渡す瞳は、若い野心と未来への希望に満ちていた。彼の仲間であるらしい学生の一団は、同じようなきらきらとした目で演説に聴き入りながら、何やら件の革命思想が書き込まれたちらしを懸命に配り回っている。
対する聞き手、つまり浮浪者たちは、そんな学生たちを虚ろな目でぼうっと眺めていた。彼らの力強く美しい言葉に励まされていた者もないわけではなかったが、ほとんどの者は、彼らがいったい何を言っているのか、よくわかっていなかったのである。魂を込めて書かれたであろうちらしの文字も、ほとんど読まれぬまま、薄汚れた路地に吸い込まれてゆく。
ふと、演説のはるか後方で、軽いどよめきが起こった。ある乞食の男が突如立ち上がり、ちらし配りの学生の一人に掴みかかったのだ。
「去れ、無礼者ども。我々の商売の邪魔をする気か」
「ムッシュ、落ち着いてください」
学生は困惑していた。枯れ木のように痩せ細った男の腕に大した力はなく、簡単にふりはらえるほどだったが、弱者の味方と謳う身ではそれができかねていたのだろう。
「貴様も私をみじめと見下しているのだろう。さげすんで、胸のうちで笑っているのだな。私にはすべて分かるのだ、貴様らが我々をどう思い、どう扱おうとしているのか。大体、なんだ、『パリの街にバリケードを築いて軍と戦う』だと? そんな子供の遊びがまかり通るものか!」
「おい、あんた、これが読めるのか」
「いやだね、これ、そんなことが書いてあったのかい」
近くにいた別の浮浪者が、驚いたように声をあげる。奥で演説をしていた学生が、それを聞いて、打ちのめされたようになっていた。彼は、十分な教育を一度も受けぬまま大人になる人生など、とても想像もつかぬほど、裕福に暮らしてきた若者であった。
はじめに騒ぎを起こした男は、学生の持つちらしを破り捨てようとしたが、まもなくだらりと両の腕を下げた。くつくつと、笑っているかのような不気味な音が歯の隙間から漏れる。やがて、先程まで罵っていた学生にすがるような形で、男は泣き崩れた。
「畜生、それほどに我々があわれか。ならば恵んでみせるがいい。私に、家族に、今夜のパンを。畜生、畜生」
薄汚れた男がむせび泣くさまを、学生達は黙りこくって見つめていた。浮浪者たちは、まるでこんなことは日常茶飯事であるように、迷惑そうな顔をして路地から去ってゆく。やがて学生たちも、居たたまれなくなったのか、演説の場所を移すべく引き上げた。
男はまたひとりになる。
彼――その乞食こそ、変わり果てた姿のアデルであった。
*
このみじめな乞食がどのようにしてここまで墜落したか説明するには、彼とその妻がモントルイユから越してきたときまで話を遡らなくてはならない。
ふたりでパリへ、君の望みの芝居を観に行こう。そうして、やがて生まれるだろう子供に備えて、あちらで生活を立て直そう。アデルがそう提案すると、パヴォットは小躍りして喜んだ。
ル・ブランの経営が危うくなっていたこと、がらんどうの店へ、逃げるようにリュシアンを残してゆくことは、不安を与えるまいとあえて伏せていた。ただ、
「しばらく生活が厳しくなるかもしれない。それでもいいか」
とだけ、あらかじめ問うた。パヴォットは、
「あなたとなら、もちろんいいわ」
と笑って答えた。
しかしパリでの生活は、若い夫婦に想像以上の苦難を強いた。
アデルはパリでも、ル・ブランと同じようなブティックを開くつもりにしていたが、その計画は半分もうまくいかなかった。既に競合がひしめき合う
「皆、貴方のことをわかっていないのだわ。こっちでもきっと、どこかに助けてくれる人はいるはずよ」
身重の体でありながら、パヴォットは細々とお針子の仕事を続け、交渉に出かけては落胆して帰ってくるアデルを優しく励ましてくれた。そうしている間にも、彼女の腹はどんどん大きく重くなってゆく。信じて来てくれたのにすまないと、しきりに謝りながら、いよいよアデルは焦っていった。
とにかく目先の金を集めなくてはと考えて、アデルは再び夜の街へ身売りとして立つことに決めた。しかし、借金に追われた彼の生計をおおいに助けてくれたはずの収入は、決してまた手に入ることはなかった。
それもそのはずである――晴れずくすぶり続ける心の澱みと焦り、度重なる自分への失望、そして生活の困窮。いつしかばら色のほほはこけ、くちびるはひびわれて、かつてモントルイユじゅうを虜にしたアデルの美貌は、すっかり朽ち果てようとしていたのだ。
一文無しで夜明けを迎えたアデルの目に飛び込んできたのは、慈善家らしき老紳士と、それに群がる乞食たちだった。慈善家に付き従う侍女の腕には、たくさんのパンと金貨が入ったかごが携えられている。
気づけばアデルは人波を押しのけ、彼らの前に跪いていた。顔を伏せ、震える手を伸ばし、蚊の鳴くような声で、まわりの乞食をまねて「お恵みを」と呟く。一瞬ののち、かさついた彼の両手には、やわらかなパンといくつかの金貨がのっていた。
もはやなにもなくなった彼に博愛の施しをする侍女の、慈しみに満ちた微笑みを見たとき、あのアデルがいかほどの屈辱と絶望を味わったか、諸君らは想像できるだろうか? パンと金貨を受け取った瞬間、あの誇り高く、驕りにも似た若い自信に輝いていたアデルは死んだのだ。死んで、その場に残ったものは、ただ呼吸と食事と排泄を必要とするだけの、ありふれたぬけがらだった。
ぬけがらになった彼は、それでも得たパンと金を握りしめ、妻のもとへと戻った。
パヴォットは彼の得てきた成果を喜んだ。どんな手段を使ってそれらを手に入れたのか、尋ねようとはしないで、パンをどうにかうまく二つに分けようとする。半分をアデルに差し出すつもりなのだ。
「僕を恨まないのか」
いっそ愚かに見えるほどの無垢な姿に、ぽつりと泣き言がこぼれた。
「今の僕にはもう何もない。金も、立場も、君と出会った日の面影でさえも。僕の勝手で連れ出しておいて、君には苦労ばかり、裏切りもいいところじゃないか。君が今のような身体でなければ、こんな男、すぐにでも見限っているだろうに」
もとより、醜い打算から始まった関係であった。
アデルは離れゆくリュシアンの心への呪いのために、パヴォットの恋心を利用しようとしたのだ。愛の見返りに、夢見がちな彼女の望みを叶える。それだけの能力がかつてのアデルにはあった。しかしいまやこの有様。パヴォットがアデルと連れ添う理由など、もはやどこにもないはずだった。
結局、アデルのしたことといえば、うら若い乙女の人生をいたずらに浪費させただけである。
「すまなかった」
みじめに堕ちた我が身を顧みれば、図らずもそこへ伴わせてしまったパヴォットへの後悔と申し訳なさが頭を重く満たす。
沈黙を破ったのは、意外にもこともなげな一言だった。
「貴方こそ、その気になれば、わたしのことなんていつでも捨てられたでしょう?」
「っ――」
おっとりとした彼女の口から不意に出た強い言葉に、アデルは思わず絶句する。
パヴォットはいとおしい思い出を振り返るように、やわらかく目を細めた。夢見るようだと思っていた薄水色の瞳は、意外にもアデルのことを真っすぐ見つめていたのだと、アデルはこのときになって初めて気がついた。
「むかし友達が言っていたわ。わたしたちお針子は、養ってくれる男の人をたくさん捕まえるよりほかに人生をよくするすべがないんだって。だからお互い飽きちゃう前にって、みんな恋人を取っ替え引っ替えするんだけど、あまりわたしはそんな気になれなかった。実際、軽い気持ちでひっかけた人にひどい捨てられ方して、立ち直れなくなった娘だっていたし……夢を見るだけなら、わたしはひとりでいいもの。だからわたし、恋人はちゃんと選んだつもりなのよ。
最初に惹かれたのがきれいなお顔立ちだったのは本当。でも、どこまでも仕事に真剣なところや、かわいいくらい不器用に悩みに向き合うところ、わたしは全部好きよ。なによりわたしに子供が出来たとき、貴方、迷わず一緒に暮らそうって言ってくれた……。わたし、本当に嬉しかったのよ。わたしは間違ってなかった、心からわたしを大切に思ってくれる人を見つけたんだって!
だからそのときわたし、何があってもこの人についていくんだって決めたの。貴方となら、何が起こってもかまわない。わたしが愛すると決めた人だもの」
そこにあったのは、アデルが何度も心を狂わされてきた、かわいそうな者に向けられるあわれみの表情ではなかった。
アデルは初めて、どんな理由も必然性もなく、ただ彼自身がそうしたくてパヴォットを抱きしめた。彼女の信じている恋の始まりについて、アデルが真実を話さなかったのは、少なくとも、彼女をあわれんだためではない。
日稼ぎでできる仕事やほんのわずかの「稼ぎ」を貯めつづけ、あるときアデルは、ようやくパヴォットのために医者を呼べるだけの金をこさえた。
足取りも軽く安宿へ戻ったアデルを出迎えたのは、薄い布団の中、丸くなったまま冷たくなっているパヴォットだった。
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