第5話 マニカルニカーガート

昨晩と同じ食堂に向かうと、すでに二宮さんがいた。

「おはようございます」

「おはようございます。今日はとても暑いね」

異性と話すのはあまり得意ではないのだが、なぜか二宮さんに対しては恥ずかしさや照れもなかった。何か自分を大きく見せようというあの変な強迫観念がなかったからかもしれない。

「ナオミさんってパソコンもスマホも持ってないから連絡一切取れないんですよね。コウタロウさんは?」

固めの蜂蜜がたっぷりかかったパンケーキを食べながら、二宮さんが聞いてきた。

「あいつはそういうの嫌いなんじゃないかな。まるで七〇年代のバックパッカーって感じだったしね。僕はスマホは一応あるよ。調べ物したり地図見たりするくらいだけど」

あれだけ荷物を厳選したのだが、スマートフォンは手元に残しておいた。スマートフォンは故郷と僕をつなぐ最後の糸のようなものだったからだ。スマートフォンがあるだけで、僕はしっかりとした大地に守られているような安心感があった。逆に言うと、スマートフォンを置いていく勇気と覚悟がなかった。

「ナオミさんにコウタロウさんと会ったよって連絡したかったんですけどね」

二宮さんは悲しそうに言った。二宮さんはチャイの入ったコップの縁に止まっている蝿にデコピンを食らわせた。


ナオミはカメラ以外の電子機器は何一つ持っていなかった。旅の中頃まではウォークマンを持っていたそうだが、それも仲良くなった現地の友人にあげていた。

「スマホとかないと困らない?飛行機のチケット調べたり、ネットバンクの管理とかさ。それに誰とも連絡できないじゃない」

ある時、僕は不意にナオミに聞いてみた。僕はこのことをずっと確認したかったのだが、なぜかこれを聞くと僕が負けてしまうような気がしたので我慢していた。何に負けるかは分からないが。

「そういうものから離れたかったんだ。スマホが一つあるだけで色んなものが体に絡みついてくるような気がするんだよ。別に無視すれば良いんだけど、そういう柵の一切ない世界に行きたかったからね。カメラだけは置いてこれなかったけど」

ナオミは傷だらけの一眼カメラを撫でながら話していた。

「ああ、でもインターネットは使うよ。ネットカフェに行って飛行機のチケットを買ったり、相場を調べたりね。随分ふっかけられるから」

「だったらスマホくらいなら荷物にもならないし、持っておけばよかったんじゃないか?結局同じことだよ、それじゃあさ」

「そうだね」

ナオミは笑顔で言った。僕はこういう自分が嫌いだ。その時の情景が何度も浮かんでは僕を情けなくさせた。



朝食を終えて、僕らは火葬が行われているマニカルニカーガートへ向かった。

路地の日陰の中、人混みを縫いながら僕らは歩いた。バラナシは狭い迷路のような路地が張り巡らされているが、建物の間にあるので日陰が多い。

路地はお店で溢れている。飲食店から土産店、寝具屋、楽器屋、刺青屋などがところ狭しと立ち並ぶ。しかも数年前にここの星の数ほどあるヒンドゥー寺院の一つでイスラム教徒による爆弾テロがあったため、路地の角という角に兵士がうじゃうじゃいた。それもライフルやショットガンのような日本ではまずみられない装備を平然と手に持っている。土地勘のない旅行者にとっては治安面から考えてありがたい存在ではあるが、彼らからは一様にしてやる気を垣間見ることはできない。兵士にとって最も大切にすべきそのライフルを顎の支えにして寝ていたり、日陰でトランプの賭け事をしている。

武装したただただ暇な集団の一人が、二宮さんを見つけると満面の笑みで小さく手を振った。周りの兵士たちもニヤニヤしている。二宮さんは軽く会釈をすると、「平和だね」と言ってすたすたと歩いて行った。兵士たちは「コニチワー!コニチワー!」と言ってゲラゲラと笑った。


マニカルニカーガートは入り組んだ路地の先にあった。

ヒンドゥー教徒はここで死を迎え、ここで荼毘に付され、ここからガンジスに還されることが永遠の呪縛からの解放となると信じている。

僕はここにもう何度も訪れていた。

初めて来た時の衝撃は、僕の冷め切った心を懐かしい熱さで焦がすようだった。

火葬場は薪が集められたドームのすぐ下にある。死者はきらびやかな布に包まれ、人々に担がれてここまでやって来る。人々はガートの階段をゆっくり降りて行き、遺体をそのままガンジス河に浸す。そして台座に高々と積まれた薪の上に、聖なる水で清められた遺体を乗せ、火をつける。

火は少しずつ体を焼いていく。それを家族は静かに見ている。布が焼き切れ、そこから生身の足が覗く。火力が弱まると油や枯れ草を入れて焚きつける。火はパチパチと鳴りながら、死者を火で包む。その間、一時間ほどであった。僕たちはその遺体が真っ黒になるまでただただ眺めていた。たぶん、おばあさんのようだ。小さく痩せた体は火によって曲げられ、折られ、灰になる。係の男が竹の棒で遺体とともに薪を崩す。容赦なく叩き、突く。そして灰はガンジスに流される。すぐに次の遺体が運ばれる。それが至るところで繰り返されている。

僕と二宮さんは、この自然の道理のように繰り返されるすべてをただ眺めていた。

目の前の台座にまた遺体が運ばれてきた。

白い腰巻きをつけた老人だった。ただそこで寝ているようそっとおかれていた。青白い肌をしたおじいさんが薪の上に置かれた。そして、何か液体をかけられ、少しの祈りの後に火がかけられた。火は少しずつおじいさんを包み込み、パチパチと音がなり始めた。

すぐ横の綺麗な布がたくさん巻かれたおばあさんの遺体にも火がかけられた。絹でできた美しい羽織は一瞬で縮こまり、細かな模様は黒くなってわからなくなった。

火は黒と白の煙を出しながらゆっくりと広がる。おじいさんは火に包まれてよくわからなくなっていった。おばあさんは顔だけまったく変わりなく微笑んでいるように見えた。

パチッという大きな音とともにおばあさんの真っ黒な足が折れ曲がった。不思議と何も感じなかった。

二人の体はだんだん小さくなっていき、火が小さくなると男がやってきて何度も棒で叩いて砕いていった。そしてまたガンジス河へ高らかに撒いた。

神秘的でどこか突き放すような情景、死という僕にとって当事者でありながらどこか遠い存在が目の前にある。火の中で生々しく反り返る細い足が、本能的な死への漠然とした恐れを呼び起こす。それはまるで僕ですら知り得ない僕の中の深淵を覗きこむような感覚だった。ぼっかりとした深淵の中を這いつくばって覗くと、真っ暗な中でゴソゴソと蠢くものがあった。よく目を凝らすと、それは毒々しい色の筋肉の塊でできた巨大な芋虫のように見えた。

急に風向きが変わり、僕は全身に火葬場の煙を浴びていた。煙は目や喉の粘膜を刺激し、小さな痛みを生んだ。その痛みは僕に自分の中にはまだ知らない空間があるということを、至って平然と突きつけてきた。

一際濃い煙が濃厚な痛みを後に引き連れ、僕の体の中に入っていった。煙は僕の体の中で充満し、ゆっくりと丁寧に調べながら、特に脆い所に痛みを解き放っていった。痛みは僕に無数の質問を浴びせながらパチンパチンと弾けていった。

遺体の一つがむっくりと起き上がり、折れた真っ黒の腕を大きく振りながら近づいてきた。肘の少し上くらいから折れた腕は、不自然に曲がった裂け目からオイルのようなものを吹き出している。近づいてきた遺体はナオミと僕の顔を無理矢理ねじ込んで混ぜたような、奇怪でおぞましい相貌をしていた。遺体は地面から少しだけ浮いていた。一定の高さと速度を維持しながら、これでもかと腕を振ってなおも近づいてくる。「ああ、腕が千切れそうだ」と僕は思わず口に出した。腕の裂け目の皮膚が腐った雑巾のように千切れていく。腕が飛ぶ。腕はガンジス河にボチャンと音を立てて落ちた。腕はくるくると回りながら、小さな渦を作った。渦には黄色や赤の花が吸い込まれるように集まってきた。前を見ると、もうそこには何もいなかった。


いつからだろうか?

僕はこの内から発する幻影のようなものに悩まされていた。それは声だったり、映像だったりした。僕はこれを一種の神経症だと思っていた。日本での生活が内側からじわじわと破綻していく過程で生まれた危険信号だと、そう思っていた。これは旅に出る数ある理由と言い訳の一つでもあった。

だが違った。これはストレスでも狂人への誘惑でもなかった。そんな単純なものではなかった。僕は軽く眩暈がして座り込みそうになったが、横で不思議そうに僕を見つめる二宮さんを見て我に返った。

「どうしました?」

僕は脳の溝の間に走る青白い痛みの閃光を、はっきりとしたイメージと現実の痛みとして感じながら言った。

「ちょっと煙が目に入ってね」

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旅の奥 ベンジャミン・カーツ @Kurtz

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