第二十章 羅浮の夢
羅浮山の麓に
隋のころ、
梅の季節だが、たまたま一日中寒い日で、景色を楽しむにはふさわしくない。無聊を慰めるためと称して牛車のなかで、昼間から酒を飲んでいた。ピッチが早い。日が暮れるころにはすっかり酔いがまわっていた。
ゆっくりと闇が押し寄せ、いずことも知れぬ松林のなかで、酔眼が
いつの間に近づいたか、かたわらに薄化粧でこざっぱりした、清楚な身なりの美女が立っていた。師雄を出迎え、奥へ
松林の細い道を、師雄は美女とふたり寄り添って歩いた。芳しい香りが美女のからだからかすかに匂う。みちみち会話する。美女の語ることばは清らげで、内容も麗しい。
いちばん奥が酒家(レストラン)になっている。ふたりは門を叩く。
部屋に入り、席に着く。やがて酒肴が用意される。
盃になみなみと酒をつぎ、飲み交わす。緑衣の童が席に加わり、座を盛り上げる。戯れて舞い、歌って笑いころげる。愉快愉快と、からだ中をゆすって師雄は面白がる。
やがて師雄は、酔いつぶれて寝入ってしまう。
はっとして目覚めると、夜風がからだをいたぶって寒く感じる。さてどうしたものかと、ふたたびみたびうとうとする間に、東の空はうっすらと白みはじめる。
起きてみれば、清楚な美女も童もいない。
梅の花咲く大樹林の下にいる。樹上には
しだいに月が沈み、オリオンの三ツ星が横にならんで、朝の訪れを待ちわびるころ、ようやく師雄は
一夜、羅浮の仙境に遊び、梅花の下で清楚な美女と酒を酌み交わした。
夢だったのか、うつつだったのか。はたして羅浮の美女は梅の精だったのか。
王くんが、華子の所在を突き止めてくれた。
「時代は隋朝、場所は羅浮山麓の梅花村。趙師雄という武人のもとにいます」
わたしは必死に念じた。
あとさきのことは考えなかった。華子を幽冥界から引き離すことだけを考えた。
いやしくも父親の念力をもって、無事の到着を信じるのみだ。時空を超えて飛翔したわたしは、所定の地点に降り立った。
大きな梅の木の下に、ひとりのおとこがぼんやり立っていた。
「趙師雄どのか」
自然にその時代のことばが、口をついて出ていた。
「いかにも」
師雄の目に力がなかった。夢かうつつか、いまだに答えを見出せずにいるらしい。
「おぬし、羅浮の美女に出逢うたであろう。頼む、どこへ行ったか知りたい。教えてくれ」
「逢うには逢ったが、どこへ行ったかまでは知らぬ。美女には違いないが、人ではない。おそらく梅の精であろう。行き先は、梅の花に問うがよい」
師雄は投げやりに答えた。
わたしはカッとした。
「わたしはおぬしに頼んでいる。そのようないい方は無礼であろう」
「だったら、どうする。わしは知らぬで、知らんといっておるまで」
わたしは師雄が武人であることを忘れ、つい高飛車な態度に出てしまった。むすめを思うあまり、焦りがおもてにあらわれた。
「問答無用!」
キレタのは師雄も同じで、剣をとって鞘から抜き放った。
わたしは武器を帯びていなかった。
ーー落ち着け!
わたしは自らを叱咤した。
道のかたわらに一本の棒が落ちていた。腰を落として、ゆっくりと棒をひろった。師雄は怪訝な顔をしている。わたしは師雄から目を離さずに、棒をしごいてみた。まっすぐな棒で、握った太さも申し分ない。長さはやや足らなかったが、竹刀ほどの長さはある。
何年、いや何十年ぶりになるか。ましてや相手は真剣だ。棒を手にして、わたしは勝敗を度外視していた。無心の境地になっていた。
「よろしいか」
師雄は剣を振りかぶった。大きく見せるための
「おう」
わたしは棒を正眼に構え、対峙したまま、棒の下端をつかんだ左手を棒ごと、ツツツと後ろに引いた。右手の握りは動かさない。握りのなかで棒の本体だけが後ろに向かって動いている。師雄の目には、棒の先端の円しか見えない。
棒の本体はすっぽりと、先端を握った右手の親指と人差し指とで結ばれた円のなかに隠れてしまっている。棒の後端が消え、距離感がなくなった。
「笑止!」
師雄はかまわず大上段から、真っ向みじんに切り下ろした。
わたしは
体が左右入れかわり、棒を持つ左右の手は、上下が逆になっている。
「神道夢想流杖術
基本は、相手がまっすぐ切り込んできた太刀の背をたたき、太刀を落すことにある。
わたしはそれをさらに踏み込んで、師雄が手にした太刀の背をたたくかわりに、頭を打ったのだ。寸止めのていどをやや緩くしただけだから、頭を割るほどではない。
打たれた師雄は呆然としている。
まわりに人垣ができた。麓の村とはいえ、集まれば人は多い。
そのなかに
「華子か」
わたしからさきに声をかけた。
「まさか、もしかして、お父さん?」
華子もまた、感じるものがあったのだろう。人波をかき分けて近づいてきた。
あらためていう。いやしくもわたしは父親だ。
逢ったことがなくても、父子の情愛は通じる。二十数年間、わたしの想念のなかだけで
華子は大きな声を出して、わたしにむしゃぶりついてきた。
「お父さん!」
「華子!」
これでいい。もう思い残すことはない。父と呼ばれ、華子とむすめの名を呼ぶ。
――いつ死んでも悔いはない。ありがとう華子。
心底、わたしはそう思った。
「だめっ、それじゃだめ。もっと、いろんなことをしてからでなくちゃ、いや」
華子は承知しなかった。父親に逢ったら、ああもしたい、こうもいってみたい。いろんな想いがあったのだという。
それはわたしも同じだ。もし生きておれば、してやりたいことは山ほどあった。
してもらいたいことは、――ひとつだけ選ぶとすれば、なんだろう。
「いっしょに酒が飲みたい」
思わず口に出してしまった。いったあとで、あっと思いだした。
わたしのにわか尸解仙は、禁酒が条件だった。
「いいよ、いっしょに飲んであげる」
華子は笑顔で応じてくれた。
久しぶりの酒の味は、まだ行ったことのない極楽にいる気分を満喫させてくれた。
酒は『
わたしは、「
世のなかにこんな美味いものがあったのか。つくづく羅浮のありがたさを思った。
ひと
禁を犯したわたしは、ふたたびふつうの人に戻された。
その年の春節(旧正月)は、寒い日つづきで、山歩きは休みがちだった。ことに朝晩は冷え込みがきつい。春節のころ、南方といえど、毎年きまって十日間ほど気温が零度近くまで下がる。寒さに慣れていない南方人は、その分だけよけいに寒く感じる。
羽毛のアノラックが大流行した。たった十日間のために、からだが丸まるくらいにふかふかした羽毛のアノラックを、みなが買い込むのだ。ひとりやふたりではない。ほとんどといっていいほどの高普及率だ。
いぜんは、男性なら人民解放軍の分厚く青い軍服だった。女性なら毛皮のコートだったのを覚えている。梁小姐にせがまれて、プレゼントしたことがある。
真冬に雪のなか、素足に下駄を突っかけて、銭湯通いをした経験のある北海道育ちのわたしにして、いまとなっては全面降伏だ。北海道ですら着用したことのない羽毛のアノラックをむりやり着せられる破目になった。
「かぜを引いたらこまるでしょ。すこしは歳を考えなさい」
胸にグサッと突き刺さる、痛切なひとことだ。
こころなしか最近、梁小姐のものいいがきつくなっているように感じる。
秋口には、
「
見た目だけからいっているのではない。からだを気遣っていってくれていることは、わたしにもよくわかる。
――
現実の世界でもこのひとことが聞きたい。
そして、梁小姐と小麗に、「おめでとう」と祝福のことばを返してやりたい。
はるかなる羅浮山のさまざまな過去を思い出しながら、夜明けの時間帯から昼間の山歩きに変更したわたしは、ふたたび出張った腹をさすりさすり、長寿の幸せを運ぶ夢のダイエットに挑戦しつづけている。
(了)
目 次
一、羅浮山
二、仙人修行
三、仙人ランキング
四、安期生と李少君
五、尸解仙
六、金丹派
七、霊符
八、漢方ビジネス
九、抱朴子
十、仙薬昔ばなし
十一、葛洪
十二、冲虚古観
十三、瞑想工房
十四、回憶丸
十五、恵州事件
十六、売薬さん
十七、梁小姐
十八、葛洪ふたたび
十九、生き地獄
二十、羅浮の夢
参考文献
葛洪「抱朴子」石島快隆 訳注(岩波書店・岩波文庫、一九四二)
劉向・葛洪「列仙伝・神仙伝」澤田瑞穂訳
(平凡社・平凡社ライブラリー、一九九三)
胡守為「嶺南古史」(中国・広東人民出版社、一九九九)
盧央「葛洪評伝」(中国・南京大学出版社、二〇〇六)
頼保栄・張尚仁・劉細雅・張寧 編著「羅浮弘道」
(中国・花城出版社、二〇〇七)
王麗英「道教南伝與嶺南文化」
(中国・華中師範大学出版社、二〇〇九)
頼保栄 編著「羅浮道教史略」(中国・花城出版社、二〇一〇)
黄暁峰「中国神仙排行榜」(中国・上海出版社、二〇〇四)
坂出祥伸「道教とはなにか」(中央公論新社・中公叢書、二〇〇五)
増田秀光 編集「道教の本」第四号(学習研究社、一九九二)
宮崎滔天「三十三年の夢」(平凡社・東洋文庫、一九六七)
知切光歳「仙人の世界」(国書刊行会、二〇〇八)
神戸中医学研究会編「常用漢方ハンドブック」(医歯薬出版、一九八七)
上石組夫「香港健康広場」http://www.geocities.jp/ageishi2/k/i.html
以上
羅浮山はるかに ははそ しげき @pyhosa
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