第28話

 不気味なほどの穏やかな日々が続いていた。

 喧嘩そのものはうやむやになったが、結局あの後リュシアンは――少なくとも、アデルの目につく部分では――商品の無償提供や、無理な値引は控えているようだ。文句のつけようもない、真っ当な働きぶりで、淡々と仕事をこなすふたり。それでも一連の騒ぎを噂に聞いてか、あれほど多かった客足は、秋の深まりとともにゆるやかに落ちていった。

 そして、変化はもうひとつ。

「やあ、パヴォット――」

 ぱっと立ち上がったリュシアンの横をすり抜ける一陣の風。久々に店へ姿を現したパヴォットが、栗色の髪をなびかせ奥の作業台へと駆けてゆく。

「アデルさんっ」

 あの日以来、パヴォットはもはやリュシアンには目もくれず、ほとんどアデルに会うためだけに店へ訪れるようになっていた。アデルの選んだ髪飾りが、すらりと伸びた首すじの上で、幼い少女のように楽しげに揺れている。

「アデルさん。ね、パリの方でね、わたしとても観たいお芝居があるの。いっしょに行きましょうよ。着ていくお洋服も、また素敵なのを選んでくださいな」

「ああ、無論――」

 穏やかに彼女の話を聞きながら、アデルは決まって、玄関口のリュシアンの表情をちらっと伺った。そうして、苦しげににっこり微笑みを返す彼に、狂いそうなほど激しく胸を締め付けられるのだ。

 いっそ、今度こそ裏切り者と罵られ、一方的に突き放された方がよほどよかった。彼との友情を完全に失ったものと思い、絶望したあまり、あのときはふと自分の中に悪魔が囁いたのだ。去りゆく愛に最後の呪いをかけんとしたアデルに、リュシアンは当然、怒り、軽蔑する権利があるだろう。しかしあの愛しい友人はそうしなかった。本心を痛々しく押さえこんでまで、アデルとパヴォット、ふたりの幸せを喜ぶといったのだ。

 愛するリュシアンからの無償の愛を思い知ってなお、アデルはうれしくなかった。どうして、君はなにもわかっちゃいない。僕にとって、今更、君のいない幸せなどあるものか。かたく誓い合った絆はもうぼろぼろに千切れ、元には戻らないのに、おめでとうだなんて、よかったなんて、どうして言うのだ。

 望みが捻じ曲がった先で落ち着いた、歪で不合理な平穏が、アデルの心をじわりじわりと蝕む。そして、穏やかゆえに行き場を失った彼の狂気の隣には、いつもパヴォットとあの阿片窟がぴったりと寄り添っていたのである。

「それからわたし、貴方にいい知らせがあって――」

 甘えるように指を絡め、作業台から離れようとしないまま、パヴォットはもじもじほほを染める。促されたとおり、彼女のくちびるへ耳元を寄せてやると、蜂蜜のような甘美な声音がざらりと頭の中へ流れ込んだ。


 ――お腹に子供ができたの。貴方のよ――。


 パヴォットの「知らせ」を、アデルがまったく予想していなかったかといえば嘘になる。だから、ただ、おしまいなのだ、と思った。この優しく、苦しく、狂おしく、なによりもいとおしいささやかな生活。しかし、いつまでもこのままではいられまい。限界が近いことは、アデルも、そしておそらくリュシアンも、心のどこかで理解していた。

 いつもの会計締めが終わったあと、アデルは儲けた金を金庫に入れることはせず、代わりに大きな鞄の中へそっと隠し持った。

 モントルイユへ移ってすぐ、店の最盛期に比べれば、すべて合わせても微々たる額である。男ふたりでつつましく過ごしてゆくのがやっとの金。身籠ったパヴォットを産婆に診せ、その後生まれた子どもを養ってゆくには、これでもまだ心もとないほどだった。

「リュシアン」

 住居の階段を上り、愛しい人の名を呼べば、彼はにこりとして振り返った。

「知っているか。僕らがはじめて出会ってから、もう一年になるんだ」

「言われてみれば……。そうか、あっという間だったなあ」

 リュシアンは郵便夫、アデルはブルジョアの御曹司として出会った秋の暮れ。お互いのほんの気まぐれから、心に触れ、互いが持つ共通の苦しみを分け合ったあの日、確かにアデルの人生はもういちど始まったのだ。

 そうして、あれから、ほんとうにいろいろなことがあった。

「ちょっとした記念にと思ってね。ワインを買った」

 この日のためにと用意した、年代もののボトル。飲むか、と内心祈るように持ちかければ、リュシアンは一瞬複雑な顔をした。「酒かあ」うーん、と唸って苦笑する。

「実を言うと、今まで一度も飲んだことがない。母さんに乱暴する連中とか……ワインの匂いのする者にろくな者がなかったから、どうも気が進まなくてなあ」

「ああ……それは……すまないことを」

 アデルは咄嗟に目をそらし、瓶を引っ込めようと手をかけた。

 予想外だったが、こうなれば諦めるよりほかあるまい。今日のところはいつも通り眠って、別の日にするのでも……。しかし、リュシアンはアデルの手に自らの手を重ね、やんわりと制止する。

「いや、きみが飲むというなら、せっかくだしおれももらおうか。なに、おれとて大人になったのだ。心配せずとも、今はきみと二人きりなのだし」

「そう、か。……わかったよ」

 もう、後には引けない。

 二つのグラスに血の色が注がれてゆく。ぼんやりとした蝋燭の灯りの中、世界が終わる夜のように二人は乾杯した。

 リュシアンはグラスを口元まで運び、むせ返る葡萄の香りにわずか顔をしかめた。おそるおそる、上目でアデルの顔色を伺う。微笑んでみせると、安心したのか、くすりと緊張の面持ちが崩れた。それでようやく、彼は渇いたくちびるをワインに濡らす。

「わ……」

「どうだ」

「不思議な味だ。匂いは想像通りだが……皆、こんなものを喜んで飲むのだなあ」

「はじめはそんなものだ。じき、美味さがわかるようになるんじゃあないか」

「そうかなあ。そうだといいけど」

 繊細だと聞かされたグラスを両手で包むように持ち、リュシアンはいつにも増して素直だった。まだ酒の味も分からぬだろうに、アデルが少しグラスを傾けてみせれば、つられてしまうのか面白いように飲んでくれる。怖気づくほどに、は順調だった。

「ん……なんだか、気分がふわふわしてきた」

「もう酔ったのか」

 赤くなった耳元を軽くくすぐってやると、ころころといやに愉しげな笑い声が響く。そのままアデルの手に頬をすりよせ、また彼は笑う。心を許しきった仔猫のような甘えたしぐさに、胸がずきずき痛んだ。

「おそらくそうだろう。ああ、こうしていると、知らぬうちに眠ってしまいそうだ」

「僕はかまわないけれど。毛布でも持ってこようか」

「いいや。せめてこのまま、眠ってしまうまで、おれのそばにいておくれよ」

 アデルは動けなかった。穏やかで、慈悲深く、感情の読めない瞳だった。

「ねえ、アデル。きみには本当に感謝しているのだ。賤しい身分のおれと親しくつきあうばかりか、働く場所まで与えてくれて……。ありがとうなあ、きみと出会えて、おれは……本当に………」

 それきり、だった。アデルの肩に身を預けたまま、すうすうと寝息を立てるリュシアンは、真実、愛に満ちた幸福な表情をしていた。

 酒のせいか力が抜け、ずり落ちそうになる彼の頭を支えながら、アデルの手はぶるぶる震えた。震えたまま、ぐっすり眠りこんだリュシアンを丁重にベッドへ運び、優しく布団をかけた。涙を零すまいとしていたから、安らかなリュシアンと比べれば、アデルの美貌はひどく醜く歪んでいた。薄暗い闇の中だったから、わからなかったが。

「すまない」

 それでも、行かなくては。なにはなくとも、生きていかねば。

「おやすみ……リュシアン」

 アデルは最後に一度、愛しい友人にくちづけをすると、ランプの中の蝋燭をそっと吹き消した。

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