ぼくは君に会いたい

黒松きりん

ぼくは君に会いたい

 地下鉄が音を立ててホームに滑り込む。他の客と同じように、ぼくは電車から降りて改札へ向かった。12月にもなれば東京といえども寒さを感じる。人混みの熱気がこもった電車内と閑散としたホームの気温差が激しい。一度立ち止まり、カバンにしまっていたマフラーを取り出して首に巻き付けた。

 改札を抜けたところで携帯電話を開く。初めて自宅から取引先へ直行することに気負いすぎたのか、早く着きすぎてしまった。途方に暮れて「あぁ」と声が漏れ、首がうなだれる。ため息をついて視線を上げると、コーヒーチェーン店の看板が目に入った。出費は控えたいが40分も立ち尽くしているわけには行かない。それに、寒さで風邪を引いて妻の亜希子へうつしてしまっては一大事だ。

 コーヒーチェーン店へ入り、カウンターで一番安いブレンドコーヒーのSサイズを頼んだ。すぐに提供されたコーヒカップからは湯気が立ち上っている。トレイを持ちながら店内を進むと、午前9時台だというのに店内は混み合っていた。ぼくと同じようなスーツ姿の男性、あたたかそうなセーターを着た初老の男性、大学生のようなヒラヒラの服を着た女の子、キャリアウーマンのようなスーツを着込んだ中年の女性など、いろんな人がいた。幸い、広い空間の中心に置かれた円卓の席が一つ空いている。荷物が乗っていたが、「失礼」と声をかけると大学生のようにみえる女の子が「すみません」と言いながら鞄を移動させてくれた。ぼくは礼を言って椅子に腰掛ける。すぐにイヤホンを取り出して、耳に流す音楽を選ぶ。こういう場所では多方向から会話が聞こえてくるのが当たり前だが、ぼくにとってはストレスになる。周りに罪はない。ぼくが自衛手段を取れば良いだけの話だ。

 取引先へ向かうのだから、出来るだけ明るく気分が良くなるものをと音楽プレーヤーを操作していると、まだ完全に塞がれていない耳へ女の子の声が入ってきた。


「あたし、何か間違ってるかな」


女の子は戸惑っているようだった。大学生のようにみえるから、就職活動の悩みか何かだろうか。ぼくも苦労が多かったから思わず女の子に同情してしまった。すると、女の子の隣に座っているスーツを着ている中年の女性が「間違っては無いと思うんだけど、少し考えすぎじゃないかしら」と応じた。そうだ、真面目な子ほど就職活動では考えすぎてしまうものだ、よく言ってくれたオバサンと心の中で声援を送る。この会話を聞いているあいだにもぼくの指は動いており、取引先への訪問前にはおあつらえ向きな曲を探し当てていた。女の子の悩みはきっと解消されるだろう、ぼくの余計なお節介も必要ない、安心して曲を流そうとしたそのときだった。


「だって、あたし自身が『生きてて良かったー』と思ってもいないのに、子どもを産もうなんて無責任だと思わない?」


度肝を抜かれた。思わず音楽プレーヤーを落としそうになった。女の子は結婚していそうに見えないが、本当に自分自身の話だろうか。それとも仮定の話だろうか。

 話の続きが気になってしまったぼくは、携帯電話を取り出して操作するフリをしながら、イヤホン越しに女の子と中年女性の会話を聞いた。

 中年女性は落ち着いた口調で、女の子を諭すように発言した。


「それを無責任と言うのかしら」


「なんで」


「あんたは現時点で人生の全部を知っているわけじゃないでしょう。もっと歳を取ってから『生きてて良かった』と思うかも知れないじゃない。将来に可能性があるのに、今の状態だけで無責任と断じるのは思慮が浅いと思うんだけど」


「漢字が多いよ。もっと簡単な言葉で言って」


「難しく考えてるのはそっちじゃないの。いい? あんたはまだ若いんだから……」


中年女性が懇々と、将来への希望や子どもが生まれること自体への喜びを説いたが、女の子は「だって、そんな未来のことなんて分かんないじゃん」とやけっぱちな返事を繰り返すだけだった。しまいには中年女性の方が「じゃあ、あんたは何で結婚したのよ」と呆れ返ってしまった。


「別に子どもが欲しくて結婚したわけじゃないもん。結婚したら子ども産もうとするのが自然じゃん、みたいな態度が気に食わないの。なんでみんな、そんなにホイホイ妊娠するの? 他の誰かにオススメできるほど生きてることが楽しいわけ? 『なんで生まれてきちゃったんだろう』って後悔したことないの? あたしだけなの?」


女の子の声に、まるでぼくが責められているように感じた。それに「他の誰かにオススメできるほど生きてることが楽しいわけ?」というのは痛恨の一撃だった。ぼくの人生なんて、他人にオススメできるような立派なものじゃない。どちらかというと、楽しいことより辛いことのほうが多い人生だったように思う。死にたいと思ったことだって一度や二度じゃない。それでも生きているのは、自殺を実行する根性すら出ずに有耶無耶になって生き延びただけだ。

 妻の亜希子はどうだったのだろうか。亜希子と結婚できたことが嬉しすぎて、亜希子の子どもだったらきっとかわいいだろうと思いこんで、ぼくは結婚一年目から避妊しないできた。2年目の今年の夏、亜希子から「妊娠検査薬が陽性だった」とメールが来たときは職場でガッツポーズをしてしまった。それくらいぼくは、亜希子の妊娠を手放しで歓迎した。

 ぼくには、生まれてくる子どもをきっと幸せにするんだという決意はあった。

 でも、ぼくには、生きることを他人に薦められる勇気なんてなかった。


 気がつけば、訪問予定の時間まで残り8分ほどになっていた。ぼくは慌てて席を立つ。女の子と中年女性はまだまだ話し込んでいた。


   *   


 仕事を終えて家に帰ると亜希子が玄関で出迎えてくれた。「おかえり」と笑顔で招いてくれる。亜希子のお腹が大きくなってきてからは、亜希子に向かって「ただいま」と言い、次に亜希子のお腹を触って「ただいま」というのが習慣になっていた。今日もそうするつもりだったのに、お腹を触りながら口についた言葉は「ごめん」だった。


「どうしたのよ、急に」


「いやぁ、日中に変な会話を聞いちゃって」


「どんな?」


スーツから部屋着に着替えながら、ぼくは亜希子にコーヒーチェーン店での一部始終を説明した。ぼくの気持ちの揺れについても包み隠さず言った。亜希子はフムフムと聞いてくれていたが、ぼくが話し終えたところで「それで落ち込んだのー?」と笑い出してしまった。


「ぼくは真剣に落ち込んでるんだよ」


「それは分かるけど。でもねぇ」


「でも、なに?」


「わたしは、もし子どもが『生まれてきたくなかった』と言い出したら、『お母さんもそう思ったことがある』と素直に言うよ。それで『じゃあ何で産んだの』と責められたりでもしたら『生きてて良かったと思うこともあったから。生まれてこないことには体験できないでしょ?』と返事するわ」


「それはそうなんだけど」


「100パーセント幸せだけが詰まっている人生なんて存在しないわ。誰にだって、その人にしか分からない悲しみや辛さがあるはずなのよ。だけどみんな生きてるじゃない? きっと、その人にしか分からない楽しみや喜びがあるのよ。生まれてくる子が何を楽しむのか、喜ぶのか、わたしたちには分からない。でもわたしたちが産み出さないと、全く無のままになってしまうの。もったいないじゃない。少なくとも、わたしたちは生まれてくる子に会いたいんだから」


「でも、でも、本当に辛い思いをするかもしれないんだよ」


「そういうときに、味方になって支えるのが『親になった責任の取り方』でしょ。生まれてくる子を親が幸せにするというのは違うわ。生まれてくる子が幸せになるように、命ある限り支えていくのが親なのよ」


「違いがよく分からないんだけど」


「もう、仕方ないんだから。いいわ、わたしは分かってるから。ともかく、赤ちゃんに会いたくないの?」


「会いたい」


「じゃあ、つべこべ言わない!」


 釈然としないぼくをよそに、亜希子はお腹を擦りながら「大丈夫だよー。お母さんは分かっているからねー」と呟いている。その様子は微笑ましい。無事に生まれてきてほしい。でも、ぼくは生きていることを肯定できる父親になれるか自信がない。


ただ、少なくとも、いま生きているのだから。ぼくは君に会いたいと思う。





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