2―14終幕、故郷は遠く。
「「「お疲れ様」」です」
掛け声と共に打ち鳴らされる杯の音は、故国のそれと比べると低く重い。
取っ手が付いた大陸の
私は思わず、強かに酒を浴びた胸元を見下ろした。
過去の不手際は、当然ながら跡形もない。
「……なにしてんだお前?」
不審そうなジンさんに、私は首を振る。
汚れは染みも残さず消えた。傍目には、私が何を思い出したかなど解る筈もない。
そういうものだ。過去はやがて傷痕ごと消え、周囲は理解できなくなる。ただ、己の中に不手際が居座るだけ。
「まあ、良いけどな。乾杯したならさっさと呑むのが礼儀だぞ」
「そうですね、失礼しました」
私は、慌てて杯を口に運ぶ。
先日のことがあるから、もうこのような機会もあるまいと考えていたのだが、幸いにもジンさんの方から「任務完了の御祝いをしようぜ」と誘ってもらえたのである。
ジンさんとは友好的な関係を維持したい、この機は逃せないのだ。
私は何も考えず、中身の液体を口に運び――
「……え?」
――その味に、目を見開いた。
まろやかな感触が、舌の上で踊る。
喉を通せば心地好い灼熱感が駆け抜け、そして冷たさが後を追う。
喉がごくり、と鳴った頃に浮かび上がるのは、何処か優しい熱だ。
母の刃を思い出す。
斬り裂かれた敵がぽかんと口を開け、離れた自らの胴体を見詰め、墜ちていく首に手を伸ばしたその瞬間に漸く血が噴き出す。
死神さえ間に合わない、神速の刃。それが、今ここに。
「……これ、は?」
「大成功、だな?」
ニヤリと、杯を手にしたジンさんが笑う。
そちらに払う意識の余裕は、私には無かった。何しろたった今私の喉を通っていったのは、故国の酒だった。
私の島の、大地の味だ。
遠く離れた今、それは記憶の中にしか存在しない、懐かしい味だったのだ。
「今回の任務、貴族の方にもかなり恩を売ったらしいぜ。その辺、あの隊長の世渡りかな」
「或いは、悪運かもなぁ」
こりゃあうめえとヘラヘラと、ラットさんが言う。「あの貴族様、なんつうか、録でもないのに長生きしそうだしな」
「ま、とにかくだ。その功労の中でも、雑魚を蹴散らした挙げ句、最も輝かしい功績を上げた我々には、ご褒美があったのさ」
「輝かしい、功績? 何の話ですか?」
「隊長さまの前に頭目を差し出したことさ。適度に弱らせて、手柄をお譲りしたってわけだ」
それはまた、嬉しくもない話だ。
嬉しくもないが、しかし、良くある話ではある。力の足りない主君のため、忠臣がお膳立てをする。
誰だって、初陣はそんなものだ。牙を突き立てる感触を覚えさせなくては、仔虎も獲物を殺せない。
「そこでふと、思い出したんだ。お前がいつも、不味そうに酒飲んでるなってさ」
「そんなことは……」
「で、だ。言ってみたら、流石は貴族様。【ヴィーネの角杯】、あらゆる酒を産み出す魔法道具をお貸しいただいたのさ」
「そんな……では、これは」
これは、皆で勝ち取った報酬なのか。皆が尽くした力の末を、私一人が甘受したのか。
それは、不義理ではないか。
動揺は、顔に出ていたのだろう。
私が何を言うまでもなく、ジンさんはぽりぽりと頭を掻いた。
「一番活躍してたのは、お前だろ」
「私は頭目を取り逃がしました! 部下の数で言えば、ジンさんの方が珍しく多かったですよ!!」
「その、取り逃がした事に対する報酬なんだよこれは。それと、珍しくって言うな」
「しかし……」
「あぁもう!」
ダン、とジンさんが杯を円卓に叩きつける。
重い響きが魚の揚げ物を軽く浮かせ、ラットさんが抜け目なく自分の杯を逃がした。
何処かで見た光景だ。あのときも、ジンさんは怒っていた。私の考え方に対して。
「良いか、俺たちはいつだって故郷の酒は呑めるんだよ。何せ、ここが俺たちの故郷だからな。……けど、お前は違うだろ」
「それは、私は……」
責めてる訳じゃねぇよ、とジンさんは杯を持ち直した。「お前は、ここに来た。故郷を離れて、ここで生きていこうと決めてきた。そうだろ?」
私は頷いた。
そうだ、その通り。
平和の中で生まれ、平和を守るために武器を取ったこの大陸の人たちのようになりたいと、私は夢を見てここに来た。
そしてやがて、いつの日か。私の故郷、
「……ならやっぱり。お前は、故郷の酒を飲むべきだ」
「何故です。私は、あの争乱の地獄を忘れて、」
「忘れるな」
ジンさんの言葉は、彼の剣の数倍鋭く私を斬りつける。「お前は、お前の地獄を忘れるべきじゃない」
「……いいか、カノン。これは俺の勝手な考えだけどな。多分、地獄を知っている者の方が、人に優しく出来る。人を――護れると思う。お前の地獄が、お前を強く、正しくしてくれると、俺は思う」
「…………」
「お前は、遠くに来たんだカノン。故郷は既に遠くて、どんどん過去へと離れていってしまう。放っておくだけで、お前の故郷は消えていくんだ。
お前の目が、耳が、鼻が舌が。故郷を忘れていく。ならせめて。酒くらいは、たまには思い出してやれよ」
「……ジンさん、私は……」
「礼なら止せよ? 照れ臭い」
強がるようにそっぽを向いて、ジンさんは杯を持ち上げる。
その中身が、こちらの飲み物ではない、無色透明の清らかな酒だと私の目が見抜く。
止める間も無く、ジンさんはそれを口に運んで一息に流し込んだ。
……一口、一飲み、一息で。
「あ」
「……ふへへ」
顔が真っ赤に染まる。
視線が不安定に揺らぎ始め、頬が緩み、意味もなく笑顔に変わる。
奇妙な笑い声が、ジンさんの唇から漏れたのを最後に。
ジンさんは、円卓に倒れ込んだ。
「…………ホント弱いなこのオチビちゃんは」
がーがーと喧しくいびきを掻きながら円卓に突っ伏すジンさんを呆れたように眺めながら、ラットさんが肩をすくめた。
まあ、仕方がないだろう。私の故郷の酒は、本当に一瞬で人の脳を揺らす。飲み慣れない人が、しかも元々酒に強くないのなら、倒れるのも無理はない。
ラットさんも、恐らくは同じものを飲んでいるのだろう。その顔は微かに熱を帯びている。
だからだろうか。ラットさんの舌は、少しばかり饒舌らしかった。
「……そこの坊やも言ってたけどさ、お嬢ちゃん。あんまり気にするなよ。お前さんはオレたちじゃないし、オレたちだってお前さんじゃない。好みは違う、生き方も、優先するものも」
「……はい」
「だから、気にするなよ。大事なのは、そいつが何のために死ぬかだ。命と引き換えに、何ならしても構わないと思うかだよ。あぁ、ロータスの坊っちゃんがいらっしゃればねぇ。オレは学がないから、上手いこと言えねぇわ」
「そんなことはありませんよ。ラットさんも、ジンさんの言葉も。私にとってはとても嬉しい贈り物です。
……ラットさん、ところで、貴方は……」
「やはりここにいたか!」
良く通る澄んだ声が、酒場を貫いた。
聞き覚えのある気品に満ちた声が、聞き覚えの無い焦りに満ちてこちらに向かってくる。
「ロータスさん?」
「は、班長さん。いやいや、さっきのはその……ジョークっていうかさ」
「さっきの? ……そんなことはどうでも良い、ジンも居るな。丁度良い」
「ジンさんは寝てますが……」
「叩き起こしてくれ」
「どうしたんですか、ロータスさん。柄にもなく焦っているようですが……」
「焦るさ、そりゃあな。聞けば君も焦るだろう」
ロータスさんは円卓の縁に両手を着くと、じろりと私たちを見回した。
その目付きには普段彼が欠かさない優雅さが一欠片も残っておらず、だからこそ、私たちは事態の深刻さを悟った。
何かがあったのだ。しかし、何が?
続くロータスさんの言葉は、私の予想を超えていた。予想を超えて、遥かに不味い事態なのだと告げていた。
「……【土竜】が消えた。例の魔法道具も一緒にな」
「っ、そんな!?」
「詰め所で取り調べてたんじゃないんすか?
それで、脱走なんか出来るわけ」
「見張りが倒されていた。爪も、倉庫からいつの間にか持ち出されてたらしい。多分、外部の仕業だ」
「まだ、残党が居たのですか?」
「それなら、まだ良いがね」
ロータスさんはため息を吐くと、懐から封筒を取り出した。
その中に包まれていたのは。
「蝶の、羽?」
「こいつから、魔力が関知された」
「魔力!? つうことは、そいつは……」
「そういうことだ。……敵は、魔術師だ」
吐き捨てるようなロータスさんの言葉、血走った瞳、そして漆黒の蝶。
魔術師。この大陸で、けして出会ってはならない者の名前。それが、敵。
衝撃と喧騒が、私の中から機会を奪っていった。
質問の機会だ。私は、ラットさんに尋ねようとしていたのだ。
――貴方は、何のために死ぬのですかと。
騒がしい酒場の声が、私たちの席からは遠退いていく。
重い沈黙の中、私たちが見詰める前で、羽の欠片が風に揺らいで羽ばたいた。
【第二章 完】
暗殺者の居る街で。 レライエ @relajie-grimoire
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