第3話 二宮さん
二宮さんはほっそりとした身なりからは想像もできないくらいタフな女性だった。 彼女はネパールで一ヶ月以上ヒマラヤ山脈の中を歩き回っていたという。
「エベレストトレッキングに行ったんですよ。登山なんて初めてだったのに、標高五〇〇〇メートルまで行っちゃいました」
「すごいね。高山病は大丈夫だったの?」
「ホントに景色が綺麗で。気づいたらそこに」
「タフだなあ」
「バカなんですよ。わたし」
二宮さんはバックからいかつい一眼レフカメラを取り出した。そこにはビビットな青で覆われた空の下で白く輝くエベレストがあった。カメラの小さな液晶画面から飛び出てきそうな雄大な山だった。
「きれいだね」
「ネパール行かないんですか?」
「これ見たら行ってみたいと思いました」
「エベレスト行ってみてください。なんか世界征服した気分になりますよ」
同世代の異性とこういう会話をするのは、随分久しぶりな気がした。僕は時折自分でも気づかないくらい楽しそうに笑っていた。僕は他人に歯を見せることはない。大きく口を開けたり大声を出すのは行儀が悪いと教育されていたし、そもそも他人に感情を晒すことが嫌いだったからだ。もちろんあからさまに感情を出すことが良いことだなんて勘違いしている人間も嫌いだった。
「これで山に魅せられちゃって、その後もいろんなところにトレッキングに行ってきました」
「僕も中国で山に登ったよ。全然人がいなくて、すごい怖かったけど。でも景色は実際、本物見ないとね。ネットで見るより千倍はすごかったなあ」
僕は四川省のある山に登っていた。シーズンオフで登山者が少なく、実際のところ道に迷ったり水が尽きたりとけっこう大変な目にあった。
「中国かあ。山水画みたいな山を登ってみたいなあ」
「その山の山小屋が面白くてさ。天下第一便所ってのがあるんだ」
「天下第一?なんか凄そうですね」
「すっごい景色を見ながら用が足せるの。オープンビューで」
二宮さんがナオミと出会ったのは、北インドのリシケーシュというところだった。ネパールから陸路でインドに入った二宮さんは、ヨガの聖地であるリシケーシュに向かった。
「食堂にいたんですよ。ナオミさんが。で、私を助けてくれたんです」
「助けた?あいつが?」
真剣な顔で女性を助けるナオミを想像したら、思わず吹き出しそうになってしまった。
「私がヨガの先生に言い寄られてたんです。一回だけ行ったヨガの道場の、三〇歳位の先生なんですけど、ものすごくしつこいんです。その時は無視して帰ったんですけど、ちょうどその日の夜に宿の近くの食堂で出会っちゃったんです」
「で、そこにナオミがいたってことか」
「そうです。ナオミさんがまあまあって感じでその男を外に連れ出して、何か喋った後、彼を追い出してくれたんです」
「かっこいいじゃん」
「ええ。それで、お礼ついでに食事をおごったんです」
ナオミはそのインド人に何を言ったのかだろうか。
「ナオミさんの話とっても面白くて、それでけっこう長いこと一緒にいたんです。その時、コウタロウさんの話が出て」
「それで僕のことがわかったんだね」
「だってナオミさんの言ってた通りだったんで」
二宮さんとは明日一緒に火葬場へ行くことを約束して別れた。宿のテラスから真っ暗なガンジス川を眺めながら、僕はまたナオミのことを思い出していた。
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