メイキュウ

「ほい」

 晴が俊敏な動作で槍をふるって周囲を飛んでいたコウモリ型の敵性擬似生命体を次々と叩き落とす。

 羽などを破損して動けなくなっている、地面に落ちた敵性擬似生命体を殺すのは、軍司の役割であった。

 晴が手にしているのと同じく、箒かなにかに使われていた竹の柄に、安物の包丁を針金で括りつけたような手製の槍で、軍司は傷ついて地面に落ちたコウモリたちを完全に殺していく。

 別にそのまま放置しておいてもどこからか湧いて来る粘菌のような敵性生命体がきれいに片づけてくれるのだが、自分たちの手で殺さなければなんの糧にもならないのだ。

 特に軍司は晴とは違い、迷宮に入るのはこれがはじめてであった。

 だから、早いとこ累積効果とやらの恩恵を受けることができるように、少しでも多くの敵性生命体を始末する必要がある。


「経験があるっていっても、その頃はまだ五歳にもならなかったはずなんだけどね」

 晴はそういって笑い声をあげた。


 違う。

 軍司の深い部分、どこか冷静な部分が悲鳴のように違和感を現す。

 晴さ、こげな笑い方をする女はでなか。

 もっとひっそりとした控えめな、静かすぎるくらいの女だ。


 晴が以前に迷宮に入ったのは戦後の混乱期で公社もまだできていない頃、つまりは迷宮が誰の管理も受けてなくて、誰もが自由に出入りをできた時期だという。

 晴と同じような戦災孤児たちが、他にいくあてもなくて、あるいは夜露をしのぐために仕方がなく、迷宮に出入りをするようになった。

 その当時、東京のそこここに出現をした迷宮は、人間を見かけるや襲いかかってくる獣ばかりが出る一種の人外境として認識されており、そうした戦災孤児たちのようになんらかの理由を持つものしか出入りをすることがなかったという。

 そうした戦災孤児たちは、最初は逃げ場というか仮の住居として迷宮内に出入りをしはじめたのだが、次第に工夫を凝らして敵性擬似生命体を倒す方法を確立し、その肉を自分たちで食べたり外に売り出してして、なんらかの糧にしはじめた。

 食糧難で、肉でありさえすれば多少得体の知れない代物でも飛ぶように売れていく時代でもあった。

 もちろん、年端もいかない未成年のみで構成されたそんな集団がいつまでも大人たちに見逃されるはずもなく、いくらもしないうちに全員が保護をされてしかるべき施設へと収納されたそうだが。

 この晴は、その迷宮少年団の最年少者として、三才から五才くらいまでの期間、迷宮内で生活していたのだという。

 年齢が年齢だから、晴は当時、直接敵性擬似生命体と戦ったような経験はなかったのだが、年長者たちのあとをついていったことも多かった。

 そのため、累積効果の恩恵は、ちゃっかりと受けることができたのだという。

 事実、晴の動きは軍司のものよりもずっと力強く俊敏だった。


「それだって、もう二十年も前のことになるのに」

 晴自身も、半ば呆れている。

「本当に迷宮ってところは、わけがわかんないねえ。

 でも、そのおかげで……」

 晴は自分の下腹部を撫でながら、そういった。

「なんとか、食べていけそう」


 軍司たち夫婦がなぜ迷宮などという剣呑な場所に入るようになったかといえば、軍司が務めていたオモチャ工場が唐突に潰れてしまったからだった。

 仕事が途切れず、つまりは景気もそう悪いようには見えなかったのだが、その裏で密かに資金繰りを誤っていたらしい。

 社長は夜逃げをして、工場には債権者の群れが集まってあっとういう間に工作機械や備品などを債権のカタとして差し押さえられてしまった。

 軍司たち夫婦が住んでいたアパートも会社が借り受けて使わせてもらっていた社宅だったので、早々に追い出される。

 軍司たちは急いで別の住居を探し、なけなしの蓄えをはたいて借りなければならなかった。

 どうにか転移先をみつけて引越しが終わると、軍司たちの乏しい蓄えはすっからかんになり、今度は将来に対する不安が襲って来る。

 軍司は無職であり、妻の晴は近くの歯医者で受付や事務仕事をしていたのだが、おりが悪いことに最近妊娠が発覚していた。

 つまり、晴も、そう遠くない将来に働けなくなるわけである。


「こんなことになるんなら、田舎さ帰っておればよかったの」

 引越しが済んでひと段落をした時点で、軍司は、そうこぼす。

 軍司の長兄が急逝したのは、昨年のことだった。

 その際に、あちこちに散って独立していた兄弟の間で、誰が実家の家や田畑を継ぐのか、押しつけ合いのようなことが起こっている。

 早川家の、つまり軍司の兄弟たちはそれぞれの土地で生活基盤を築いており、いきなりそれを放棄して気軽に田舎に帰れるわけもなかった。

 あやうく末弟の軍司にお鉢が回ってくるところであったが、なにを思ったのか三男の耕造が葬儀の最中に、

「おれが家さ継ぐ!」

 と宣言して、どうにか無事に収まった。

 そのあと、耕造の家庭ではかなり揉めたようだが、結局は一家で田舎に移住をして、家と田畑を受け継いでいる。

 あのときに、軍司が晴を伴って田舎に帰っていれば、こんなことにならなかったのに。

 と、軍司としては、そう思うのだった。


「過ぎたことを悔やんでもしょうがないっしょ」

 晴はそういって快活な笑い声をあげた。

「この場でできることをしましょうよ」


 二人で相談した結果、これからなにかと物入りになるだろうし、中途採用で仕事を探すよりは短期間でまとまった金額が稼げそうな、つまり夫婦で探索者になることを晴が提案してきた、というわけである。

 そうした相談の際にようやく、晴は幼少時に迷宮に関わってきた過去を軍司に明かしてくれたわけである。


「うろおぼえではあるけど、どうすればあそこで過ごすことができるのか、わたしは知っている」

 晴はそう断言した。

「まだ物心つくかつかないのかといった時分のおぼろげな記憶だけど、だからこそかえって確かな、どうすれば生き残れてどうすれば死ぬのかという細々としたことが、わたしの中に刻まれている。

 だってわたし、あそこで大勢の人たちの生き死にを目の当たりにしてきたのだもの。

 本能に近いレベルで刷り込まれていなければ、あのとき、あそこで果てた人たちに対して申し訳が立たない」

 普段とはまるで違う表情で、晴がいった。

 その顔を見ながら軍司は、

「これは果たして、本当におれが知っている晴なのか?」

 という疑問を抱く。

 確かにこれまで、終戦直後の様子を晴から聞いたことはなかったが、その頃は晴もまだ幼子でしかなく、なにもろくにおぼていなかったと思うのが当然なのである。

 しゃべることができたかどうか怪しい嬰児の記憶を、改めて確認する必要も軍司は感じなかった。

 しかし同時に、晴の立ち振る舞いから見て、晴が嘘をいっているとも思われなかった。

 なにより、軍司たち夫婦は経済的に逼迫した状態にある。

 この状況下で、晴は、不確かなことをいい出すような女ではなかった。

 だから軍司は、晴のその自信に賭けてみることにした。


 軍司たちはすぐに迷宮には入らない。

 前述の槍など手製の装備品を作り、揃えるのと並行して公社がおこなっている探索者の資格を得るための講習に参加した。

 このうちの後者は今のものほど厳格なものではなく、半日ほど迷宮内の立ち振る舞いなどについて注意事項を伝えられただけですぐに資格を貰えた。

 準備が整うと軍司たち夫婦はすぐに迷宮には入り、コウモリやらネズミやらの小物を相手に早速立ち回りをはじめる。


「ここで一番重要なのは、とにかく傷を負わないないこと」

 最初に襲ってきた敵性擬似生命体を全滅させた直後に、晴がそう教えてくれる。

「そのためには、無理をしないというのが一番だし、それに加えて敵の攻撃を極力受けないように気をつけることが肝心。

〈癒し〉の技能があることはあるけど、それを使っても全快するまでに時間はかかるし、そうした技能を使っていること事態がここでは大きな隙に繋がる」


「最初のうちは下手に手を出さず、さっきみたいに介錯役に徹してくれればいいから。

 なにもせず、ついてくるだけでも何日かすれば累積効果で強くなり、浅い階層なら一人で出入りをしても困らない程度には強くなるから、とにかく焦らないで」


「食べるのなら、ここで出てくるような小物よりは、もう少しし進んだところで出てくるウサギの方がいいかな。

 ネズミやコウモリも、食べられないことはないんだけど、小さいわりには骨が多くて、食べられる部分が少ないから。

 その点、ウサギだとかなり図体が大きいし、一匹だけでも二人で何日か食い繋ぐことができるはず。

 一旦外へ出てからなら、一人で獲って来るから」

 確かに晴は、迷宮内での作法、身の処し方を知っているようだった。


 だが、これは。

 わしの知っている晴では、なか。


 軍司が強い違和感をおぼえたことがきっかけになったのか、次の瞬間、軍司はマンションの一室で布団の中で横たわっている自分に気づいた。


 また、夢かいの。

 軍司は、そう思う。

 どうも最近、夢見が悪い。

 しかも、完全な悪夢といえるのかどうか、微妙な内容の夢ばかりを見ているような気がする。

 この間の敦の夢といい、どうも、

「こうあったかも知れない」

 もうひとつの過去を、それも、迷宮がらみのあり得たかも知れない可能性を垣間見ているようだった。

 敦の夢はともかく、晴の夢はのう。

 と、軍司は複雑な心境になる。

 たとえ夢であるとわかっていても、若い頃の晴とまったく同じ外見の女を間近に見れることは、正直、嬉しかった。

 しかし、夢の中の晴は本物の晴とは外見以外に似たところがなく、まったくの別人であるともいえる。

 そもそも、あの晴が幼少時に迷宮で暮らしていたということも、一度たりとも聞いたおぼえがなかった。


 だが、待てよ。

 と、軍司は思う。

 東京の戦災孤児の一部が、戦後の一時期、できたばかりの迷宮を根城にして自活していたというのは、紛れもない事実なのである。

 そして、晴もその戦災孤児の一員だった。

 晴が口を閉ざしていたので今となっては真偽を確かめる術はないのだが、あの夢の内容は、一部、事実だったのではないか。


 心ここにあらずといった感じで、軍司はその日も朝食と日課の家事を済ませ、駅へとむかう。

 迷宮へとむかう車中で、今朝がたに見た夢の内容を思い返してみた。

 あちらでは、軍司たち夫婦は田舎には帰らず、そのまま東京の下町に留まったようだ。

 そうなれば、当時勤めていた会社の倒産によって、あの夢のように軍司たちが路頭に迷いかけることも十分にあり得ただろう。

 夢の中の晴はどうやら長男の順一の妊娠が発覚したばかりの頃のようだったから、だとすればあの夢の中のできごとがあったのは昭和三十五年頃のはずだ。

 ちょうど、東京オリンピックを控えている時期になるの。

 と、軍司は思い当たる。

 現在誘致中の、二千二十年に開催の方の、ではなく、昭和時代に開催された、最初の東京オリンピックのことだ。

 当時なにかと取り沙汰されていたし、それにあわせてあちこちで建築ラッシュが起こったので、軍司にしても印象が強かった。

 あの頃は、鉄でもなんでもぼんぼん値あがりをした時期だったから、夢の中のあの夫婦も、迷宮から入手したドロップ・アイテムをうまく売りさばいて、どうにか生活を成り立たせることができたはずだ。

 そこまで考えてから軍司は、

「なんで夢の中の、別の人生を歩んだ自分自身の心配をせねばならん」

 とわれに返る。


 迷宮の中は相変わらず白白としていて色彩と遠近感に乏しく、そう、あの夢と同じように、現実感がない。

 そのリアリティに欠ける迷宮の中を、軍司はやはり非現実的な速度で疾駆して獲物を求める。

 外ではただ歩くのでさえ杖を必要とする老人である軍司が、それほど素早く駆けることができるという事実も、この迷宮の中の出来事を非現実的に感じさせるのに一役買っていた。

 思えば。

 と、軍司はそんな風に考える。

 この迷宮いうもんは、どこかであの世の一部に繋がっているのかも知れんの。

 通い慣れた今になってしまえばもはや不自然には感じないのだが、冷静に考えてみるとこの迷宮の中は、不自然なことだらけだった。

 軍司のような老人や年端もいかないわらしが、超人的な動きで飛んだり跳ねたりを出来るようになる。

 それどころか、スキルなどという不可思議な術さえ使えるようになる。

 これではまるで、颯がよくやっているようなゲームかなにかのようなものではないか。


 若い連中にとっては、天国のような場所なのかも知れんの。

 と、軍司は思う。

 しかし軍司からしてみれば、この白白とした空間は、人間とみれば襲いかかって来ることしかしない大小の獣たち、エネミーの存在とあいまって、地獄の一種にしか思えないときがあった。

 亡者たちが互いに殺し合い、どんな重傷を負っても死んでも、風が吹いて獄卒の声が響けばまたすっかり元の体に戻り、延々と殺し合いを続けねばならないとかいうあの等活地獄。

 軍司は別に信心深いわけではないのだが、この迷宮という空間は、どちらかというとその等活地獄に近い性質のものではないか。


 いずれにせよ、この世よりはあの世の方に近いわけかの。

 ぼちぼちお迎えが近いこのわしには、かえってふさわしい場所じゃということか。

 そんなことを思いながら軍司は手慣れた様子です〈察知〉でエネミーの所在地を確認し、手慣れた様子で〈狙撃〉により射殺をしていく。


「ジ様。

 最近、考えごとさ多くなってないか?」

 夕餉の席で、静乃がそんなことをいい出した。

「そうかもしれんの」

 軍司はあっさりっと認める。

「どうも近頃、昔のことさ、ひょっこりと思い出すことが多くての。

 それもこれも、年齢のせいか」

「昔のこと?」

「おうよ。

 思い返して、考えたところで、この今のありようは変わらんのだがなあ」

 軍司は心ここに在らずといった表情でそう説明する。

「そいでも、どうにも考えてしまうことが多くての」


 最近軍司が見るようになった奇妙な夢には、いくつかの共通点がある。

 ひとつは、

「あり得たかもしれない、軍司のもうひとつの過去」

 に関すること。

 もうひとつは、

「迷宮がなんらかの形で関わっていること」

 である。


 その二点から軍司は、

「よもや、迷宮が軍司になんらかの影響を及ぼして、こうした夢を見せているのではないか」

 という疑念を抱きもしたものだが、よくよく冷静に考えてみると、どう考えてもこれは穿ち過ぎというものだろう。

 迷宮が探索者の思考や精神になんらかの影響を及ぼすという話を軍司は一度として聞いたおぼえがないし、それに、迷宮の影響は迷宮の周辺にしか及ばないはずである。

〈印旛沼迷宮〉からも他の迷宮からも遠く隔たったこの習志野の地にまで、なんらかの影響を及ぼすことは、まずないはずであった。

 それに、仮に迷宮からなんらかの影響を受けているとしても、数多くいる探索者の中からあえて軍司のみを選択してああした夢を見せる意味が了解できない。

 常識的に考えれば、ああした夢はあくまで軍司個人が勝手に見ているだけであろう。

 こうまで昔のことばかりを夢にみるということは、それだけお迎えが来る時期が近づいているということではないのか。

 人は死ぬ直前の一瞬にそれまでの生涯を一瞬にして振り返る、走馬灯というものを見るそうであるが、わしのこの夢もその走馬灯とやらの一種なのかも知れん。


 しかしその夜の夢には、迷宮が出ることはなかった。

 その夢の中で軍司は見慣れた裏山からより深い山の奥へと続く途上におり、季節は周囲を雪で白く染める冬、つまりは猟が解禁されている時期となる。

 三十をいくらか過ぎた年頃の軍司は、つまりは猟をはじめてからまだ日が浅い軍司は、肩に慣れた、記憶にある重みを感じながら、ただ一人で山の中を歩いていた。


 ああ。

 と、その夢を客観的に眺めている方の軍司は、そう思う。

 こりゃあ、猟をはじめてからまだいくらも経っていない、一人歩きにもまだ慣れていない頃のわしじゃな。


 猟というのはあれでなかなか奥深いもので、山の歩き方から獲物が残す痕跡の見分け方、やつらに気どられずに追いつき、待ち伏せし、仕留めるまでに必要な、無数のあれこれを誰かから教わる必要がある。

 完璧を求めるのならばおそらくは一生を費やしても習得することはかなわないはずであるのだが、この頃の軍司は、何人かいた師匠連中からどうにか基本的な事項を習い終えて、拙いながらもようやく一人で山に入りはじめた時分である。

 鹿だの猪だの大物を狙うときは師匠筋や知り合いなどの力を借りることもあったが、この時点で軍司は猟師としての経験をさほど積んでおらず、自分一人で狙うのは鳥類などの小物に限っていた。

 狩猟には許可されている時期というものがあり、さらにいえば狩猟が許可されている動物の種類、地域なども、乱獲や誤射による事故を防止するためにかなり事細かに法律によって禁止事項が定められている。

 そしてこうした狩猟ができる時期というのは、だいたいこの時期というのは農閑期に該当していた。

 鹿や猪など、山林や農作物を荒らすような動物については、一頭狩るごとにいくらと補助金を出す自治体も少なくはない。

 だから軍司は、相続をした田畑を耕すことの他に、冬場にはこうして山に入って鳥獣を狩ることを選んだ。

 雪がつもり、畑仕事ができない冬場には、このなにもない地元ではまともな現金収入を得る道がほとんどない。

 近くに通える範囲内にまともな働き口があれば兼業農家を営むという選択もあったのだろうが、軍司の生家のあった地方はそうした産業があまり発達しておらず、特に当時は車で通える範囲内に職場を求めることは困難であった。

 かといって、一年の半分ほどを遊んで暮らせるほどに裕福でもなく、一家を支えようとすればどこぞの都会に出稼ぎにいくか、こうして山に入って獣を狩るかしか選択肢がない。

 軍司が出稼ぎを選ばす、こうして猟師として活動をすることを選んだのは、まず第一に、妻子がいる家から長く離れたくはなかったからだ。

 長男の順一はまだ生まれたばかりであり、その純一がある程度手がかからなくなったら、次の子どもも作ろうかと晴とは相談をしている。

 そのためにゃあ、気張って稼がにゃならんの。

 と、軍司は思う。

 一人だけで大物を狙うつもりはなかったが、今晩の夕餉に一品足すほどの獲物をくらいは持ち帰りたいところであった。


 山の天気は変わりやすのだが、この日はまるで崩れる兆候が見られず、安定した快晴だった。

 軍司は山林の中を、動物が残す微かな痕跡を確かめながら、慎重に進んでいった。

 足跡や糞、樹皮をはいで食べたあと、猪が体からダニなどを払うために砂浴びをする場所など、気をつけてよく観察すると、山の中にはそうした動物たちが普段どのように行動し、生活をしているのか、かなり雄弁に語ってくれる。

 今日すぐにこうした猪だの鹿だのを狩る予定はないのだが、こうした痕跡を普段から注意深くたどり、行動パターンを把握しておくとあとの猟が格段に楽になるため、山に入ったときはできるだけ細かくそうした痕跡を目で追うような習慣ができていた。

 もちろん、軍司が独力でそうした痕跡の見分け方をおぼえたわけではなく、先輩にあたる猟師たちに同行して、かなり細かく指導された成果であるわけだが。

 鹿が、かなり殖えておるの。

 根元付近の樹皮が剥がされたあとが多かった。

 冬場の食べ物が少ない時期、鹿はこうして樹皮を歯ではいで食べることがある。

 樹皮が丸々剥がされた樹々は、そのまま枯れることが多い。

 師匠らに連絡して、早々に間引きをせねばならんの。

 と、軍司は思う。

 鹿にせよ、猪にせよ、殖えすぎると山が荒れるのだ。

 それどころか、食べるものがいよいよなくなってくると、人里にまで出てきて農作物を荒らすようになる。

 そうなる前に、適当に数を減らしていくのも、軍司たち猟師の重要な仕事だった。

 そうして狩り続けることは、そうした動物たちに人間に対する警戒心や恐怖心を与えることにも繋がる。

 ヒトさ山に入らんようになると、そうした畜生さが図に乗るだけじゃしな。

 猟師とはそうして山のバランスを維持する役割も担っていると、軍司はそう思っている。

 野放図に放置されただけの自然というのは、人間にとってははなはだ不都合な代物で、その不都合な自然を幾分かでも人間にとって都合がいいものしようというのも、猟師の機能であると。


 そうしてしばらく山歩きをしていると、ふと視界の隅になにか白いものがかすめていく。

 ほんの一瞬のことであったし、山の中でそうしてなんらかの動物に遭遇をすることは珍しくもないのだが、なんとなくその白いものが軍司は気にかかった。

 野犬など、この山にはおらんはずじゃがの。

 軍司は、そう思う。

 その白いものは、ちょうど中型犬くらいの大きさに見えた。

 その大きさから考えて、兎と見間違えたのではない。

 と、思う。


 なんとなく気になった軍司は、その白いものが去っていった方向に、枝を掻き分けて進んでみることにする。

 何度も繰り返し入っているこの山の中で、迷う心配はなかった。


 その白いものは、軍司が足を止めるたびに遠くに現れてはすぐに去っていく。

 まるで、軍司をどこかに案内をするかのように。

 軍司の方も、なんでだかその白いものを無視する気になれなくて、どこまでもあとをついていった。

 小一時間ほどそうした追いかけっこをした結果、軍司は沢に着いた。

 いや、案内をされた、のか。


「なんじゃあ、こりゃあ」

 軍司は、異様な風景を発見して、驚きの声をあげている。

 そこには名前もない小川が流れていたのだが、その小川の水が途中から、空中でふっつりと途絶えて、下流の部分が干上がっていたのだ。


「川の水が、見えないどこぞに流れ込んでおるんか?」

 軍司は首を傾げながらその、小川の水が途絶えている場所にまで移動し、そしてその場に一歩足を踏み入れた途端、いきなり景色が変わった。


「は?」

 突然の出来事に、軍司は間の抜けた声を発してしまった。

 さっきまでいたはずの山中の光景はどこにもなく、首を巡らせて見渡して見ても、周囲は妙に白白とした空間が広がっているだけだ。

 なんじゃ、ここは?

 軍司は内心で呆れながら、そう疑問に思う。

 なんで、こんな場所に。

 いや、そもそも、ここはどこだ。

 頭の中が、疑問でいっぱいになった。

 この事態は、あきらかに軍司の判断能力と処理能力を超えている。

 しばらく不安げに周囲を見渡してから、軍司は遠くに白い雑種犬の存在を認めた。

「シロ!」

 思わず、軍司はそう口走ってしまい、そこで目をさます。


 電車に乗って〈印旛沼迷宮〉にむかいながら、軍司は今朝に見た夢のことを思い返していた。

 夢の中の軍司はまだ迷宮に入った経験がなかったから思い当たらなかったが、その山中にいきなり出現した異空間は、明らかに迷宮の中の風景であった。


 あんな山の中で迷宮さ見つかっていたら、えらい騒ぎになるの。

 と、軍司は思う。

 現在でもそうだが、あの当時はそれに輪をかけて金になる産業が育たなかった。

 そんな、土地柄なのだ。

 迷宮自体の管理は公社がおこなうにしても、周辺の交通路は整備され、探索者自体を目当てに、あるいは迷宮から出てくる産物を目当てにした業者がわんさか寄って来るだろう。

 俗にいう「迷宮城下町」というやつで、そこに迷宮が発見されただけで、その周辺の人口が数万から十万人以上はあっという間に膨れあがる。

 県庁なども諸手あげて周辺地域の開発へと着手していくだろう。

 あの時点であの周辺で迷宮が発見されていれば、あの周辺の様相はがらりと変わっていたはずだし、そうなればすぐ近くに住んでいた軍司たち一家がたどる道もかなり変わっていたに違いない。

 おそらくは、軍司自身も、そうそう頻繁にとはいかないまでも、自宅からその迷宮へと年に何度かは通うようになっていたのではないか。


 そうなれば、晴にもあまり苦労さかけずに済んだの。

 と、軍司は思う。

 畑仕事や猟師とは違い、探索者ともなれば、たとえたまにしか迷宮に入らないでいても、まとまった現金収入が期待できる。

 あの時点で家の近くに迷宮が発見されれば、軍司たち一家は少なくとも経済的にはかなり潤ったはずであった。

 それがいいことであったのかどうかは、また別問題であるが。


 なんの。

 軍司は、自分のこれまでの生涯を思い返して、改めてそう思った。

 このわしだって、苦労をしながらも息子二人を育てて、大学にまで出しておる。

 たとえ迷宮なんぞがなかったとしても、これだけでも、十分に立派なもんじゃ。


 現在の軍司は、なんのかんのいっても孫二人に囲まれ、経済的にも健康的にも不安がない状態で過ごしている。

 迷宮にも毎日のように通い、そのことにやり甲斐も感じていた。

 軍司と同年代の人間で、これほど充実した日々を送っておる者が果たして何人いることか。

 客観的に見ても、軍司は十分に恵まれていると、そう思えた。


〈印旛沼迷宮〉でタクシーを降り、杖をついてロビーに入ると、何人かの探索者たちから声をかけられる。

 顔見知りの、以前に迷宮内に同行した探索者たちであったが、少し前に自損事故を起こして以来、思うところがあって軍司はできるだけ一人で迷宮に入ることにしていた。

 もちろん、以前からのつき合いもあり、どうしても断りきれない相手というのも若干名存在するわけだが。


 このところ、一人で迷宮内に入っている軍司が考えていることは、

「わしは、なんのために迷宮に入っておるのだろうか?」

 ということであった。

 最初は順也に誘われたことがきっかけであったが、そのあと静乃やら颯やらが探索者となって、この孫たちと同行するのが楽しいから、というのが、この頃では一番の動機になっているような気がする。

 なんといってもこの迷宮の中では、外でとは違って孫たちにいい格好を見せてやることができるのだ。

 外に出たらわしなんぞ、足もよう効かん老いぼれに過ぎんしな。


 収入ということならば、すでに軍司は老後の蓄えとしては使えきれない金額をこの迷宮から得ている。

 例の〈泥沼階層〉攻略時の報酬が大きかったが、それ以外にも毎日のように迷宮に入っている軍司は、すでにかなりの金額を稼いでいた。

 これから不慮の理由で長患いをして、軍司が老人用の施設に世話になり、数年から十年以上を過ごすとしても、決して不足はしないはずであった。

 少なくとも軍司自身は、これ以上積極的に稼ぐ必要は感じていない。

 この前の自損事故を経験してから、この〈印旛沼迷宮〉で知り合った探索者たちにそれとなく相談をして法律の専門家を紹介して貰い、遺言や遺産相続のあれこれについても専門家に託している。

 念のために静乃名義の預金通帳も用意し、いつお迎えが来ても静乃が経済的に困ることはないように手配をしていた。


 やるべきことは、やりつくしたかの。

 軍司は、そう感慨にふける。

 今の生は、文字通りの余生というわけだ。


 なんで、わしなんぞが生き延びたんかの。

 これで何度目になるのか、軍司はそう自問をして、そっとため息をつく。

 順一や嫁の京子さん、それに始。

 みな若く、軍司などよりも将来があり、従って生きるのに値する者たちだった。

 静乃の手前、いつもは気を張って気にしていないように振舞ってはいるのだが、その実、軍司はかなり気落ちして、こうして一人で迷宮に入ったときなどはついついため息をついてしまう。


 いくら天災いうても、あまりにも無慈悲に過ぎやせんか。

 そう考えるのも、これで何度目のことか。


 山で大勢の鳥獣の命を奪った報い、かのう。

 そう、考えることもある。

 だが、基本的にあまり信心深い気質ではない軍司は、すぐにそれを否定してしまう。


 畜生も人も、死ねばハイそれまで。

 単なる肉の塊よ。


 そのことは、数えきれないほどの獲物をその手にかけ、直接解体してきた軍司が、体験を通して実感しているところであった。

 そしてそうした事情は、この迷宮内に出没するエネミー、昔は敵性擬似生命体と呼んだもんだが、とにかくそのエネミーであっても変わらない。

 仮に魂魄だのという代物が存在をするのだとしたら、それは物質的ななにものかではなくて、ある種の生物が生きて活動しているときに発揮するある種の機能をさしていう言葉になるのだろう。


 それでもこのわしは。

 軍司は、そう思う。

 やはり、罪深いのじゃろうな。


 十月に入ったばかりのある晩、風呂からあがった直後、軍司は唐突にその場に倒れた。


「ジ様!」

 キッチンで洗い物をしていた静乃が、軍司の転倒した物音に気づき、慌てて軍司にかけ寄る。

「ジ様さ、どないした!」

 声をかけ、体を緩く揺さぶりながら、静乃は観察した。

 意識があるのかどうかわからないが、軍司はあらぬ方向を見ていて、視線が定まっていない。

 体中が小刻みに痙攣をして、明らかに力が入らない、体を自分の意思で制御できない様子であった。

 静乃は慌てて身を起こして自分のスマホを手に取り、救急に通報した。


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