ハテ
押しつけられる体温、吸いつく肌の感触。
これ、晴。
なにをしておるのか。
そう思って軍司がぼんやりと薄目をあけると、視界に白い裸体が入ってきた。
んふ、と、その裸体が鼻息を漏らす。
晴ではない?
軍司は一瞬、なにがなんだかわからなくなる。
実際には、晴以外に、軍司がこうして臥所をともにした女性はいないというのに。
特に若い頃など、同僚などから悪所へと誘われることも多かったが、寡黙で人づきあいにあまり長けていない軍司はその誘いをことごとく断っていた。
いや、それ以前に、気軽に女を買えるような収入でもなかった。
最初の何回かきっぱりと断りをいれると、当時の同僚たちも軍司のことをそういうやつだと見なすようになり、ありがたいことにそれ以降、まったく誘われなくなったわけだが。
だから、軍司は女性は晴一人しか知らない。
しかしこうして、目が痛くなるほどの白い肌を持った女は肉づきのよい体を軍司に密着させて、
「早川さぁん」
と、鼻にかかった声で名を呼ぶ。
なんじゃ、はやり夢か。
その声を聞いた途端に、軍司は悟った。
痩せて肉が薄かった晴とは対象的な、肉感的な体つき。
それにこの声。
間違いようもない。
今軍司に絡みついている女体は、鵜飼瑠美のものだった。
そしてその鵜飼瑠美とは、例の〈泥沼階層〉のときのみのつき合いであり、あのときの被害者の葬儀で会ったのを最後に、もう一年半以上も音信不通になっている。
鵜飼瑠美が不義理とか不人情とかいうものではなく、用がなければ他の探索者とも連絡を取らない、という態度は、ナガレの探索者としては普通のことなのだろうと、軍司はそう判断していた。
このような欲など、とうに枯れておると思ったのだがの。
軍司は心中でひとり、照れ臭いような、バツが悪い気持ちを抱えていた。
年甲斐もなくこうした夢をみるということは、つまりは軍司の中にもそうした欲望が残っていたと、そういうことなのだろう。
晴をなくした時点でさえ、年齢的にそうした色事からはめっきり遠ざかっていたというのに、まさかこの年になって色狂いとは。
いつだったかに見た、若い頃の軍司が晴とともに迷宮にはいる夢、あのときの晴も晴本人ではなく、本来の晴と鵜飼瑠美の性格が奇妙な具合にないまぜになっていたのかも知れぬの、と、軍司は思い当たる。
そんな含羞を感じつつ、軍司は、
「このような淫夢からは、はよう醒めたいもんじゃ」
と心の底からそう思い、ようやく目を醒ました。
「ジ様!」
目を開くと、制服姿の静乃が軍司の上に覆いかぶさるようにして、顔を覗き込んでいる。
「ようやく目を醒ました!」
看護師だの医者だのがどこからか大勢やって来て、寝そべっている軍司を取り囲む。
なんで、こげな大事になっておるんじゃ。
軍司は他人事のように、そう思った。
「早川さん」
白衣を着た男が、おそらくは医者なのだろうが、軍司に訊ねた。
「自分の名前がわかりますか?」
わかるわい、そんなもん。
そういおうとして口を開くのだが、喉から漏れるのは嗄れた、
「あ。あ」
という呻き声のみ。
つまり、軍司の思う通りに声を出すことさえできていないわけで、ここに至って軍司は、はじめて自分の状況に対して不安を抱く。
いったい、なにがどうなっておるのか。
軍司は心の中を数々の疑問で埋め尽くしつつ、続けて呻き声をあげる。
「あ。あ。あ。あ」
「早川さん、落ち着いてください」
医師らしい男がいった。
「いいですか。
体に麻痺が残っている可能性があります。
声を出すのが無理そうならば、まばたきをしてください。
はいが一回、いいえが二回です。
静かに落ち着いて、まずはわたしがいうことに答えてください。
早川さん。
お風呂からあがった直後に、自分が倒れたことはおぼえていますか?」
その後に煩雑なやり取りがあって、軍司はようやく現在、自分がどのような境遇にあるのかを理解することができた。
医師の専門用語にまみれた、回りくどい説明を軍司なりに理解をしたところによると、どうも軍司は、いわゆる脳卒中を起こしたらしかった。
血栓がどうとかいっておったが、ようは脳みそのどこぞの血管が破れ、そこから溢れた血液が脳だか神経だかを圧迫して、結果、軍司は運動機能をかなり損なってしまったらしい。
医師は、
「リハビリをすれば、また元のように動けるようになりますよ」
などと他人事のような口調で説明していたのだが、実際にはどんなものか。
もう、年齢が年齢だしの。
軍司は諦観混じりにそう考える。
これまで、同じように脳味噌の血管が破れた知人を軍司は何名か知っていたが、その誰もが血管がぷっつんとして以降は半身不随も同然の、要介護生活を送っている。
確かにリハビリとやらである程度は回復できるのであろうが、おそらくはそれにも限度があるのじゃろうな。
と、軍司は冷静に思った。
医師の説明によると、救急車で病院に運ばれてきた軍司はその場でMRIとかいうものにかけられて出血した部位を特定され、即座に外科手術を受けて脳内を圧迫していた血液を外部に出されている、という。
つまり、対症療法はすでに済んでいるわけだが、それで今以上に悪化することは防げても、すでに破損した神経系を回復することはできない、らしい。
地道にリハビリを続けて、一度は途絶した神経系をうまく繋ぎ直すしか、回復の方法はないらしかった。
えらくまた、難儀なことよのう。
と、軍司は他人事のように思う。
いつかこうなることををまるで想定していなかったわけではなく、むしろあり得るべき事態としていくつか想定をしていた未来図のうちのひとつに該当する。
軍司の年齢を考えればいつこのようなことになろうとも不思議ではなく、そのために軍司も少し前から相応の準備をおこなっていた。
そのため、軍司の中には焦燥などはなく、ただ思うように自分の体が動かない不自由さには心底うんざりさせられた。
学校の帰りに寄った静乃はすぐに帰り、そのあとに医師から改めて診察を受ける。
いくつかの問診を含めたその診察の結果、軍司の今の状態は典型的な半身不随状態であるということだった。
体の右半分が、自分の意思で制御ができない状態になっており、うまくしゃべれないのもそれが原因だという。
例の脳溢血の影響で神経がどうにかなってしまったのが原因であるらしい。
このままでしゃべることすらできないのは、ちと不自由すぎるの。
と、軍司は思う。
せめて静乃か誰かに自分のスマホを持ってこさせることができれば、こうした際にどう処理をすべきか事前に相談をしていた弁護士に連絡がつけられるのだが。
自損事故を起こしたあと、軍司はこうした有事の際に自分をどうするべきか、何パターンかの未来図を想定し、弁護士などと相談の上、簡単なマニュアルのようなものを用意していた。
お定まりの、没後の相続問題に加えてこうして軍司の体の自由が効かなくなった場合に軍司を収容してくれそうな介護つきの施設もいくつかピックアップしている。
そうした施設はだいたい有償で、それも一般的な価値基準からするとかなりの高額な滞在料金を要求されるのであるが、幸いなことに軍司の場合は迷宮のおかげで小金持ちくらいにはなっていたので、その費用について心配をする必要はない。
しかしそれもこれも、相談した弁護士に連絡をして現在の軍司の状況を伝えなければどうにも動きようがないわけである。
まずはどうにかして、誰かに自分の意思を伝える方法を考えんといかんのか。
軍司は暗澹たる気分でそう考える。
これだけ不自由な体の持つということは、つまりは自分の体という牢獄に閉じ込められているようなもんじゃな。
軍司の心配をよそに、翌日から病院側が用意したリハビリがはじまった。
病院の者たちにしてみれば、軍司のような状態の患者を扱うことは決して珍しいものではなく、従ってそうしたリハビリ用のプログラムは事務的に、淡々と進められる。
半身が制御できない軍司は口からだれしなくよだれを垂らしながらおこなっているはずで、そうした様子を客観的に想像してみるとあまりに無様さに消え入りたいような気持ちにもなったが、今の軍司には「自分の意思を伝えられる程度にまで回復する」という明確な目的があった。
そのため、必死になって努力をする。
逝去する直前、軍司たちは嫌がるシロを無理に散歩に連れ出そうとしていたわけだが、軍司は今になってそのときの様子を思い出す。
あのときのシロも、こんな気分だったんかいの。
などと、思ってしまうのだった。
以前通りの明瞭な発音をしようと拘りさえしなければ、自分の意思を外部に伝えるのは比較的簡単だった。
ただし、聞く側に、軍司の不明瞭な発音を聞き取るための訓練が必要であったが。
どうにか看護師の一人が軍司の不明瞭な言葉を聞き取れるようになると、軍司は早速、
「わしの、スマホ。
持ってきて」
と、どうにか伝えることに成功をする。
その言葉はすぐに軍司の親族に伝えられ、やはり静乃学校帰りに病院に寄って、ようやく軍司は自分のスマホを手にすることに成功した。
病院内で軍司が意識を取り戻してからここまで来るのに、数日が経過している。
軍司はどうにか静乃に、
「スマホを顔の前で持っていてくれ」
と伝え、自由になる左手で苦労をして弁護士宛にメールを書いて送信する。
文面は、
「順也に、連絡を取れ」
の一行のみであった。
軍司が相談した弁護士が順也と連絡を取り、現在の軍司の状況を把握しさえすれば、あとは取り決めをした通りに事態が進行するはずである。
あだそれだけの作業をしただけで、軍司はぐったりと疲れ果てる。
こんなことなら、生前贈与だなんだと口実を作って、弁護士と順也をもっと早くに引き合わせておけばよかったの。
心底、そう思った。
そうしなかったのは、
「いずれそうなる」
とは思っていても、これほどすぐに自分がこういう状態になるとは考えていなかった、いわゆる軍司の油断が原因となっている。
つまりは、詰めが甘かったわけで、完全に軍司の自業自得でもあった。
「親父とおふくろはあとから来るって」
始が軍司と静乃にいう。
「おれたちだけで先にいこう」
始は自分の車の鍵を手にしており、当然のように自分で運転をするつもりのようだった。
「兄さの運転、乱暴だからな」
静乃が芝居がかった口調で文句を口にする。
「わたし、ジ様の運転のがええ」
「おれがいるのに、なんでジ様に運転さして貰うだ」
始は真顔でそういった。
「ジ様には、休んで貰わねばならん」
「ま、ええでねえか」
軍司が些細な諍いに割って入った。
「始さ、運転したがっとる。
だったら、始さにやらしておけばええ」
始は軍司の言葉に頷いてからガレージにむかい、車を家の前に出す。
軍司が後部座席に、静乃が助手席に座った。
「山路だし、スピードさし過ぎないでよ」
シートベルトを締めながら、静乃が始にそう念を押していた。
軍司が山ひとつ超えた場所に新たな迷宮を発見してからそろそろ四十年近く経過しようとしている。
三十四番目の、そして東京からかなり離れた場所に発見された迷宮は日本はおろか世界的なニュース種となり、一時期はこの近辺でもあちこちからやって来た報道関係者で賑わったものだた。
当然のように不可知領域管理公社の、つまりは日本政府の肝入りでその迷宮を取り囲むような形で多目的ビルが建設され、新迷宮発見から二年も経たずに一般にも公開された。
公開された、といっても、具体的にいえば公社の監視下の元、他の迷宮と同じ条件で探索者が迷宮に出入りを出来るようになった、ということだが。
それと並行して、迷宮から出てきた各種の産物を搬出するために山を削って道路なども整備され、また、そうした各種のドロップ・アイテム類を研究する施設や迷宮を訪れる探索者むけの商業施設なども次第に増えていき、現在に至っている。
新迷宮の発見時に軍司が予見した通りに、新迷宮の存在そのものがこの地域の経済を大きく活性化させたわけだった。
地域経済だけでに留まらず、新迷宮の存在は早川家の経済事情まで大きく改善した。
この地方の農家ではありがちなことに、以前の早川家も食べるものには事欠かないものの、現金収入そのものは決して多くはない家庭だった。
しかし、軍司や晴が、のちには順一や順也、さらには始や静乃までが探索者として余暇に迷宮に出入りをするようになり、本業を圧迫しないままでまとまった現金収入を得ることができるようになったのである。
新迷宮が公開された当初から迷宮に出入りをし、近辺ではいち早く探索者として稼ぎ出した早川家は、その頃からかなり裕福になった。
かといって軍司は祖先から受け継いだ田畑や猟師としての仕事も決しておろそかにはせず、探索者としての稼業はあくまでそうした本業の合間におこなうだけにとどめていたのだが。
いずれにせよ、その探索者稼業のおかげで金回りがよくなり、順一や順也にも都会のいい学校に進学をさせることができたのは僥倖であった。
東日本大震災のときも、十年前に新築した耐震構造の家のおかげでたいした被害にも合わず、田畑は壊滅的な状態になっったが、すぐに土木業者を呼んで綺麗に整地をして貰った。
その分金はかかかったわけだが、畑仕事をすぐにでも再開できる状態にまで持ち直している。
地震によって派手にほじくり返されたので土作りの段階からやり直すような形にはなるのだが、それでも軍司としてはまたすぐに畑仕事を再開できるのが嬉しかった。
早川家から新迷宮の駐車場まで、車でならばいくらもしないで到着をする。
山路だからかえって遠回りをするような形にはなるのだが、直線距離でいえば二十キロにも満たない近場なのだ。
軍司たち三人は車を出て新迷宮のロビーへとむかう。
そこで順一夫婦らと待ち合わせをする予定であった。
「父さんたち、どれくらいで来るって?」
「ちょっと寄り道をして来るだけだっていってたから、そんなにかからんはずじゃが」
「寄り道かあ。
買い物だとかだったら結構待たされるんじゃない?」
自販機でペットボトルの飲料などを買いながら、静乃と始がそんな会話をしている。
「メールで問い合わせてみっか」
「あ。
着いたって」
静乃が自分のスマホを覗き込んで、そんなことをいう。
「今駐車場にいるから、もうすぐここまで来るんじゃない」
「とかいっている間に、見えた」
遠くの方を見ながら、始がいった。
「あ、本当。
三人ともいるねえ」
そちらの方を見ながら、静乃がいう。
三人?
疑問に思いつつ、軍司もそちらの方に振り返る。
遠くから、順一夫妻と、それに晴が揃ってこちらにむかって歩いてくる。
ああ。
と軍司は、腑に落ちた。
こいつは、夢じゃ。
目が醒めてからもしばらく、軍司は妙な居心地の悪さを感じている。
そもそも。
と、軍司は思う。
順一夫妻やら始やらが生きて動いているだけでも、それは軍司の知る現実ではあり得ないのだ。
どんなに甘美な幻想であろうとも、軍司が順一夫妻と始、それに晴と一家揃って迷宮に入ることなどは、ない。
現実の軍司は、自分の体さえ満足に動かすことさえできず、こうしてベッドに縛りつけられた状態で生活し、糞尿の始末さえ他人に任せている状態である。
弁護士に連絡をが取れたあとの動きは迅速であった。
事前にピックアップをしていた施設の中からすぐに入れそうなものを選んで軍司の体をそこに搬送し、軍司はそこの住人となる。
書類上の手続きなどは、すべて弁護士と順一に任せた。
弁護士には軍司の意思も伝え、委任状も渡してあるのでそれで問題はないはずだった。
軍司が運び込まれた施設は、一応まだ県内ではあったが、習志野からでも二時間くらいはかかる辺鄙な場所にある。
そこで軍司は、一日に何度かリハビリと称した奇妙な体操をベッドの上でやらされる以外、食べて出すだけの存在となった。
虐待などはされていないものの、どちらかというと放置気味である。
しかしここの職員たちに害意があるわけでもなく、やつらはただ、単に多忙であり、入居者一人一人にあまり多くの時間を割けないだけなのだ。
入居者の人数に対して、その世話をする職員の数があまりにもすくな過ぎる。
そうした事情は、ここに来てから数日で容易に察することができた。
なにしろ、体こそ満足に動かせないものの、軍司の意識は明晰なままである。
当然、時間を持て余しているわけだが、周囲を観察する以外にやれることがない。
もっときちんとしたリハビリさやれば、元どおりに体が効くようになるかも知れんのだがのう。
と、軍司は思う。
こんな状態では、それもかなり難しいだろう。
この施設でリハビリと称しているものは、入居者の手足をベッドの上でバタバタと動かすだけの代物であった。
ある程度血行をよくし、床ずれくらいは防止できるのかも知れんが、それ以上のものではない。
これまでの生涯でずっと体を動かし続けることが当たり前であった軍司にしてみれば、こんな運動は運動のうちにも入らない、児戯に等しいものでしかなかった。
もっとも、それで未練や不満がある、というわけでもないのだが。
この時点で軍司は、
「自分は、やるべきことをやり遂げた」
という自負を持っている。
いくらかの不幸な経緯はあったものの、二人の息子を一人前になるまで育てあげ、最後の数年には二人の孫に囲まれて過ごした期間さえ持てたのだ。
これ以上を望むのは、欲が深すぎるというものだろう。
あとは、ここで朽ちるのを待つだけさな。
軍司は静かな諦観とともにそう思う。
晴や、シロや。
わしももうすぐ、そっちさいくからな。
十月下旬、軍司が危篤状態にはいったという報告が早川家に届いた。
軍司がその高齢者向け介護施設に移送をされてから、まだ十日も経っていない。
その手の施設に入った途端に気落ちして、急速に元気がなくなっていく人は相応に存在する、とは、その連絡が来た際に施設の人から説明をされた。
とにかく、静乃を加えた順一一家は、順一が運転をする車に乗ってその施設へと急行する。
二時間弱をかけてその施設に到着し、慌てて受付に来意を告げると、軍司はまだ息があるという。
「しかし、かなりバイタルが弱くなっています」
職員は、そういった。
「なんでいきなり?」
感情を持てあましながら、順一が叫ぶようにいった。
「こっちに来る直前まで、あんなに元気だったのに!」
「早川さん、ここ数日はめっきりと食が細くなっていましたので」
目を伏せて、職員はそんなことをいった。
「こちらへどうぞ。
ご案内します」
軍司は、白白とした迷宮の中を歩いていく。
遠目に見える、シロの小さな背中を追って。
いろいろなことがあったが。
「やっとさ、ここまで来たな」
「んだなっす」
軍司の独白に、傍にいた晴が答えた。
「孫たちは、元気だぞ。
みな、すこやかに、息災にやっておる」
「んだなっす」
静乃の目には、軍司の体が一回り小さくなっているように見えた。
なんで。
と、静乃は思う。
最後に見たのは、ついこの間なのに。
こんな短い間で、どうして。
「ジ様!」
気づくと、静乃はベッドの脇に立って小さく叫んでいた。
横たわっていた軍司が小さく身震いをすると、唐突に目を見開き、静乃の方を睨んでから、
「晴か」
と呟いた。
「こいで、ええ」
いい終えた軍司はそのまま目を閉じる。
そして再び、その目を開けることはなかった。
軍司の葬儀は思いのほか、盛大なものになった。
親族の予想をはるかに越えて弔問客が途絶えず、喪主である順也は香典返しの品を何度か発注し直さなければならなかった。
軍司と静乃が東北からこの習志野に移ってきてからまる二年と少ししか経っていない。
こちらの地で軍司の知り合いはさほど多くはない、はずであった。
弔問客が予想外に多くなった理由は、おおむね、その二年と少しの間に軍司が〈印旛沼迷宮〉において活動していたことに起因する。
軍司が逝去したという事実は〈印旛沼迷宮〉周辺の探索者たちの間にあっという間に広まり、結果、六百名を超えるほどの探索者たちが前後して告別式を訪れることになった。
静乃を含む遺族、早川家の人々は予測を遥かに超えるその人数に圧倒された。
「ジ様、ここまで大勢の者に慕われておったのだのう」
喪主である順也は、しみじみとした口調でそう語る。
「平日は、あちこちのパーティに呼ばれていたみたいだから」
制服姿の静乃が、そう応じた。
漠然と知ってはいたが、ここまで顔が広いとは静乃自身も予想をしていなかった。
そもそも普段から口が重い軍司は、普段、どう過ごしているのかといった細かい事柄をいちいち静乃などに教えたりしない。
せいぜい、
「たまに、よそのパーティに世話になってる」
程度のことを、なにかのおりにぼつりと教えてくれるだけだった。
そういえば静乃は、自分の祖父にあたる軍司がどのような人生を歩んできたのか、その詳しいことを知らない。
「晴、って、おばあさんの名前だよね?」
静乃が順也に訊ねた。
「そうなだ」
「わたし、おばあさんに似ていた?」
静乃は、祖母である晴のことを遺影でしか知らない。
「あまり、似ておらんなあ」
順也はいった。
「姿も、雰囲気も。
婆様は、あれだ。
よくいる、田舎の婆様といった感じの人だった」
そういう順也自身、あと何年がすればその晴の享年に追いつき、追い越してしまう。
気づけば、そんな年齢になっていた。
ただ、昔の人は、苦労してきたせいか、老けるのも早かったからな。
と、順也は思う。
「弔問客が多いから、っていうわけではないが」
順也がいった。
「ジ様は、立派な人だったよ」
しかし、その言葉を軍司が聞いたとして、果たして同意をしてくれたかどうか。
太平洋戦争の末期に東北地方の片隅に産まれた軍司は、戦後の日本を二十一世紀の初頭まで生き、東日本大震災に被災して生まれ育った土地を離れ、七十余年の人生に幕を降ろした。
節目節目で相応に大変な思いをすることもあったが、その程度の苦労は程度の差こそあれ、同年代に生きた人々がみな体験していることだ、と、軍司ならばそう思ったことであろう。
わしは別に、特別な人間なんぞでは、なか。
と。
さらにいえば、軍司が探索者として活動していたのは、その長い生涯のうち、末期のわずか二年少々という、ごく限られた短い期間でしかない。
その二年と少しのわずかな期間で、当時〈印旛沼迷宮〉で活動をしていた大勢の探索者に、鮮烈な印象を残した。
静乃をはじめとする遺族は、軍司が他の探索者たちと行動にともにするときは〈印旛沼迷宮〉にはいなかったわけで、そのためこれまで知る機会がなかったのわけだが。
軍司によって窮地を逃れることができた、あるいは、命を救われたという主張する探索者は多く、告別式の最中に、そうした思い出ばなしが途切れることはなかった。
軍司の〈狙撃〉により、あるいは〈魔弾〉によって救われた探索者は、静乃たちの想像を遥かに超えて多かったわけである。
「滅多なことでは、使うな」
静乃は呟く。
「しかし、必要なときに出し惜しみはするな、か」
それは以前、静乃が〈魔弾〉というスキルについて、軍司から教えてもらったときに諭された内容になる。
〈魔弾〉という特殊なスキルについての、使用上の注意といったところだろうか。
軍司自身も、普段は乱用せず、しかしここぞというときには出し惜しみをせず、自分がいった通りに使っていたらしかった。
そしてそのことを、静乃ら家族にはまるで知らせていなかった。
ジ様らしいな。
と、静乃は思う。
ぶっきらぼうで寡黙で、余分なことはなにも口にしない代わりに、家族のことは人一倍思いやって。
静乃が知る軍司は、そういう老人だった。
たとえば軍司は、例の〈泥沼階層〉攻略の、その最終局面での過酷さについて、静乃たち親族にほとんどなにも説明していなかった。
葬儀に駆けつけた、当時軍司と同じパーティを組んで〈泥沼階層〉を攻略した人々が語ることを聞いて、静乃たちははじめて、その攻略事業がそこまで大変な内容であったことを知ったわけである。
思い返してみればあの直後に、軍司は何回か喪服を着用して外出しているのだが、誰の葬儀に参加するのか、軍司は静乃たちに対して特に説明などしていなかった。
仮に訊ねてたとしても、
「知り合いで不幸があってな」
とか、そんな曖昧なことしか教えて貰えなかったような気がする。
軍司には、自分のことについては極端に口が重くなる、そんな傾向があった。
軍司のそんな性質が十全に発揮されたのが、軍司の遺産分配についてであった。
軍司は、静乃や順也の知らないところで弁護士には相談をして、遺書なども残していた。
遺産の分配は法定通り分配をすること。
静乃の分は、静乃が成人するまでの間、弁護士に管理をして貰い、生活費や学費などを必要とする場合は、その都度その財産管理人に相談した上で一時払いをして貰うこと。
などといった内容が細々と決められていた。
まずは順当な内容であったし、それに不服があるというわけではないのだが、静乃ら遺族が困惑したのは、その金額であった。
具体的には、軍司の息子である順也と静乃とで折半した上で、弁護士への手数料と相続税などが差し引かれるわけだが、それでも静乃の取り分は軽く億円単位になる。
しかも軍司は、静乃も知らない間に静乃名義の口座を開設しており、そこに数千万円単位の現金を預けていた。
その静乃名義の口座分は、前述の配分される遺産には含まれていないという。
〈泥沼階層〉での報酬が一番大きかったが、それ以外にもこつこつと迷宮に日参していた軍司は、静乃らが知らないうちにとんでもない金額を稼ぎ出していたらしい。
その明細を弁護士から聞かされたとき、静乃はその金額の大きさに、頭がクラクラした。
ちなみに、静乃自身も探索者として相応に稼いでおり、しかもその報酬を使う機会もほとんどなかったので、静乃はこの年頃の女子校生としてはかなりの個人資産を持っている。
生活費と学費を合わせても、成人するまではおろか大学を卒業するまでは余裕で賄えるほどの金額になっていた。
静乃が軍司の残した遺産を貰い受けるまで、自分からなにがしかの請求をおこなうことはないだろう。
つつがなく軍司を送り出し、暦は十一月になった。
そろそろ、迷宮に入るのも止めなければな。
と、総北線に乗りながら、静乃は思う。
また、受験に備えて勉強に専念する時期が近づいてきているのだった。
静乃と、それに颯はといえば、学校が休みになるたびにこうして〈印旛沼迷宮〉を訪れていた。
静乃たちのような十八才未満の探索者は、十八才以上の探索者が同行していないと迷宮に入れない規則になっているのだが、迷宮にいきさすれば、誰かが声をかけてパーティに入れて貰えるのだった。
「〈魔弾〉の射手のお孫さんじゃないか。
今日はおれたちに着いてきなよ」
といった具合に。
「なー、ねーちゃん」
となりの颯が、もう何度目かになるやり取りをまたはじめた。
「いー加減、〈魔弾〉のやり方、教えてくれよ」
「駄目」
静乃は短く答えた。
「颯には無理だよ、おそらく。
っていうか、しつこい」
軍司が亡くなったことで、〈魔弾〉というスキルの使い手は静乃一人になった。
他にこんなスキルの使い手がいるという噂もないので、おそらく静乃だけの、ユニーク・スキルということになるのだろう。
これから静乃になにか、まさかのことがあれば、この世に〈魔弾〉のスキルを使える者は絶滅してしまうことになる。
それならそれで、いいのではないのか。
と、静乃としては思ってしまうのであった。
こんなスキル、颯のように使えないのならば、その方が幸せなくらいだし。
それに。
それにこのスキルは、扱いが難しい。
あまり安直に習得の仕方を広めるのも、かえって被害が大きくなる恐れがあるのではないか。
この〈魔弾〉を乱用した際、どのような副作用があるものか、実のところ軍司も静乃もよく知りはしないのだ。
自分自身を実験台にして、確かめる気にもならないし。
静乃としては、そう思ってしまう。
このまま、静乃だけのスキルにして、そのまま埋れさせておく方が無難なのかな、と。
軍司亡きあと、世界で唯一の〈魔弾〉の射手となった静乃は、この時点ではそう考えていた。
「2013年、アキ」了
「〈魔弾〉の射手 東京迷宮_2011~2013」完結
〈魔弾〉の射手 東京迷宮_2011〜2013 肉球工房(=`ω´=) @noraneko
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