第2話 ナオミ
「なんで日本人宿泊まらないんですか?めっちゃおもろい奴ばっかりで楽しいっすよ」
田辺くんはチーズの油でギラギラしているピザを頬張りながら言った。川島くんは軽く食事を済ませると大事を取って宿に帰っていった。
「・・・なんでかな?特に理由はないけど」
「じゃあ、宿移してみんなで遊びましょうよ。昨日、四人も移動しちゃって。大学生のグループで良い奴等ばっかりだったんですよ。まあ、大学生っていっても俺みたいに暇じゃなくてね。コルカタの方に行っちゃったんですよ。いやあ、寂しくなっちゃったなあ」
二宮さんは二五歳で和歌山出身だといった。彼女は静かにチャイを飲みながら田辺くんの話を聞いていた。
「考えておくよ」
田辺くんはその後もミャンマーが良かっただとか、メキシコで強盗にあったとか、インドのどこそこは治安が悪いとか、そんな話をした。
「やべ、八時か。俺、宿の子と約束あるんで行かなくちゃ」
田辺くんは黄色いGショックの腕時計を見ると立ち上がって勘定を頼んだ。
「二宮ちゃんも一緒に帰る?夜、危ないし」
「大丈夫。寄りたいところあるし」
「そう」
田辺くんは二宮さんを二秒位みつめて、僕にまた会いましょうと言って店を出て行った。
「まだいます?」
ちょっとした沈黙の後に、いきなり二宮さんは言った。
「いや、特に予定はないし、ここで本でも読もうかと思っていたからもう少しはいるつもりだけど」
いきなりの質問で少し焦りながら僕は言った。
「ちょっと聞いてもいいですか?」
「いいけど、何を?」
二宮さんは机の上で腕を組んだ。
「あの、何で旅行しているんですか?」
「何で?」
旅をしていると一番多く聞かれる質問だった。同じバックパッカーや現地の人々、出発する前に家族や友人にも聞かれた。でも彼女のそれは少し違うような気がした。
「まあ、仕事も辞めて暇になったからというのと、若い時にしかできないと思ったから・・・って答えは求められてなさそうだね」
「そうです」
「自分探しではないね。自分が無い人は旅なんかしないから。それに夢だったわけでもない。なんて言ったら良いかなあ。まあ大袈裟な現実逃避かな」
「現実逃避?」
「そう、現実逃避。でも今は何が現実かもわからなくなっちゃったよ」
二宮さんはクスクス笑い出した。
「いきなりすみません」
「いや、良いけど。どうして?」
「ナオミさんが、もしあなたに出会ったら聞いてみろって」
あいつは、ナオミは実在したのか。僕は少し安堵した。そしてそんな自分を笑い飛ばしたくなった。
『素晴らしいじゃないか!君は干上がる寸前の淀んだ水たまりから這い出してきたんだ。そうでもしなきゃ、人生はいつまでも他人ごとだよ。九十九.九%の人間には、そこから連れ出してくれるクライドなんていつまで待っても現れないんだから』
ナオミの不思議な品の良さを感じさせるあの声が、まるで目の前にいるかのように鮮明に思い出された。
「彼に会ったのか。それにしても僕のことがよくわかったね。写真でも見たの?」
二宮さんはしとやかに笑いながら言った。
「ええ、すぐに分かったの。だってナオミさんが言ってた通りの人だったから。『バラナシにまるで近所の行きつけの喫茶店で暇そうに本でも読んでいるような顔をした日本人がいたら、そいつがコウタロウだよ』って」
二宮さんは声を出して笑った。白い八重歯がとても愛らしく思えた。
「ナオミのやつ。これはやられたな」
僕は笑った。砂糖の欠片を運んでいく蟻を眺めながら。
僕がナオミと出会ったのは、マレーシアからタイへ向かうバスの中だった。
そういえば最後まで苗字を聞かなかった。今思えばこの「ナオミ」という女性のような名前も本当なのだろうか?とにかくよくわからない男だった。
ナオミは僕より二つ年上だったが、やつれた貧乏学生にも見えるし、四〇前くらいのやさぐれた売れない絵描きのようにも見えた。縮れた長い髪を維新志士のようにくくり、サイドを短く刈りこんだ頭にへろへろの緑色のラッパ帽。切れ上がった鷺のような目、日本人にしては高い鼻、無精髭、赤黒く焼けた艶やかな肌、どこかの民族衣装、くたびれたサンダル、かなり大きなホグロフスのバックパック。そしてなぜか五〇〇円玉をペンダントにして胸骨のあたりにブラブラさせていた。
僕がバスに乗り込むと、すでにナオミは奥の席で難しそうな顔をして寝ていた。まだ旅をはじめて二ヶ月ほどだった僕は、久しぶりに故郷の雰囲気をまとった人間に出会えて、少し懐かしさと息苦しさを感じた。
バスは混み合うターミナルから押し出されるように出発した。マレーシアの道路は思っていたよりフラットで綺麗に整理されていた。中国やインドネシアのバスでは酷い思いをしたので、僕は小気味良い揺れの中ですぐに眠り込んでいた。
「国境だよ」
何だかじゃりじゃりした夢の景色の中に、突然懐かしい母国語が硬く響いた。僕が目を覚ますと、そこにナオミがいた。
「あ、どうも。日本人・・・ですよね」
夢のまどろみから驚いて飛び出した僕は、なんとも不自然で当然の質問を口にした。
「ええ、まあそんなところです」
徐々に鮮明になっていく意識の中でも、ナオミだけがなぜだか靄のかかったように見えた。
「イミグレ着きましたよ。これまた随分待たされそうだなあ」
ナオミは窓の外を眺めて言った。運転手が「急げ!」と手を叩く。
僕たちは二人でイミグレーションへ続く列のふやけた最後尾に歩いて行った。日曜日ということもあってか、かなり混み合っていた。たくさんの人と車で埋め尽くされたイミグレーションは、うだるような暑さと人々のふつふつとした怒りで、今にもパツンと弾けてしまいそうな緊張に覆われていた。
「こりゃかなり時間かかるね。相変わらず職員はやる気ないし」
「そうだね。どれだけ並んでいようと気にもかけないし。日本じゃ考えられないよ」
イミグレーションの職員は、まるで別空間にいるかのような顔で気だるそうにパスポートを眺めていた。
「でもこれが正しいんだよ」
ナオミは意外なことを言った。
「日本が異常なんだよ。あれだけの高水準なサービスが当然のように蔓延っている日本がね」
「たしかにそれは言えるね」
「だからあの国は病人だらけなんだよ。サービスを提供する方も、そして利用する方もね」
ナオミはパスポートを団扇代わりにパタパタと振った。
「荷物を頼めばその日のうちに届くし、新聞は毎日決まった時間に新聞受けに刺さっている。どこでもキンキンに冷えたジュースが飲めて、世界の裏から送られてきた魚で新鮮な寿司が食えて、挙句の果てには電車が一分遅れただけで謝罪アナウンスが流れる。そしてこの病気の一番厄介なところは、誰もがそれを当然のことだと思い込んでるところだよ。でもその裏では互いに首を絞め合っているんだ。これでもかってくらい時間をかけて、ゆっくりね」
ナオミはまるで小さな隙間から何かが吹きこぼれないよう気にかけてでもいるように話した。
僕はナオミと出会ってからまだ数分しか経っていないにも関わらず、このナオミの独特な話し方に断片的ではあるが確信的な懐かしさを感じていた。声のトーンや時折見せる偽りのない感情、手振りや目線、相手を不安にさせる小さな沈黙。それはとても鮮明でずっと昔から知っているかのようであった。
「たしかに海外に出ると日本が異常だってわかるよ。この行列だって日本ならとっくに終わってるだろうしさ。でもその効率やら便利さを求めすぎる代わりに、平気で大事なものを捨て去っているって感じだよ。自分はこれだけしているんだから、自分はこれだけされて当然だっていう空気、あれがたまらなく嫌なんだ」
僕は一息ついてそっと付け足した。
「そう、だから僕は旅に出た」
僕は本音で喋っていた。いや、喋らされていた。ナオミはそんな自分に驚いている僕の顔を覗きこんでニヤッとした。
「どうやら気が合いそうだね。僕も君と同じだよ。日本は良い国だ。でも僕らは疲れちゃうんだよ。あの国で能動的に生きるってことは、それはそれは疲れることなんだよ。あのすべてにおいて完璧さと清潔さと暗黙の同調を求める国ではね。あそこには理想やイデオロギーは無い。あそこにあるのは妥協と言い訳と嫉妬で塗り固めて作られた安住の牢獄だよ。
そして理想がない完璧さを維持するというのはとても大変な事なんだ。日本はそれを個人の犠牲で回している。ものすごい速さで。だから今の日本は数え切れないほどの生ける屍の上で成り立っている。まあ日本では生ける屍のことを社会人って呼ぶけどね」
僕は何だかごっそりと胸に詰まっていたものが取れた気がした。共感、同情、解放、そんなものじゃない。冷たいハンマーで僕の中の何処かにつっかえていた異物をスコッと抜かれたような感覚だった。
だけど僕は「気が合いそうだね」と言われたことで何故だか無性に苦しくなり、できるだけ素っ気なくこう言った。
「でも結局僕らは脱落者な訳か・・・」
ナオミは僕の目をじっと見るとまたニヤッとした。まるでこの言葉をずっと昔から待ち望んでいたかのように。
「いや、諦めが悪い奴ってことにしておこう」
「諦め?」
「そう、恥知らずで高慢で独善的で諦めが悪くて、それでいて腐った木みたいにスカスカな現実逃避野郎だよ」
ナオミは声を出して笑った。僕も笑っていた。気づけば列の先頭の方にいた。イミグレーションの職員は、あくびをしながらスタンプをポンと押した。
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