第4話 バックパッカーと本

パスポートに新たなスタンプが仲間入りしたあと、僕らはバスに乗り込んだ。バスの中はエアコンを切っていたせいで、とても蒸し暑かった。パタヤ行きの乗客はバンに乗り換えたので、後ろの席がすっかり空いた。僕はナオミの隣りに座った。

「さっきの本、ケルアック?」

ナオミが言った。

「ああ、これね」

僕はカバンからジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード」を取り出した。カバーをとっくの昔に失ったボロボロの文庫本を見て、僕はとても恥ずかしくなってきた。ボロボロだからという意味ではない。先ほどまでは何の変哲もない馴染みある本の一つでしかなかった「オン・ザ・ロード」が、この蒸し暑いバスの中であまりにも露骨な象徴として振舞っていたからだ。まるで下手な役者で固められた戦争映画のラストシーンのような露骨さだった。

「君を起こした時にチラッと見えてね」

「やっぱり旅をするならこれを持ってこなくちゃいけないような気がして・・・」

僕は何とも言えない強迫観念から抜け出したい一心で、てんでつまらないことを口にした。

「ベタだね」

ナオミはうっすら笑みを浮かべながら言った。その顔を見て僕も何だか笑いそうになった。

「ああ、ベタベタだよ」

僕がそう言うと、ナオミはサブバッグに手を突っ込み、さっとナイフでも取り出すように一冊の本を取り出した。

「チェ・ゲバラ著、モーターサイクル・ダイアリーズ、これもベタだろ」

ナオミは不敵で胡散臭い真顔をして言った。

僕らは腹を抱えて笑った。周りの欧米人バックパッカーがうるさそうにこちらを覗き見た。でも僕らは笑いを堪えることをせず、ただそれが自然に終わるに任せた。僕はこみ上げる笑いとともに、舌の痺れるような快感で震えていた。僕はこの不思議な快感を以前どこかで味わったような気がした。それから何日かどうにかして思い出そうと随分努力したが、それは柔らかな思い出のベールの中で時折そよそよと顔を覗かせるだけであった。でもひとつ言えることは、それは僕が小学生くらいの時に違いないということだけだった。



荷物は最小限にまとめてきた。地図をなぞりながら進んでいく僕の旅では、バックパックに入りきるだけのもので何ヶ月も生活することになる。僕はとにかく足を軽くしたかった。体が重いと歩き出すのが億劫になるような気がしたからだ。とにかく身軽に、とにかく縛られずに。

そう考えると自分に何が必要かというより、何が不必要かを考えるようになった。バックパックはどんどん軽くなっていった。服は半分以下になった。ノートパソコンや一眼カメラも持っていかないことにした。もしものためと思ってたくさん買った薬もだいぶ減らした。

でも本だけは減らすことができなかった。この旅へと僕の背中を押してくれたのは本だったからだ。(日常の息苦しさをまざまざと見せつけてきたのも本だったが)

せっかくだからと普段では忙しくて読めなかった大著だったり、咀嚼するのにたいそう時間のかかる哲学書を持っていこうと思っていた。なぜなら僕の本棚の湿っぽい奥の方でドストエフスキーやウィトゲンシュタインやハンナ・アーレントなんかの著作達が、わざとらしく喘息患者のような咳をしていたからだ。

だが出発直前に僕の旅の相棒たちはガラリと面子を変えていた。それは旅のきっかけとなった、もう何度も読んだ本だった。植村直己やブルース・チャトウィンやチェ・ゲバラ、そしてジャック・ケルアックだった。


「良かったら本を交換しないか?」

ナオミが言った。

「・・・いや、どの本も馴染みがあってね」

「そうかい」

ナオミはそういうとにっこり笑った。なぜかとても嬉しそうだった。

「僕のバックパックは本だらけだよ。今は電子書籍なんて便利なものがあるけど、でも僕は本は紙じゃないと駄目なんだ」

「僕もそうだよ」

「ずっしり重くて嵩張る旅人の大敵のね」

ナオミはそう言うと一冊の本を取り出した。分厚くてかなり凝った装丁の本だ。

「ちょっと今のことを書いておこう」

「日記?」

「いや、日記とはいえない。少しでも頭に引っかかったものを書いておくんだ。忘れないように」

そこには航空券や入場券、英語や中国語で書かれたメモ、土産屋で売っていそうなシールなどがごちゃごちゃと張ってあった。そしてその隙間を縫うように精緻なイラストや小さな文字で何かが書かれていた。

「実は病気でね。すぐに物事を忘れちゃうんだ」

僕は胸をサクッとえぐられるような感覚を受けた。そして本を交換してやらなかったことを後悔した。

「嘘だよ。ただのメモ魔なんだ」

「なんだよ。驚いたよ」

「東條英機もびっくりするくらいのメモ魔でね」

僕は何となく期待が裏切られたように感じた。だから何も言わず窓の方を見た。

「昔からの癖でね。初めはその日にあったこととか、気に入った文章なんかを書いていたんだけど、今じゃとにかく残しておきたいと思ったことは何でも記録しているんだ」

「さっきの僕の会話にそんな重要な事あったかな」

「ああ、久しぶりに面白かったよ」

「ケルアックがかい?」

「まあそんなところだ。普段なら寝る前にまとめて書くんだ。人前じゃ絶対開かない。でも君なら別に見られても良いし、目の前で書いても良いような気がしたんだ。気に障った?」

「いや、別に」

変わった奴だなと思った。でも何だか嬉しかった。

そして僕は何故か本当にナオミには記憶障害でもあるのではないかと疑った。それは会って間もないナオミに何の抵抗もなく引き寄せられる自分を納得させるためなのか、何か彼には常人と違う魅力を放つ代わりに、あの天才特有の奇行や先天性の何かしらの欠落があるのではないか、いやあってほしい、そう僕は思った。

ナオミの説明できないどこか神秘めいた雰囲気を言い訳もできないくらい強く感じた僕は、何か体の良い言い訳を求めることで、自らの小さくて柔らかい何の変哲もない小さな心臓を必死に守ろうとしていた。

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