ユメ

 シロの小さな背中がずいぶんと遠くに見える。

 シロは、軍司を先導するかのように足早に駆けていく。


 最初は、おめがいただけだったな。

 と、軍司は思う。


 そっから、静乃が来て、颯さも来た。

 そいで、おめさがいなくなった。


「じいちゃん!」

 颯の声で目をさました。

 そうだ。

 ここは迷宮が入っている建物内にテナントとして入っているファミレス。

 静乃と颯の三人で昼食をしに入って、そのあとの休憩中に、ついうとうとしてしまったらしい。

「ジ様さ、最近、疲れやすくなってねか?」

 静乃が、心配そうな表情を作って軍司の顔を覗き込む。

「前の事故から、ぼうっとしてることが多くなってる」

「もう年齢だからのう」

 軍司は苦笑いを浮かべて、そう応じておく。

 シロの夢を見たことは黙っておいた方がよさそうだ。

 あの夢は、なんだかシロがあの世さに招いているようにも思えるからのう。

 静乃あたりが知ったら、縁起でもないとか思いかねない。


 シロが永眠して以来、この三人で迷宮に入るのは珍しくなくなっている。

 いや。

 さらに正確にいうと、週末や長期休暇の時期は、つまりは学校が休みのときは、だいたいこの三人でパーティを組んでいた。

 それ以外の平日は、軍司が一人で迷宮に入ったり、あるいは誰かに誘われるままに臨時のパーティを組んだりが半々くらいか。

 交通的なアクセスがしにくい位置にあることも手伝って、この〈印旛沼迷宮〉に出入りをする探索者はほぼ限定されており、ナガレの探索者がほとんどいないという特徴があった。

 そのこともあって、この迷宮に出入りをするようになってからまる二年以上にもなる軍司は、探索者の知り合いも自然と増え来ている。

 その気になりさえすればパーティを組む相手には困らないのだが、ときには一人になる時間が欲しくて、軍司はあえてパーティを組まずに迷宮内に入る日を意図的に作っていた。


 春休み、ゴールデンウィーク、夏休みと、長期休暇のたびに迷宮に入っているせいか、颯も最近では探索者としてそれなりの動きを見せるようになっている。

 この三人でパーティを組むときの流れは、迷宮内を移動をしながら〈察知〉のスキルを使ってエネミーを探し、発見次第〈狙撃〉スキルによって射殺をする、という手順になっていた。

 この〈察知〉のスキルによりエネミーを探す部分は、以前はシロが担当していたわけだが、シロが逝去した今では軍司と静乃が担当している。

 二人とも〈察知〉のスキル自体は以前から生やしていたのだが、シロがいなくなってから、そのスキルの効果範囲が格段に広がっていた。

〈察知〉のみに限らず、スキルとは使えば使い込むほどに練度があがり、使い勝手がいい方向に性能があがるものなのである。

 今では軍司も静乃も、五百メートル以上にも離れた場所にいるエネミーの存在を感知できるようになっていた。

 スキルによる〈察知〉であるため五感には左右されず、つまりは迷宮の壁面などの遮蔽物で見えないエネミーの存在でも、かなり正確にその位置を特定できる。

 また、移動についても、累積効果によって身体能力が向上しているこの三人は、特に苦にする様子もなくかなりの高速で、時速に換算すれば四十キロ以上の速度で移動していた。

 それだけの高速度で移動しながら、

「そこの角、右から出てくっど」

 などと軍司が、あるいは静乃が声をかけ、不意に足を止めてすぐに射撃ができる体勢を取る。

 軍司は指鉄砲を、静乃と颯はオモチャのモデルガンを構え、曲がり角から出てきたシサツジカの群れを片っ端か〈狙撃〉によって射殺しはじめた。

 その多くは頭部に被弾をして、一撃で即死して倒れていくエネミーたち。

 数十頭もいただろうか。

 彼らエネミーには逃げるという選択肢はなく、人間の存在を感知すればその人間にむかって殺到してくる性質を持つ。

 仲間が倒されても倒されてその屍を乗り越えてこちらにむかって来るエネミーたちを、三人は落ち着いて次々と射殺する。

 数えきれないほど見てきた光景であるから、三人とももはや動揺することがない。

 こちらにむかって突進してくるエネミーたちとの距離はまだ数百メートルもあり、彼らエネミーが生きた状態で探索者たちの元へ到達する望みはない。

 数分後には地面におびただしいエネミーの死体が横たわり、ようやく静かになる。

 三人の探索者たちは手分けをしてその死体と、それにときおり落ちているドロップ・アイテムとを、〈フクロ〉の中に回収していく。


「いつも思うんだけど、一方的すぎるんじゃない?」

 いつものように回収作業を終えたあと、颯がそんなことをいった。

「それで、なにが悪い」

 軍司は不機嫌な口調でいい返す。

「こちらの身が危うくなるよりは、こっちの方がええ」

 一か八かの博打のような行為を、軍司はこの迷宮の中でやりたぅはない。

 退屈な、単調な繰り返しであろうが、自分の命をまず第一に考えれば、こうした一方的な展開になるしかないのだ。

 あの〈泥沼階層〉での経験をあって、軍司はそう確信している。

 実際に対面するエネミーは、自分よりも遥かに弱い方がいい、と。

 それだけ徹底して万難を排除していてもなお、なにが起こるのか予測がつかない余地が残ってしまうのが、この迷宮という不可思議な場所の性質なのである。

 慎重かつ臆病すぎるくらいで、ちょうどいいのであった。

 まだ未成熟な部分をたぶんに残しているこの颯には、そうした安全の持つ価値がまだよく理解できないようであったが。

 いずれにせよ。

 こいつも、十八になるまでは、一人で迷宮には入れねえしな。

 と、軍司はそう思う。

 十八才より下の探索者は、十八才以上の引率役の探索者が同行していないと、迷宮には入れない規則になっていた。

 確かに、冷静な判断力が育っていないわらしらだけで迷宮に入ったとしても、危ういばかりだものな、と、軍司はその法律の趣旨に賛同する。


 そうして何度かエネミーの群れを全滅させてから、三人はその日の狩りを終えて迷宮から出た。

 三人の〈フクロ〉の中には、合計すれば千体を超えるエネミーの死体が新たに収納されていることになる。

 この日の成果が特に多いというわけではなく、この三人のパーティの場合、これが平均的なエネミーの撃破数であった。


「今日は解体の車、来るんだっけ?」

「今日は来ないね。

 来るのは、明日」

 颯と静乃が、そんな会話を交わしている。

 軍司が車で迷宮に通っていたときは、迷宮から出ればそのまま車に乗って帰宅をしていたのだが、今はタクシーを捕まえる前に迷宮が入っている建物内にあるスパに寄るようになっていった。

 静乃がたっぷりと汗をかいた状態で電車などの公共の交通機関を使うことを嫌がったのが大きいのだが、軍司にしてみても、指摘をされてみればなるほど汗を流してから帰った方が快適ではあるな、と、そう納得している。

 この〈印旛沼迷宮〉だけではなく、三十三ヶ所ある迷宮には必ずといっていいほど、スパや公衆浴場に該当する施設と医院とが併設されている。

 前者はいうまでもなく迷宮には集まる探索者が必要としているからであり、後者は探索者のみならず、迷宮の近くでのみ効果を発揮する〈ヒール〉系スキルの恩恵に預かりたい人間が少なからず存在するからであった。

 もちろん、そうした医院は〈泥沼階層〉のときのように、探索者自身がお世話になることも多いのであるが。


 そのスパで小一時間ほどをかけて汗を流してさっぱりとし、着替えてから迷宮前でタクシーを拾って北総線印旛日本医大駅へ出て、そこから一時間ほどをかけて習志野まで帰っていく。

 というのが、この三人でパーティを組むときのいつもの日程であった。


「膝、大丈夫?」

「こげなもん、なんでもね」

 駅のホームで電車が来るのを待つ間に、静乃が心配して声をかけてくる。

 痛むことは痛むのだが、かといってそのことを静乃にはなしてもなんの足しにもならない。

 以前から医者にも相談しているのだが、

「膝の軟骨が剥離して、そういった破片が神経を刺激しているせいですね。

 お年を召すと、そうなる人が多いんですよ」

 などと、なんの役にも立たない解説をしてくれるだけであった。

 根本的な治療法はないらしく、軍司は痛みどめの湿布を貰うためだけにマンションの近くにある整形外科医に月に何度か通っている。

 この痛みが出るようになってから、軍司は藤の杖を購入して外出時にはそれを持って使うようになっていた。

 まったく、年齢は取りたくないもんだの。

 と、軍司は思う。

 五十になるやならぬやで物故し、ついに孫の顔すら見ることがなかった晴が聞けば怒られそうな気もするのだが。

 現在の軍司は、体に多少の障りを抱えているとはいえ、こうして二人の孫に囲まれて、まずは不自由のない生活を送ることができている。

 さらにいえば、迷宮にさえ入ってしまえば、若い者にも負けないくらいの働きもしている。

 これでもまだ文句をいうようであれば、怒られても仕方ないじゃろうな。

 などと、軍司は思う。

 晴だけではなく、ついに帰ることがなかった長男夫婦と始のことも、そう思ったときに軍司の脳裏を掠めた。


 受験が終わり、軍司との対話が増えるようになってから静乃の眠りは再び深くなったようだ。

 対話といっても、実際にはたいしたことはしていない。

 静乃の話すことによく耳を傾け、ときおり、軍司自身が経験してきたことをポツリポツリと語る時間を設けただけのことである。

 そうして語ることに耳を傾けてみる限り、どうやら静乃は、あの震災のとき、両親や兄とは違って、自分だけが助かってしまったことに対して漠然とした罪悪感をおぼえていたようだった。

 その罪悪感が慢性的に静乃の精神を刺激して、不安にさせていたらしい。


「わしが幼い頃な、大きな戦争があった」

 一通り、静乃の取り留めのない話しに耳を傾けたあと、軍司はそういった。

「とはいっても、わしが物心つく頃にはすでに決着しておって、そのかわり、ちょうど育ち盛りの頃にはろくに食べるもんに事欠くことになったが。

 それでもわしらは自分の田畑を持っておったから、そうそう食べるものにはあまり不自由しなかった。

 わしらよりももっと不自由しておったのは都会の、自分の田畑を持っていなかった連中での。

 着物やらなにやら持参して田舎まで押しかけてきて、物々交換でなんらかの作物を持ち帰るようなことが、その頃にはよくあった。

 うちにも上等の反物かなにかを持ってそうした交換を持ちかけて来た人が何人かおったが、そういうことをするのは大抵若いご婦人でな。

 おそらくは世話をするものがいないからじゃろうが、そのときのわしよりもまだ幼い子どもを連れていることがよくあったもんじゃ。

 そうした子らは、まず例外なく、可哀想なほどにやせ細っておっての。

 わしも、なんでわしらが大人の都合でこうまでひもじい思いをせねばならんのじゃと、いつもそう思っておったな」

 なんでこんな、半ば忘れかけていた思い出話が口をついて出てきたのか、軍司にもよくわからなかった。

 あとで思えば、おそらくは震災にせよ戦争にせよ、自分の意思ではどうにも回避のしようがない災害に対して、余計な罪悪感を抱く必要がないと、そういういうことを、伝えたかったのではないか。

 ただ軍司は、口下手な人間にはありがちなことに、そのときその場で、そこまで理路整然とした説明をすることができなかった。

 それだけ長くしゃべったあとに出てきたのは、

「いずれにせよ、おめが気に病むことはね」

 という、ごくありきたりな文句でしかなかったのである。


 内容はともかく、軍司を相手にであれ、自分が抱えているとはこうして不安について説明をすること自体が治療になっていたのか、それとも中学の授業が終了して再び軍司やシロとともに迷宮に入るようになったのが一種の気晴らしとして作用したのか、その年の春頃から静乃の精神は目に見えて安定するようになった。

 少なくとも、ゆっくりと眠れるようにはなったようだ。

 夜中にそっと起き出したり、あるいは朝早くから起きてシロの散歩につき合うということがなくなった。

 高校に通いはじめるような頃には、すっかり元気な、震災前の静乃に返ったかのように、軍司には見えた。

 静乃の中からすっかりいいようのない不安が払拭をされたとも思わないのだが、静乃は、どうやら自分の意思でその不安と共存する方法を学びつつあるらしい。


 静乃がよく眠るようになり、シロの散歩は再び軍司がひとりでいくようになった。

 早起きは特に苦にならないので、軍司としてもそれで文句はないのだが。

 シロの散歩をする必要がなくなった現在、軍司は以前とは違い、かなり朝寝をするようになっている。

 とはいっても朝の七時には起きているわけだが、それでもそれまで何十年間も続いていた習慣と比較すると、かなり遅い時間ではあった。

 それまでよりも長く眠るようになったからか、この頃、軍司はよく夢を見るようになっている。


「迷宮には軍人も大勢入っている。

 国防軍やら在日米軍やらが、訓練も兼ねて入ってきているんだ」

 夢の中で、敦がそういった。

「だけどそういうやつらも、迷宮の中では銃を使うことがない。

 なぜだかわかるか?」

 敦は軍司と同郷の出身であったが、今ではすっかりなまりが抜けて、東京もんの口調になっていた。

「迷宮の中では、技能が使えるからだんべ」

 若い頃の軍司は、詰まらなそうに答えた。

「重たい弾薬を持ち運ぶ必要がなか。

 それに、練度さあがればなまじの鉄砲よりか技能の方が威力がある」

「そう。

 そうした銃器は、迷宮の中では無用の長物ってやつさ!」

 敦は両手を大きく広げてそういった。

「迷宮には入れば、おれたちは何者にだってなれるんだっ!」


 田舎にいたときから、この敦は調子のいい男だった。

 集団就職で浅草にある料理屋に下働きに出ていたはずだが、いつの間にかそこを抜け出して探索者とやらに収まっていた。

 おそらくは、地味で単調な仕事をいつまでも続ける下働きの仕事が嫌になり、そこから逃げ出すために迷宮に飛び込んでいったのだろう。

 運がよかったのか、それともなんらかの才覚があったのか、この敦は何年間か探索者として生き残り、そこそこの成功を収めているようだった。

 当時の探索者の生還率を考慮すれば、敦のように何年も探索者としてやっていき続けていることは、奇跡といってもいいくらいである。

 その敦から、軍司は探索者になれと誘われている状況だった。

「おれもあれだ。

 これまで下積みで苦渋を舐めてきたからよう」

 敦の説明によると、新人の探索者は通常、どこかの集団にいれて貰い、その集団の下働きのようなことをしながら迷宮に慣らしていく、という。

「これからは、今までに苦労してきた分、おいしい思いもしなけりゃな」


 迷宮という不可思議な空間では、外界では考えられないことがいろいろと起こるので、まずはそのことに慣れなければならない。

 同時に、そうした兄貴分たちといっしょに迷宮に入っていさえすれば、なにもせずとも累積効果とかいうもので迷宮内での行動が強化される。

 この累積効果というものは、この頃の軍司には何度説明をされてもうまく理解できなかった。

 とにかく、その迷宮内で行動する集団において、なにもできない新人は、下っ端として各種の雑用全般を申しつけられ、報酬も他の兄貴分たちの分け前よりはずっと下がるのだと、そう説明された。

 この敦はそうした下働きを何年か勤め、ようやく最近になって、どうにか迷宮内でもそれなりに働けるようになったわけだが、同時に、敦が属する集団の中で中核を担っていた者が数名、敵性擬似生命体にやられて不具となり、その集団は事実上、解散を余儀なくされてしまったと、どうもそういうことらしかった。

 そこで敦は、今度は自分が中核となって新しいパーティ(迷宮内で活動する集団を、そう呼ぶのだそうだ)を立ちあげることを決意し、軍司をはじめとして心当たりに声をかけ、勧誘して回っているところであった。


「そっだたこと、いわれてもな」

 二十そこそこの若き軍司は、そういって言葉を濁す。

 今の仕事に、不満がないわけではない。

 薄給であるし、毎日の仕事も単調だ。

 しかし、今の会社には夜間高校に通わせてくれた恩義というものも感じているので、すぐに辞めてこの敦についていこうという気にはなれなかった。

 それにこの敦は、この場では調子がいいことをいっているが、今度は軍司たち新たに勧誘してきた者たちをこれを幸いとこき使うつもりなのではないか。

 いくら同じ時期に東京に出てきた同郷の同級生だといっても、軍司はこの敦とはほとんどつき合いがなかったし、従って完全に信用をしきれるわけもなかった。


「そんじゃあ、よ」

 渋る軍司に対して、敦はそんな提案をしてくる。

「ものは試しってことで、今度の休みにでもいっしょに迷宮に入ってみないか?」

「迷宮に、だ?」

 軍司は眉根を寄せた。

「迷宮に入るには、なんだか資格が要るんでなかったか?」

「それなら、大丈夫だ」

 敦は気軽に受けあった。

「さっき話した、怪我をしたやつの資格証が余っている。

 そいつを持って検問を通れば、別に咎められることはない」


 驚いたことに、敦がいった通りだった。

 駅の改札にも似た検問所でその資格証を係員にかざすだけで、問題なく通過ができた。

 係員は資格証をちらりと一瞥するだけで、なにもいわない。


「ほらな」

 検問を通り、迷宮の内部に入ったところで敦がいった。

「この手の資格証の貸し借りは、結構頻繁におこなっているんだ。

 公社のやつらもある程度実態を知った上で、あえて見逃している節がある。

 ここから取れる資源は、今後のこの国に必要だからな」

 おおらかというよりは、杜撰で大雑把な管理体制といえた。

 公社としても、そこまであえて目を瞑ってでも、迷宮から産出される資源を増やしたかったのだろう。

 確かに、そんな乱暴な時代ではあったな、と、夢を見ている側の軍司が、冷静にそう考える。


「畜生!」

 下半身をネズミに覆われた状態の敦が、鉄パイプを振り回しながら罵声をあげた。

「やつら、こんなに強くなかったはずなのに!」

 半ば、悲鳴混じりの絶叫であった。


 迷宮さ、舐めてかかったな。

 年老いた、冷静な方の軍司がそんなことを思う。

 保護服など、探索者用の装備が開発をされるようになるのは遥かに後年の、この国がもっと豊かになってからのことだ。

 この敦も軍司も、通常の作業着姿で迷宮に入っている。

 たかが第一階層のネズミが相手であっても、近寄ってくる前に手早く片づけていかないと、こうしてたかられてエラいことになるわけだった。

 隙間なくびっしりとネズミに取りつかれている敦の下半身は、おそらくそのままネズミたちに掻き毟られ、齧られ、血だらけになっていることだろう。

 防御力と、それに圧倒的に攻撃力が足りなかった結果だった。

 この敦は、自分の実力を過信し、

「第一階層くらいなら、自力でどうにかできる」

 という甘い予断を持って迷宮内に入ったのだろう。

 しかし、現実にはこの有様だった。

 もちろん、今日はじめて迷宮に入った軍司にしてみても大したことはできずに、この敦以上にネズミにたかられて酷い有様になっている。


「これ以上は、無理だ!」

 軍司は叫んだ。

「とっととここから出んべ!

 確か、脱出用の技能があったはずじゃろう!」

「あれを使ったって、このネズミたちが消えるわけじゃねえ!」

 敦が叫び返した。

「まずはこのネズミどもをなんとかしねえと、おれたちはお終いだ!」


 悲鳴こそあげなかったものの、軍司は全身にびっしょりと冷汗をかいて跳ね起きた。

 なんと夢見の悪い。

 胸元を手で押さえながら、軍司は思った。

 この年齢になって、生きたままネズミどもに食い殺される経験をするとは思わなかった。

 下半身を覆う、あの痛みと熱。

 もしあれが本当にあったことなら、あの時分に敦が接触をしてきて、軍司がその口車に乗ってしまったとしたら、確かにそういう、夢に見たようなことになっていたのかも知れなかった。

 しかし、現実には、あの敦とは、東京に出てきてから顔を合わせてさえいないし、いや、それ以前に、軍司は敦の顔と名前すら、正確には記憶していなかったくらいだ。

 それくらい、疎遠だった男である。


 なんじゃろうな、この夢は。

 と、軍司は思う。

 悪夢であることは確かであったが、なんで今さらあの頃の夢を、それも、顔も名前も忘れていたような男のことを、夢の中ではここまで鮮明に思い出しているのか。


「ジ様、起きたか?」

 キッチンの方から、のんびりとした静乃の声が聞こえてくる。

「ご飯、もうできとるでよ」

「おう」

 軍司は掠れた声で、どうにか返事をする。

「顔さ洗ってくるで」

 そう声をかけた上で、軍司は洗面所へとむかう。


 顔を洗って着替えてから軍司は食卓に着いた。

 高校受験がひと段落してから、朝食は静乃が作るようになっている。

 シロが健在だったときは軍司とシロが散歩に出ている間に準備を済ませ、最初こそために失敗をしていたものの、すぐに手慣れた様子で料理をするようになった。

 料理の本を図書館から借りたり購入したりして、レパートリーも徐々に広げている。


「ジ様さ。

 今朝はなんか元気がないね」

「んだか?」

 軍司は夢のことを説明したくはなかったので、とぼけることにした。

「疲れが残っておるんかのう」

 静乃の作る食事は軍司の基準でいえばずいぶんと薄味に思えたが、そのかわり味噌汁などは出汁が効いていてかなりうまい。

 この静乃は、一定期間練習をすればたいていのことはこなせるようになる、器用な娘に育ったようだ。

 学校の成績もいいようであるし、なにをするにせよ心配をする余地がない、将来の安泰が約束された、そんなような出来た孫娘に育ってくれた。

「朝寝をするようになってから、かえって調子が悪い気がするの」

 シロが亡くなり散歩に出る必要がなくなってから、軍司は朝寝をするようになっている。

 とはいえ、以前は午前五時前後に起きていたのが六時半にまで遅れた程度であり、それでようやく世間並みといった程度であり、朝寝というほどのことでもない。

「ジ様ももう年齢なんじゃから」

 箸を使いながら、静乃はいった。

「そんくらいの養生をしておいてもいいべ」


 朝食が終わり、静乃が学校に出ていくと、軍司は掃除や洗濯などの家事をおこなう。

 とはいえ、田舎の無駄に広い家とは違い、狭いマンションの中を掃除するのも洗濯をするのも、家電用品を使えばあっという間に片づいてしまうのだが。

 そうした細々とした雑事を片したあと、身支度を整えてから軍司は習志野駅へとむかうのだった。


 一時間半ほどをかけてようやく〈印旛沼迷宮〉に到着すると、軍司はすぐにゲートへとむかう。

 途中で顔見知りの探索者たちに声をかけられ、そちらのパーティに合流することもあれば、軍司ひとりで迷宮に入ることもある。

 軍司ひとりで迷宮に入る場合は十階層よりも浅い階層をさまよい歩くわけだが、他のパーティと合流した場合の行き先は完全に相手任せであった。

 もともと〈狙撃〉という遠距離物理攻撃に特化したスキルを持っている軍司は、よほどの実力差がなければ、つまり中堅どころのパーティまでは同行していっても足を引っ張ることがない。

 例の〈泥沼階層〉攻略に参加して生き残ったという実績に加え、この迷宮に出入りをする探索者たちの間では軍司が〈魔弾〉というスキルを使用可能になった直後から、そのスキルの噂が速やかに広まっていた。

 そうした要因から、今ではこの迷宮の周辺において、軍司は一目置かれる存在となっている。


 夕方まで迷宮に入ってから、また一時間半ほどをかけて帰宅する。

 その途中で静乃と連絡を取り、どちらが夕食の支度をするのか決めるのが日課となっていた。

 高校生である静乃にもそれなりにつき合いや用事というものがあり、帰りが遅くなることもある。

 軍司と静乃、どちらか先に家に着きそうな者が夕食を用意する、という取り決めになっていたのだ。

 帰る途中で軍司がなにがしかの食材を買って帰ることもあったし、二人でキッチンに並んで料理をすることもある。

 静乃が一通りの調理技術を身につけてくれたおかげで、その辺の分担はかなり臨機応変に変えることができるようになっていた。


 静乃といえば、高校受験に区切りがついた前後から、だいぶ眠りが深くなっているようだった。

 いや、それでもちょいとした物音で跳ね起きたりと、神経質な面もまだまだ残っているのだが、こちらに来てからしばらく続いていたような恒常的な緊張状態からは、少なくともすでに解放されているらしい。

 一時はカウンセラーとかいう、具体的にどうやって患者を治すのか軍司にはまるで想像ができないような相手に静乃を託すことも考えてはいたのだが、こうして日常生活に支障がないところにまで精神が安定してきているのであればこのままにしておく方がいいのではないか、と、素人ながらに軍司としてはそう思うのだった。

 誰に教わるでもなく、自分自身さで学ばねばならんことも、この世にはあっからな。


 静乃が安定してきたのはいいのだが、そのかわり最近では軍司の方がなにかおかしな具合になってきている。

 いや、年齢が年齢であるから心身ともにどこかにガタが来ていても決して不思議ではないのだが。

 しかしこの不調は、必ずしも老齢のせいばかりではないのではないか。

 たとえば軍司は昨年から杖をついて歩くようになっている。

 これは膝が痛むせいと、それに、迷宮の中と外とで、自分の体重を支える感触が多いに違ってきているからだった。

 膝の痛みはともかく、後者の理由については月に何回か通っている整形外科医にも相談していない。

 累積効果が発揮される場所とそうでない場所との落差と違和感について、迷宮に入ったこともない医者に説明をしてもうまく理解して貰えるはずがない、という確信があった。


 シロさも、こげな気分じゃったのかのう。

 軍司はそんな風に思い返す。

 シロは田舎からこちらに出てきた時点で、確か十三、四才じゃったか。

 十五才を超えて永眠したわけだがから、平均的な犬の寿命からみても十分に老齢であり、大往生であったといえる。

 シロさ、迷宮に出入りをしはじめた頃は、ずいぶんと戸惑っていたようだったしの。

 累積効果がある場所とそれ以外の場所とは、まず体の重さからして大違いなのだ。

 人間ならば理屈で割り切れそうなものだが、畜生である犬の頭ではなかなか理解がしがいことであっただろう。

 それでも、しばらくすればそのシロも慣れたて行ったわけだが、今度は迷宮とは関係がない、シロ本来の、犬としての寿命が、シロの命を奪っていった。


 シロが本格的に散歩を嫌がるようになったのは、今年に入ってからまだ日が浅い、まだ寒い時分のことだった。

 いや、より正確にいうのならば、昨年の時点から散歩を短く切りあげるようになり、手足の肉が落ちて細くなるなどの兆候はあったわけだが、獣医とも相談してみたところ、これはやはり老衰のせいだろうということになった。

 できるだけ運動をさせてください。

 とも、いわれた。

 運動をしなくなると、筋肉が落ちて関節が硬くなる。

 それでますます動かないようになる、という悪循環が発生してしまうと、すぐに寝たきりになってしまうのだという。

 軍司や静乃、それに颯は、ぐずるシロを宥めすかしてどうにか散歩に連れ出そうと躍起になった。

 しかしそれでもシロはどんどん衰弱していき、年が改まった頃には散歩の距離も以前の何分の一かまでに落ち、終いにはごく近所をゆっくりと回る程度にまで体力が落ちていった。

 もちろん、衰弱を周囲が察知しはじめた時点で、軍司もシロを迷宮にまで連れ出すことは辞めてしまっている。


 それだけ衰えながらも、シロはそれからどうにか半年近く生き続けた末、梅雨時のジメジメとした日に順也の家の玄関でひっそりと息を引き取った。

 最期の方には、動くどころか目や鼻も十分に効いていないような状態であったらしい。

 いよいよいけないという兆候が出てきてから数日、軍司はつきっきりでシロに寄り添っている。

 探索者としての活動はもともと軍司が好きでやっていたものだし、中断をすることに躊躇は感じなかった。

 最期くらいはきっちりと見届けてやるのが飼い主としての勤めだ、とも、思った。

 そのシロの最期の数日、軍司は、

「そのときが来れば、わしもこうなるんかいの」

 などと思いつつ、過ごすことになる。

 手足が、体がよう効かんようになり、目もよく見えんようになり。

 そうしながらいつか、ふっつりとなにも考えられんようになる。

 いずれ来るはずのその日、そのときは、すでに老境にはいっている軍司にしてみれば決して他人事ではない。


 そうして看取ったあとも、シロの姿は軍司の脳裏でそれなりの存在感を持ち続けていた。

 たとえば先日の自損事故の際も、軍司は、

「なにか白い動物が、不意に道路を、車の前を横切って」

 それでハンドルを急に切った、と証言している。

 そのときは、確かにそんなものを見たと、軍司自身も思い込んでいたのだが。


 今にして、軍司はこう思いはじめている。

 さて、あれは、本当に存在していたのかどうか。

 あの近辺は、郊外とはいえ立派な住宅街だった。

 野良の犬だか猫だかは、いるにしてもさして多くもないだろう。

 実際、その道は〈印旛沼迷宮〉に行き来をする際、軍司は何度となく通りかかっていたわけだが、そのときにはそれらしい動物をただの一度も見かけたおぼえがない。

 あれは、シロがお迎えにでも来たのではなかったか。


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