僕の好きな人。
鈴川
僕の好きな人。
『ねえ、思いっ切りアクセルを踏み込んで、私たち二人で堕ちていこうよ。誰も来ないような深いところまで。そしたら私たち、そこで、二人きりになれる。』
彼女は、その一節を良く通る声で朗読した。一瞬、辺りにピンとした緊迫感が張り詰めたようだった。さすが演劇部、と僕は思った。彼女が読むだけで、どんな嘘も真実のように聞こえてしまう。ふっと彼女が表情を戻すと、辺りは秋の穏やかな空気に戻った。
「私は、このセリフが一番好きだな。情熱的で、ロマンチックで。ここだけじゃないよ。どのシーンも言葉の選び方が上手くて、流石だね。」
彼女は、それから、僕の方にひょいと頬を寄せて、続けて言った。
「小説を書ける人ってすごいよね。私には、到底できないよ。」
ありがとう。でもそんなことないよ、と僕は照れてうつむいた。
「野村なら、俺より全然凄い小説書けるって。」
「なんで?」
「……根拠はないけど、なんとなく。」
僕はその言葉を少しぶっきらぼうに言った。それから、僕たちは顔を見つめ合わせて、どちらからともなく笑ってしまった。
僕たちは、二人で秋の公園にいた。下北沢が近くの小さな公園だった。日曜日の午後で、気分の良い晴れの日だった。風に乗って、金木犀の香りがしていた。僕たちは小劇場で演劇を見た帰りだった。
「この小説読んで、私ね、この女の子は私と凄い似てるなって思った。佐倉くんの小説だって知らなかったら、きっと女の子が書いた小説だなって考えてたと思う。」
彼女は僕の目をまっすぐに見ていた。それだけで、自分の心の中が、満たされていく。
「ありがとう。凄く、嬉しい。」
「また読ませてくれる?」
「もちろん。」
約束だよ、と彼女は目をきゅっと細めて微笑んだ。そんな彼女のことを見て、僕は、心の底から強く思う。
僕は彼女に恋をしている。
彼女の全てに、恋をしている。
彼女と僕が出会ったのは、夏。
演劇部の僕は、小劇場に時々足を運んでいる。そこでもらったチラシに、高校生演劇サマースクールというものがあった。数日間に渡るそのイベントは、それ自体面白いものだったが、僕の興味を一番惹いたのは、同じように一人きりで参加していた、ある女の子だった。
奥手な僕にとっては都合よく、彼女とは帰る方向が同じで、なけなしの勇気を奮って話しかけて、彼女も演劇部だってこと、彼女の女子校は僕の学校の隣駅にあること、僕たちの好きな小説がそっくりそのまま同じことなんかを知った。僕たちはlineを交換して、話題は尽きなくて、夏が終わってもたわいもない電話で夜更かしをして、いつからか、彼女のことばかりを考えていた。朝も、昼も、夜も、あるいは夢の中でさえも、気付いたらいつも僕は彼女の名前を舌の上で転がしていた。
野村梨央。
のむら、りお。
NOMURA RIO
何がきっかけだったのかなんて分からない。理由なんてないんだと思う。ただ、いつからか、僕は恋に落ちていた。今の僕は、理性なんかじゃどうしようもないほど、彼女のことが好きだ。
「でさ、昨日は何があったの? たまにつまらない脚本書くことはあっても、締め切りを守ることは信頼してたんだけど。」
翌日の昼休み、学校のことだ。演劇部の部長である小林は、終わらない脚本執筆の徹夜明けで、疲弊して突っ伏している僕にいつも通り話しかけてきた。
「ごめん。未完成で。間に合わなくて。」
その日始めて僕は締め切りを守れなかった。遅れた原因は、言い訳の余地なく、僕自身のせいだった。昨日演劇を彼女と見に行ってなければ、間に合ったはずの脚本だった。彼女に恋をしてしまってから、僕は、勤勉で、約束を守る、そんな元の自分を捨ててしまったようだった。
「もし、塾とかで負担になってんだったらいつでも相談してくれ。」
そんなんじゃない。悪いのは僕だ。女の子のこと、彼女、野村さんのことばっか考えてたから、なんて冗談でも理由にならない。そんなことは分かってる。
「ほんと、ごめん。」突っ伏したままもごもごとしか言えなかった。
小林は僕の親友だった。信頼し合っていたのに、あいつの期待を裏切ってしまったことが恥ずかしかった。
「……次からな。でも脚本は、面白かったよ。良い意味で拗らせてて、セリフ回しの感覚とかすごく佐倉らしくて。好き嫌いは分かれるだろうけど、俺は大好き。」
そこで小林は小さく息を整えた。
「でも、少しだけ気になったことがあったよ。」
「何?」
「なんか作風変えてないか?今までの佐倉って、一人で盛り上がってるくせに、どっかで変に醒めてるとこがあったんだよ。そこが良くも悪くも特徴で。今回は、逆で、時々醒めてるようなふりして、実は凄えロマンチックっていう感じでさ。上手く言えねえけど、ちょっと違う気がする。」
僕は、ハッとした。
別に作風を変えようとなんて意識していたわけではなかった。いつも通り、自分の脚本を書いたつもりだった。だが、僕の作品のスタイルは、意図を超えて、変わってしまったに違いなかった。
彼女が僕を変えたのだ。
「下手になったと。」
僕はそれを悟られるのが怖くて、茶々を入れる。
「そんなことは言ってねえよ。完成度って意味なら、前より上がってんじゃないの? ひょっとしてその辺模索してて、それで脚本遅れたんじゃ。」
「そんなことない。疲れてただけ。」
「好きな人でもできた?」
僕はその瞬間に昨日のことを鮮やかに思い出してしまう。彼女と見た奇妙な演劇のことも、そのあと二人で歩いた小道も、今にも触れ合いそうな肩の距離感も、金木犀のにおいに混ざって香った彼女のいい匂いも、全部。
一斉に。
「……マジか。」
違う、の一言さえ出てこない。僕の脳は彼女の記憶にしびれてしまって、何一つ役に立たない。ただ、くっきりと彼女の目を思い出す。それから彼女の耳、鼻、もみあげ、しゃがんだ時のつむじ、しゅっと小気味よく角を持つ顎と、無邪気な首の傾げ方と、僕よりずっと幅の小さい歩き方、細長い小指、柔らかいカーブのボディライン、声、笑い声、鈴のように澄んだ声、僕だけに語りかける声。
記憶が、溢れる。
僕は結局、大体の顛末を小林に話した。
ただ、自分の恋愛感情については、何だか、言いたくなかった。自分の胸の中へ隠しておいた方がいいような気がしていた。それで、恋心には触れずに、ただ事実だけを話した。でも、小林には全てお見通しだった。
「好きなんだ。」
あの奥手な佐倉がねえ、と小林は笑って、僕はそんなんじゃないと懸命に否定した。からかわれるほどムキになって、好きじゃない、ただ友達として気に入ったってだけだって首を横に振った。
「応援してるよ。」
「ほんとに違うから。なあ、マジで、違う。今度お前も来いよ。二人より三人で会った方が楽しいって。紹介するよ。」
僕はその時少し意地になってたんだと思う。
小林と野村さんはすぐに打ち解けたようだった。僕の親友と、僕の好きな人。相性が悪いわけなかった。
三人で遊ぶことが増えた。行先は、演劇、古書店街、ミニシアター、たまに遊園地、美術館、野球観戦、変わったところでは裁判の傍聴に行って高校生でこんなとこいるの僕らだけじゃんなんて笑ったり、もちろんただ会って喋るだけのこともあった。元々僕は、校内でも校外でも小林とずっと一緒にいたし、野村さんとは叶うことなら毎日二十四時間おはようからおやすみまでずっと一緒にいたかった。だから、三人でこうして何度も何度も飽きることなく遊んでいられるのは、楽で、居心地が良くて、八十%は完璧に幸せだった。
でも、残りの二十%はほんとは野村さんと二人っきりでこうして居られたらどんなに僕は幸せだろう、なんてふっと考えちゃったりして、それは一緒にいる小林に悪い気がして、僕はちょっとの罪悪感をその度に抱いた。だけど、考えずにはいられなかった。僕と野村さんと小林で並んで座って、僕はいつも右を見て、野村さんの形の良い唇、完璧な渦巻きの耳なんかを見て、僕たちの間にある十センチの空間を憎んで、ああ、それでもこのまま、こうやって野村さんと並んで世界の終わりを迎えられたら、僕は体が粉々に砕け散って地獄に落ちたってきっと笑ってられる、そう心の底から思った。
それが、恋だ。
ある日、三人で脚本を探しに出かけた。野村さんたちが使う脚本を探すので、僕らは野村さんの付き添いだった。書店街を回ってから、時間があれば演劇専門の図書館のようなところに行く、とのことだった。
と言っても、ある程度目星はつけていたのもあり、僕らはあまり真面目に脚本を探すことはなく、どちらかと言えばそれを口実にした本屋巡りのようなものだった。
「全然いい脚本ないなあ。」
休憩に入ったカフェで、野村さんは大きく伸びをしながら言った。小林が、少し休もうとここを選んだ。こじんまりとした店には、北欧家具が置かれ、差し込む陽光が柔らかい。木組みの天井から、控えめに照明が吊られている。小林は、僕と違ってこういうお洒落なとこに自然体でいられるタイプの人間だ。
「自分たちで書くわけにはいかないの?」
僕も会話に混ざろうとして、野村さんに聞く。
「書ける先輩が引退しちゃって、難しくて。時間もないし。ねえ、いっそ佐倉くん脚本書いてよ。ダメ?」
僕は一瞬、ドキリとする。自分の書いた脚本を、野村さんが演じる、その光景を想像して、心臓がキュッとする。それは、狂おしいほどに魅力的なアイデアだった。思わず、つばを飲み込む。
「無理じゃない。それこそ、時間的に。」
小林が口を挟む。
「そっか。でも、佐倉くんの脚本やってみたいな。」
「じゃあいつか合同演劇やろうよ。」
ハッと思いついて口にする。二人が僕を見る。思い付きに任せて、僕は言葉を続ける。
「お互い刺激になるよ。男子校と女子校で、似てるところも多いし。顧問に相談すれば、できないことはないよ。」
野村さんはぱっと明るい顔をした。
「いいね、それ。」
「面白そうだな。」
そうだ、今までなんで思いつかなかったんだろう。僕と、僕の親友と、僕の好きな人で作り上げる演劇。何も始まる前から、必ず面白いものになるという確信があった。
いつの間にか、僕は、次の公演のことをほぼ忘れて、彼女との合同公演のこと、それから彼女のことについて、四六時中考えていた。彼女への告白、どんなとき、どんな言葉で切り出そう。それから彼女との、恋人としてのデート。初めてのキス、照れたように笑う彼女と僕、繋いだ手、寒い日に交じり合う白い息、凍える彼女を僕は抱きしめる。ただただ中身のない幸せな会話。彼女の寝顔、寝息、一周年、二周年、三周年。大学生になっても僕たちは付き合い続けて、そのころから二人で一緒に住んで、大学を卒業してすぐに僕たちは結婚をする。結婚式のスピーチは小林に頼もう。二人は高校時代からとても仲が良かったです、おめでとう!それから、新婚旅行。南の島から北の国まで、どこだろうと、彼女がいれば天国だ。野村梨央。結婚したら佐倉梨央。佐倉さんと呼ばれてもしばらくは気づかない彼女に、髪をなでながら笑いかける。君はもう、佐倉になったんだよ。僕の、僕だけの梨央。
僕と小林は、合同公演について学校でもちょくちょく話をしていた。僕ら二人だけで勝手に話を進めていると思ったのか、次に会った時、彼女は少し怒ったような顔をして、言葉にできないくらい可愛かった。脚本は僕。主演が小林で、ヒロインが野村さん。自然と、そんな劇になることが決まっていった。
冬の訪れが近づくにつれて、隠し切れないほど、僕の思いは膨らんでいた。告白をするのは怖かったけれど、漠然とした自信があった。きっと彼女は僕のことが嫌いじゃない。少し考えさせてほしい、それくらいは言われたり、ひょっとしたらごめんなさいと言われるかもしれない。そしたら僕は、何度でも告白しよう。僕がどれだけ彼女のことを好きか分かってもらうまで、何度でも。でも、もし、彼女が僕のことを拒絶したら?その時僕は一体どうなってしまうんだ。行き場の失った彼女への愛を、僕はどうすればいいんだ。僕は、ひょっとしたら、おかしくなってしまうんじゃないか。そう悩んでいつまでも言えずにいる、それが怖くて、部屋につるしたカレンダーのある一日にグルグルと丸を書いた。この日だ。この日、彼女に思いを、伝える。好きです。初めて会った時からずっと好きです。こんなに人を好きになったのは初めてで、僕はもうおかしくなってしまいそうなんです。ダメだ、何を言っても伝えきれない。それでも、その日だ。絶対に、言おう。数えたらあと十日もなかった。
その数日後のことだ。
僕は週番の係を終えて、十九時頃に一人で学校を出た。小林は、渋谷で遊ぶ約束があるとかで、一人で帰ってしまっていた。
帰り道、気まぐれで駅を降りて、少し街を歩いた。特に、どうという目的もなかった。ただ、なんとなく、そのまま家に帰ってしまうのが寂しかった。
夜の風が頬に染みた。誰かいることを期待したゲーセンも、本屋も、レコード屋も、知らない人ばかりで、何も買わずに外に出た。
それから駅への短い道を歩いていたら、見覚えのある顔を見た。
僕は驚いた。彼女だ。
一気に心がざわつく。
彼女は僕とすれ違いそうになって、ようやく僕を見つけた。
道の脇に身を寄せて、偶然だね、と二人で声を弾ませる。
「佐倉くん何してたの?」
「……一人でぶらぶらしてただけ。そっちは?」
「友達と遊んでて、まっすぐ帰りたくなくて。おんなじだね。」
制服に身を包んだ彼女を見て、僕は思う。そうだ、僕の好きな人は、この人なんだ。
「どこで遊んでたの?」
「渋谷。学校の友達とね。」
マフラーの隙間に首筋の白い肌が見えた。それから、少し乱れたような髪の毛。マフラーに巻き込まれてふわっと膨らんでいて、その可憐さに胸が締め付けられる。
「ねえ、どっかでご飯食べてかない?」
「今から?今からはちょっと……。ごめん、また、今度ね。」
「分かった。」
じゃあね、と手を振って別れた。
改札をくぐるころには、今度ね、と言ってくれた彼女の声を思い出していた。ただの社交辞令だとは思わなかった。今度、次の機会。ちょっぴり残念で、でも彼女の顔を見れて、たまらなく幸せな気がした。うきうきしてエスカレーターを降りた。
学校帰り、普段は見えない一面を、少し覗けたような気がした。彼女の友達はいったいどんな人なんだろう。彼女の友達とも、仲良くなりたいな、と思う。きっと彼女は僕よりも友達が多い。
でもなぜだか、電車を一人待ちながら、ふっと、何かが引っかかった。ご飯を断られた、そのことじゃない。何だ?一体。頭の中で会話を再現する。取るに足らない会話だ。なのに、何かが引っかかる。友達と遊んだ帰りに下北に寄ってきた。渋谷で友達と。渋谷。遊ぶのにはありふれた街だ。
電車がホームに滑り込みながら警笛を鳴らす。ひどく混んだ車内にきつく押し込まれた。ドアが閉まって、電車はゆっくりと動き出した。
夜、僕は寝られずに、夜中の三時過ぎまで起きていた。どうにも気になって仕方がなかった。下種の勘繰りだと思う。あるはずがないことだと思う。それでも、眠れなかった。
それから、ふっと悪魔が囁いた。
僕は使っていなかったipadを取り出した。
小林はパソコンが苦手だ。機械全般が苦手だ。中学生の時、まだスマホを持っていなかったあいつがパソコンで使っていたlineは、僕が自分のipadで作ったものだった。スマホに引き継ぐ時も、僕がやった。その時に、僕はちょっとした悪戯心で、彼のlineを見れるようにしていた。
震える手で、アプリを開く。
一番上には、野村さんのトークがあった。
カバーを閉じた。何をやっているんだ。最低だって分かっていた。勝手に個人的な領域に踏み込むだなんて。
それでも、見たくてたまらなかった。
目が血走るのが分かった。きっと夜更かしのせいだ。ふっと頭が痛くなった。今度こそもう、僕は自分を抑えられない。
僕はそのことを何度も後悔する事になる。
最初に目に入ったのは、何気ない会話だった。だが、今夜の小林と彼女の間の二時間の通話記録の上。
“今着いた、どこにいる?”
僕にはわからなかった。なぜ、彼らは渋谷で会っていた事を隠していたのか。小林は、約束があるというばかりで、野村さんと会うなんて口にしなかった。野村さんに至っては、はっきりと「学校の友達」と、僕に嘘を付いた。
でもそれだけじゃなかった。
前日のline。彼らが話していたのは、翌日、つまり今日使うホテルについてだった。
頭が事態を認識するまで、僕は口を開けて、呆然としていた。それから、一気に、何かが、得体のしれない何かが、身体の奥から膨れ上がってきた。
いつだ。いつからだ。一体いつから小林と彼女は、そういう関係になっていたのだ。二人でホテルに行くような関係になっていたのだ。僕の味わったこの思いを言葉にすることはできない。ただ、痛烈な衝撃と、深い絶望と、それから寂しさ、信じていた僕らの間にあった壁、知らなかったのは僕ばかりだという、どうしようもないほどの恥ずかしさ。全てがないまぜになったような、そいつらは、心を一変にどす黒く染め上げた。
涙が流れていた。到底受け入れられそうにもなかった。僕の親友と僕の好きな人は、僕の知らないところでセックスをしていたのだ。こんなに残酷なことがあってたまるか。
僕は泣いた、声を殺して泣いた。彼女の美しい声も、微笑みも、優しさも、全部が嘘のように思われた。ああそうだ、彼女はずっと演技をしていたに違いない。彼女は演劇部だ。女優だ。全てが全てうそだったんだ。僕のことなんて彼女は少しだって好きだと思ったことがないんだ。全部僕の片思いなんだ。
僕が学校で、ペットボトルの分別をしている間、彼らは交尾をしていたんだ。泣いて、泣いて、むせび泣いて、それなのに気付いたら僕は激しく勃起をしていて、それで僕は心の底から自分のことが嫌いになって、小林も野村さんも嫌いになって、世界なんて消えてしまえばいいと思った。
僕は、何もなかったかのように振る舞うことに決めた。
何一つ知らずに馬鹿みたいな空想をして笑っていた、今までの能天気な僕と同じように。野村さんが女優なら、僕だって役者だ。
だから、今までと同じように三人で会った。何も変わらず、僕たちは、合同演劇の話を進めて、企画は実現することになった。
僕は夜中の三時にいつも、二人の会話を覗いて、その度に泣いた。一つはっきりしたことがある。僕はまだ、彼女のをますます好きになっていた。もう、これは呪いだった。恋は決して幸せなものなんかじゃない。恋は病気だ。苦しく僕を縛り付けて、それ以外の僕を殺してしまう、醜悪な執念だ、乱暴な狂気だ。僕は歯止めが利かなくなっていた。ひどく辛かった。
ある日、野村さんと二人で会った。適当な理由を付けてどうしてもと僕が言った。休日の午後の遅い時間で、僕は、野村さんがちょっと前まで、小林とホテルにいたことを知っていた。わざとそうなるようにしたのだ。待ち合わせ場所に現れた野村さんは、さっきまで動物のように交尾してたとは思えないほど清楚で可憐だった。彼女はいつものように天使のような微笑みで僕に話しかけた。僕はそのことに狼狽し、それからどうしようもなく興奮し、野村さんと街を歩きながらズボンの中で射精をした。股間を生温かいジェル状の液体が垂れていくのを感じながら、僕は何事もなかったのかのように振る舞っていた。
また別のある日の夜、野村さんは小林との長い電話の最中に、彼女自身の卑猥な写真を小林に送った。僕は、それを見て、号泣して、気づいたらオナニーをしていた。その日をきっかけに、僕は野村さんの写真でオナニーを繰り返すようになった。野村さんのfacebook、instagram、パンケーキを食べる野村さん、友達と笑いあう野村さん、体操服姿でピースを決める野村さん、ステージの上で輝く野村さん、カラオケで弾ける野村さん。僕はそんな野村さんの写真を片端から使ってオナニーを繰り返した。
それでも、僕は自分自身に一つ誓いを立てた。僕の書く脚本についてだ。絶対に、今まで僕が書いた中で一番面白いものにする。一番、衝撃的で、小林も、野村さんも腰を抜かすような、すごいものを書いてやる。無駄なシーンは作らない。セリフの全てに魂を込める。恥ずかしいだとか、痛々しいだとか、そんなことを考えて腰が引けたような脚本は書くな。僕の持てる全てを出せ。使えるものはなんだって使え。自分自身の経験も感情も、ふたをして隠していたようなもの全部晒してしまえ。もし、それで少しでも面白くなるのならば。そうして、僕はようやく、権利を手にするんだ。何の権利を?そんなことはどうだっていいんだ。とにかく、僕は、面白いものを書かなくてはならない。それができなければもう僕は死んでしまうしかない。
朝起きて学校に行って家に帰って脚本を書いて夜中にlineを見て泣きながらオナニーをして寝て
朝起きて学校に行って家に帰って脚本を書いて夜中にlineを見て泣きながらオナニーをして寝て
朝起きて学校に行って家に帰って脚本を書いて夜中にlineを見て泣きながらオナニーをして寝て
朝起きて学校に行って家に帰って脚本を書いて夜中にlineを見て泣きながらオナニーをして寝て……
僕は一ヵ月かけて脚本を書き上げた。これが、本当に面白いのかどうか、自分ではもうわからない。ただ、僕にとって、もう僕はこれ以上のものを書くことができないというようなところまで、出し尽くした。
彼らに脚本を送って、その翌日に集まって、感想を聞かせてもらうことにした。僕の学校に彼女を呼んだ。少し、声に出した読み合わせもしてみたかった。
「佐倉くん、やっぱり凄いね。良い脚本だと思う。」
「……悪くない。」
二人とも、僕の脚本を気に入ってくれて、それだけでわけもなく僕は嬉しかった。
「じゃあ、ちょっと読み合わせてみようか。」
「あ、その前に、私一つ聞きたいところがあるんだけど。」
野村さん、君の小さく手をあげる仕草が僕はどうしようもなく愛おしい。
「何?」
「このシーンなんだけどね。」
野村さんの白くて細い指が脚本をパラパラとめくる。
「ヒロインはさ、この時本当にそう思っているの?それとも嘘をついているの?」
ああ、と僕はため息をつきたくなる。
そこは削るかどうか最後まで迷って、それでもどうしても消せなかったシーンだった。
お爺さんが息絶える直前に、少女にこう頼むのだ。「嘘でもいい。一度でいいから私のことを愛していると言ってくれ。」
そして少女はこう答える。
「嘘なんかじゃない。心の底から私はあなたのことを愛しているわ。」
僕は少しだけ黙って、それから言葉を選ぶ。
「……嘘なんだと思う。でもね、それは魔法の嘘なんだよ。」
そっか、と彼女は微笑んだ。
「じゃあ、大切に読まないとね。」
なあ、野村さん。
僕は、野村さん、君が好きなんだ。
それ以外何も考えられやしない。どうしようもなく好きだ。心の底から本当に好きだ。世界で一番好きなんだ。誇張なんかじゃない。君が嘘をついていたって、どんなことをしたって、全部構わない。何も関係ない。僕はただ、君のことだけを考えて生きている。僕は君と二人きりでしゃべりたい。君の足の先から頭のてっぺんまで余すところなく舐めまわしたい。僕は君の靴になりたい。君の服になりたい。君のヘアゴムでもアクセサリーでもなんでもいい、君に所有されたい。君の髪の毛や、耳たぶや、おへそになりたい。君になりたい。君の吐いた息だけで呼吸して、君のかいた汗だけを飲んで、君のことを食べてしまいたい。君のどんな部分も、君の知らない君のことも、僕が見つけて愛してあげる。君の爪のひとかけらだって額縁に入れて飾るし、君の言葉の一つ一つを一言一句たがわずにノートに書き起こして僕はそれを聖書にしよう。そんで君の家の方を向いて一日五回いや五百回祈るんだ。なんたって君は僕の好きな人で僕の神様で僕の悪魔で僕の天使で僕の僕だけの女神様で僕の100%の女の子で、僕は君とキスがしたいし手をつなぎたいしハグもセックスもしたいし結婚して一生仲良く添い遂げて二人で同じ日に死んで天国だろうと地獄だろうと君と同じ所に行きたくて君に全部を捧げてしまいたくて、なあ、それが叶わないのならば、せめて、せめて、これだけでいいんだ、一度だけ愛していると言ってほしい。嘘でいいんだ。たった一度きりで良いんだ。もし、もしも君が、僕の目を見て、まっすぐに見て、いつか僕の小説を褒めてくれたのと同じように、僕に、愛していると言ってくれたら。嘘だって、真実じゃなくたって、僕はそれだけで幸せなんだ。僕は君のことがどうしようもなく好きなんだ。
好きなんだよ。
好きだよ。
僕の好きな人。 鈴川 @drmeobook
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