夕闇の先

@tennou0221

#01 : 無い感情

 「どこだ…ここ」

目を覚ますと、鼻をつんと突くようなアルコール臭がほのかにする。

視界に映る蛍光灯の光が無遠慮に目の中に入ってくる。

感覚が遠い手を動かしてなんとか自分が厚い布団に覆われていることが分かった。

背中の下の固くとも柔らかくともない感触を加味して考えると、どうやら自分はベッドの上にいるようだ。

それを理解した瞬間、ある疑問が頭を過る。

なぜこんなところにいるのか。

曖昧な記憶を模索するが、どうにも目を覚ます前のことが思い出せない。

意識ははっきりしているが、寝起きだからだろうか目がぼやけ、腕にも力が入らない。

夢でも見て、意識が混濁しているだけなのだろうかと考えてみるが、全身にピリピリと疼く痛みがそうではないことを証明していた。

なんとか不自由な腕を動かし起き上がろうとすると、途端に背骨が鈍い音が立て、腰に鋭い痛みが走った。

突然のことに、訳が分からず再び白いベッドの上に落ち着いてしまう。

数秒の間、痛みに唸った後やっと目が冴えて周りの状況が把握できるようになった。

カーテンに仕切られたスペースの中にベッドが置かれているらしい。

ベッド横の壁際には棚があるが何も入っていない。

その上にはテレビが置いてあるだけだ。

そして、包帯に巻かれた自分の体と薄っぺらい服装を確認してようやく彼は自分が病院にいるのだと認識する。

同時にここに行き着くまでの経緯もじわじわと思い出してきた。


彼はとりあえず手元のナースコールを押した。


 これでもかとばかり短くなった煙草を灰まみれの灰皿に押し付ける。

そうしてまた一つ灰皿に燃えカスの山を積み重ね、出発の身支度をする。

彼の名前は佐田繁(さだ しげる)。

時刻は午前4時、日も昇っていない暗闇の中仕事に向かおうとしている。

特に家が仕事場から遠いわけでもなく、これがこの男のいつも通り。

部屋の電気を消し、土に塗れた靴を履き、錆の回る玄関ドアに鍵をかけ、ボロっちいアパートを出る。

仕事場までは徒歩で3分、途中でコンビニに寄った。

この辺りは田舎でもないが、佐田の通勤路には灯りがほぼ街灯しか灯っていない。

そんな中、闇夜を照らすコンビニは一際輝いて見える。

コンビニの中に入り、無愛想な店員に無愛想な会釈をし、いつものコーナーに一直線。

そこでおにぎりとお茶、今日はエナジードリンクも手に持ってレジへ歩いていく。

昨日夜遅くまで酒を飲んでいたせいでまだ頭がズキズキと疼いているのだ。

コンビニに他の客はいないため、待ち時間もない。

コンビニの中には店員と佐田としかいない。

レジの上に商品を置くと店員は機械のような動きで品物をレジに通していく。

途中、機械的な店員の手がぴたりと止まったがおそらく、いつもと違ってエナジードリンクが増えていることに気づいたのだろう。

数秒後にレジはまた動き出した。

一瞬でいつもと同じ光景に戻ったが、レジの液晶に映る値段が数百円多いことと、店を出る寸前に「体に気をつけて」と呟くのが聞こえたのが少し新鮮に感じた。


返答は、しなかった。


そこから歩道に沿って歩いていくと赤信号が見えた。

信号を待っている間はずっと片足でリズムを取る。

横断歩道が佐田を招き入れると、擦り切れた白線を佐田の靴が無遠慮に汚して歩く。

佐田が渡り終えた10秒後ほどにまた信号は色を置き換え、誰もいない客を待つ。

信号を越えると、もうすぐそこに仕事場が見える。

灰色のパネルで覆われた中にはライトに反射した光がちらちら覗いている。

頭を軽く抱え仕事場に入ると、入り組んだパイプの足場が佐田を迎えた。

足場に囲まれた奥では建築途中の建物が姿を覗かせている。

そのまま足場の横を通り過ぎ、少し離れたところにある現場事務所に入った。

中は電気がついており、少し汗臭い匂いが鼻をついてくる。

窓際の中央には接待用かボロボロのソファが2対と間に背の低いテーブルが置かれている。

そこでは数人の同僚がラジオを流しながら談笑をしていた。

佐田は同僚には目もくれず、中に入ると真っ直ぐ自分のデスクへ歩いていった。

デスクは几帳面に整えられていたりはせず、かといって物がデスクいっぱいに散らばっているわけでもない、普通だった。

ある程度汚れたデスクの上に持ってきたコンビニ袋を置く。

おもむろに髭の生えたあごを手でさすると、コンビニ袋から頭を出したペットボトルに自分の顔が反射する。

そんなよれよれの自分を見てなぜか落ち着く自分がいる。

いったい人生をどこで間違っただろうか、そもそも間違いなんてあったのだろうか。

元からこういう道筋を辿るよう定められているだけなのかもしれない。

ボロ臭いアパートにも低賃金の肉体労働にも社会の華とはまるで無関係なこの生活にもだいぶ慣れてしまったようだ。

こんな毎日を20年近く送ってきたのだ。慣れぬはずがない。

自分はこれからもこの生活を続けていくのだ。

仕事が始まるまでの数十分の間こんなことをぼんやりと考えてしまう。

そうして、ひとしきり考えたあとでいつも通り仕事をこなし家に帰り社会と自分を呪って酒と眠るのだ。

「そんな生活楽しいわけないじゃないか」

誰かに何かを言われようとも何も感じない。

怒りや悲しみ、納得する感情さえも長い年月とくたびれた生活が風化させてしまっていた。

服を着替え出て行く佐田を、同僚の一人が何か言いたげな目で見送ったが、その視線に佐田は気づく由もない。


今日も変わらぬ毎日が始まる。


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