旅の奥

ベンジャミン・カーツ

第1話 ガンジス河と聖地バラナシ


 バラナシの駅はひどい混雑だった。

 駅のホームでは床に人が寝っ転がり、犬が歩きまわる。もう随分と見慣れた情景の中を、僕は埃まみれのバックパックを背負ってとぼとぼと歩いていた。

 旅をしているとどこからともなく、それも止めどなく湧き出る不安。この不安とはだいたいが後から振り返れば大したことではないのだが、どこか宿命的であるかのように頭の片隅の方をじくじくとさせた。

 ことインドではこの頭痛がいっそう厄介になる。インドで起こるすべてのことが、不確かで怪しくて美しくて整然としていて、あまりに複雑で理解できないからだ。

 僕は不確かなチケットを握りながら、アーグラ行きの電車が来るであろうホームで立ち止まった。僕の姿を見て、早速細い腕を恭しく掲げながらこっちに向かってくる乞食の婆さんを横目で感じながら。




 母なるガンジス河のすぐそばにあるバラナシにいた。

 インドのあの摩訶不思議な宗教観、そして遙かヒマラヤから流れてきたガンジス河、底の見えない汚れた河で聖なる沐浴を厭わない人々。僕はそこにいた。

 野良牛と野犬と糞と乞食がいる聖なる町。そんな中で人々は自由だ。貧富の差も、カーストの差ももちろんある。火葬場では今にも動き出しそうな遺体が焼かれていく。詐欺師もいれば、クリケットに夢中な子供たちもいる。ここでは何もかも自由だ。外国人である僕も。

 果たして自由とは何か?ここではそんな一ルピーにもならないことなんて誰も気にはしない。存在は自分の中できちんと処理されている。その中のごちゃごちゃした問題は、インド特有の寛大さで鈍く結晶化され、砂と牛の糞の上に撒き散らされていた。だから自由だ。苦しく貧しくとも自由だ。上を見れば限りがなく下を見ても限りはない。境界は明確で絶対だが、チャイに溶けていく砂糖のように曖昧なものでもあった


 インドの人々は、神と自然が創りだしたわかりやすい囲いの中で生きる。それは生まれついた時からの覚悟を乗り越えた者にしか与えられない安住の檻。

 だからこんな平日の夕方に一人の若い日本人が、ガート沿いでぬるいチャイをそっと横においてもう何十分も座っていようが誰も気にしない。寄ってくるのは観光ボートの勧誘かいたずら好きな子供たちくらいだ。

 近くでは韓国人の学生たちが汚い身なりの子供たちを集めて遊んでいた。その周りを野犬がウロウロし、暇そうな大人たちがそれを見つめていた。

 僕はここにいて、そして存在しない。あれだけ求めていたものは、火葬された灰のように風とともに巻き上がり、もうどうしようもなく拡散した。

 これがバラナシで過ごした一六日間の中で感じた僕のインドだ。


 

 五月。この時期の日中のバラナシでは、たとえ日陰でも十分暑い。チャイを飲み干し、もっと日陰の濃い場所に座る。青年たちが興じるクリケットを眺める。ルールは分からないが何となく見ていた。後ろの階段には、いつの間にかたくさんのおじさん達が集まっていた。彼らはどこで何の仕事をしているのか?日中から日陰にたむろする壮年の男たちの一日がどのように回っているのか、僕にはさっぱりわからなかった。

 タバコを吸う。あいつにもらった中国の安タバコがまだ残っていた。苦くて後味が鬱陶しいくらい濃い。空にむかって吐き出された煙はゆらゆら揺れながら、夕闇に染まるインドの空に吸い込まれていった。

「飯でも行きますか」

 一人そんなことを言って、もったいないくらい時間をかけてと立ち上がる。こんな生活が三日も続いていた。しかしここにいたら三日という時間は僕の中のどの部分にも引っかかることはなかった。

「今日の晩飯は、カレー以外にしよう」

 バラナシで決めることといったらこれくらいだった。



 狭くて汚い路地。歩く人と自転車とバイクと牛と牛の糞を避けながら歩いて行くと、いきなり肩を叩かれた。

「やあ、まだいたの?」

 行きつけのカフェのボーイだった。インドのこういう仕事をしている子どもたちは、小煩い教師にわざわざ教えを請わなくとも何カ国語かは流れるように話せる。彼もその中の一人だ。たくさんの日本人バックパッカーと話している中で、日常会話くらいはスラスラと話せる。

「ああ、ここが好きだからね」

 僕がそういうと、彼はにっこり笑った。

「日本より?」

 僕はちょっとだけ考えて言った。

「そうだね」



 チカチカする蛍光灯、カタカタうるさい扇風機、日に焼けたシヴァ神のポスター。

窓越しで乞食の爺さんの差し出すか細い皺だらけの腕をちらっと見た後、手垢まみれのメニュー表に目線を移す。

「決まった?」

 結局、先ほどのボーイにうまく連れこまれてしまった。

「オムライスとミルクコーヒー」

 店の奥では従業員たちが、ホコリまみれのテレビでクリケットの試合を見ている。ボーイが注文が書かれたメモを渡すと、名残惜しそうににきび顔の青年がキッチンに歩いて行った。

 乞食の爺さんは僕に何か言うと、隣の白人のカップルの方に行ってまたその腕を差し出した。鼻と耳がピアスだらけの若い女は、短く刈りこんだ左の側頭部を掻きながら、小銭を爺さんに差し出した。爺さんはそれを受け取ると、すっと向かいのレストランへ歩いて行った。

「ハシシ、チョコレート、オンナオンナ」

 息つく暇もなく、またお客さんだ。

「ノーセンキュー」

 窓から身を乗り出して話しかけてくるおっさん。もうかなり見慣れた顔だ。こいつはやたらしつこい。

「グッドテイスト!グッドテイスト!」

「ノーセンキュー」

 おっさんは「何故だい?俺には理解できないよ」というジェスチャーをして、ふらふらとどこかに歩いて行った。その仕草がどことなく「あいつ」に似ていたので、僕は少しだけ歯を見せて笑った。


 この町で落ち着いた空間を求めるのならば、ギラギラした星がたくさん付いている高級ホテルに泊まるか、バラナシのくすんだ色に自ら染まるしかない。

 インドは町によって全く雰囲気が違って見える。インドはどこもかしこも汚くて貧しくて生気にあふれており、そしてあらゆるものが混沌としていて不明瞭だ。だが町の色のようなものは、唯一はっきりとしている。だから気に入った町には飽きるまで長くいれば良いし、気に入らなければさっさと見切りをつけて列車のチケットを買ってしまえば良い。

 こういった遊牧民的な暮らしはなかなか慣れない。だが慣れたら慣れたで今度は農耕民的な暮らしの息の詰まる感じを想像するだけでチアノーゼが出てしまいそうだった。近代になって遊牧民的な生活は死に絶え、滑稽にも金持ちの道楽か社会に順応できない落第者の寄り合い所になってしまった。羊飼いの生活に憧れるのはいつの時代も一定の支持者がいたが、今は少し意味合いが変わってしまったようだ。


 甘ったるいケチャップの味しかしないオムライスをちびちび食べながら、テーブルの上を飛び回る蝿を眺める。牛の糞や酸っぱい臭いのする生ごみが隅っこにうず高く積もっている路地沿いの、窓も扉も開けっ放しのレストランのテーブルの上を歩くまるまる太った蝿を。蝿は時たま僕を覗きこむように首を傾げる。口の中では固めの米がケチャップと唾液で混ざり合ってくちゃくちゃと音を立てている。僕は長めのため息をついた。


「ここ、だいぶマシだよ」

 そう言いながら、二人組みの日本人が入ってきた。日本人はすぐにそれと分かる。あるフランス人に「中国人と日本人の違いはすぐわかるんだけど、韓国人と日本人の違いがさっぱりわからない」と言われたことをふと思い出した。

「ここは一応水とか気をつけてるっぽいからさ。ガイドブックにも載ってるし。外人向けだよ」

 背の高い痩せたドレッドヘアーの男が言った。彼の後ろには水の入った桶でも抱えているように前屈みで歩いている青い顔をした男がいる。どうやら相方は腹をやっているようだ。

「食欲ないんですけど」

「いや、とにかく食っとけって。そう言って何も食わなかったせいで病院担ぎ込まれたやつ知ってっからさ」

 青い顔をした小太りの男は、椅子に腰掛けるなりテーブルに突っ伏した。

「だからケチって変なところで飯なんか食うからだって」

 ドレッドヘアーの男がちらちらとこちらを気にしながら言った。

 僕はテーブルにある砂糖の入った銀色の缶の蓋を開けた。中には固まって黄色くなった砂糖と蟻が二匹いた。スプーンで崩れかけたセメントのような砂糖をこそぎ落としてコーヒーに入れた。砂糖はすぐにコップの底まで落ちていった。

「あの日本人ですよね?」

 ドレッドヘアーの男が身を乗り出して話しかけてきた。

「ええ、そうですよ」

 僕は随分と丁寧な標準語でそう言った。

「薬局って近くにあります?いや、一昨日着いたばっかりで。前にも来たことあるんですけど、なんかちょっと町の中変わっちゃってて」

 ドレッドヘアーの男は頭を掻きながらそう言った。腕にはミサンガのようなものがたくさん巻き付いている。

「薬局はわからないですね」

「そうっすか。さすがインドの下痢で、日本の薬全く効か無いんで困ってるみたいなんですよ。彼」

 小太りの男は、少しだけ口角を上げて会釈した。

 僕は「あいつ」が別れ際にくれた薬のことを思い出して、カバンのポケットの中を探ってみた。メモ帳の横で薬の入った白い紙の袋がくしゃくしゃになっていた。

「この薬あげましょうか?貰い物なんで効くかわからないけど」

 薬を貰うとドレッドヘアーの男はカバンからミネラルウォーターを出して、彼に渡した。彼は無言で紙袋から薬を取り出し、少し角度を変えて眺めた後、大事そうにゆっくりと飲み込んだ。そして少しむせた後、「ありがとうございます」と丁寧に言った。


「世界一周ですか?」

 ドレッドヘアーの男が僕の顔をまじまじと見ながら聞いてきた。これはバックパッカー同士の最初のあいさつみたいなもんだ。

「いえ。今はこの辺をプラプラと。特に予定は決めてないんで」

「そうですか。俺は世界一周というか二周中で、彼は一ヶ月みっちりインド旅行」

「まだ四日目なんですけど、もうかなりやられてます」

ドレッドヘアーの男は田辺といって神奈川生まれの二六歳。小太りの男は川島といって関西の大学に通っている学生だった。

「二周目なんてすごいですね」

 僕は何と返そうかいろいろ考えたが、やはり始めから用意していたお決まりの返答をした。

「いや、大学出て働いたんですけど、性に合わなくて上司ぶん殴ってすぐ辞めて、そんでバイトして金貯めてまず普通に一周したんですよ。アメリカとヨーロッパとアジア。でもまだ行きたいところがあったんで、オーストラリアでワーホリして金貯めて、今からアフリカ行くんすよ」

 アフリカか。そういえば「あいつ」が行きたいと言っていたな。

「お兄さんはどういったプランで?」

「僕は仕事辞めてすぐ中国に行って、それからはもう気分次第というか、ノープランで・・・」

「おーい!」

 いきなりドレッドヘアーの田辺くんが手を上げて誰かを呼んだ。

「すいません。あれ同じ宿の子で。めっちゃかわいいでしょ」

 混み合う路地の中に、長く美しい黒髪の女性がいた。彼女はどこかの民族衣装を着ていた。薄いオレンジ色をした刺繍入りのスカーフが、向かいの土産物屋の青い蛍光灯に照らされて、空中に止まっているように見えた。

「こんばんわ」

 彼女は僕を見ると一瞬大きく瞬きをした。彼女は軽く会釈をして、チャイを頼んで座った。

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