紀ノ川の鮎

@hfgayu

第1話

 高知の片田舎で育った私は高校を出ると和歌山のとある建設会社に就職した。そこに会社のベテラン自動車運転手として加藤さんはいた。

 夏のある日、加藤さんの主催で職場レクを開いた。

 場所は紀ノ川の中流部にある船戸橋の下で、職場の若い者が準備で動員された。一番下っ端の私は朝早くから現地に行って日よけづくりのビニールシートを張らされた。

 この日の料理は加藤さんが紀ノ川であらかじめ獲った鮎とズガニだった。何十匹もの大きな鮎に竹串を刺す。最初は手が滑ってうまくいかなかったが、加藤さんにコツを教えてもらって要領を得た。竹串に刺された鮎は炭火の周りに円陣を組むように並べられ、大きな竹かごですっぽりと覆われた。きつね色になったらできあがりだ。

 ズガニの方は手こずった。こちらは大きな竹かごの中に数十匹が生きたまま入っている。大人の手の平もあるとげとげしいズガニがわんさか這い上がってくる。それをつかんでは熱湯に入れるのだが、またすぐに這い上がってきて往生した。観念したズガニを棒で抑えつけて熱湯に沈めると、土色のズガニが鮮やかな赤色に変色する。調味料は鮎もズガニも塩だけだった。

 できあがった鮎とズガニが川岸に集まった職場の家族連れらに振る舞われた。

 うまい! ボクは夢中で舌鼓を打った。晴天の下で冷え切ったビールが喉を鳴らす。加藤さんは目を細めて冷酒をあおっていた。

 少し酔った加藤さんはやおら立ち上がると、「お前弟子や。手伝え」と私を指名してタテ網の片方を持たせた。「今からこの前で鮎を捕りますので」と加藤さんがみんなに言うと歓声が上がった。ボクは加藤さんに言われるがままに紀ノ川に入っていった。指示どおりボクは中州まで渡るとタテ網を持ったまま上流に石を投げ続けた。すぐに肩がつらくなったが、みんなが声援をとばすのでやめられない。やっと網の引き上げとなって岸に戻ると、まるまるとした鮎が何匹も掛かっていた。

 その一匹を取り外した加藤さんは、人差し指で鮎の腹を割って内臓を取り出し、梅干しをつぶした梅肉を鮎の腹に詰め込んだ。

「これが紀ノ川の通の食べ方やして。そのままかじれっ」と加藤さんが言う。

 私が躊躇するとみんなから拍手と歓声が飛ぶ。私は仕方なく鮎にかぶりついた。正直まずくてどうしようかと顔をしかめたが、ますますみんなが喜ぶので我慢して最後まで食べた。

「ん、お前は若いけど素質がある」

 と上機嫌の加藤さんはまた冷酒を美味しそうにあおった。

 思い返してみれば、それから二十五年あまりもの歳月が流れていた。

 和歌山を転勤で離れていた私は事情があって再び和歌山に戻ってきた。

 私はすぐに加藤さんの家を訪ねた。久しぶりに見る加藤さんはさすがに年老いていたが、グリッと開いた目は昔のままだった。

 その夏、私は加藤さんに釣った鮎を持って行った。

「おまはんが鮎釣り師になるとはのぉ」と加藤さんが口元を緩める。

「昔紀ノ川で加藤さんに鮎を食べさせてもらってから興味がわきました」と私は返した。

「今晩うちに泊まっていけ。おまはんにちょっと話したいことがあるんや」と加藤さんが手を引く。その時の表情が少し暗かったのが気になったが、私は遠慮してまた来るからと断った。

「じゃあちょっと待っとけ」

 と家の裏に消えて行った加藤さんは、鮎釣りベストを下げて戻ってきた。

「これ買ったんやけど足が悪うなって鮎釣りでけんようになったから、おまはんにやる。今度これ着て船戸橋の下で釣れ」と言われた。

「よっしゃ、加藤さんの代わりにバンバン釣らせてもらいます」と言うと加藤さんは顔をくしゃくしゃにして喜んだ。なのに、私は釣りクラブの活動拠点である有田川の方に通い詰めて、紀ノ川にはつい行きそびれてしまった。

 翌年のある晩秋、久しぶりに加藤さんに鮎を持って行ったら寝たきりになっていた。

 そばに寄ると目を向けて何か言うが、何を言っているのか分からない。加藤さんは直ぐにまた寝たような感じになった。意識が戻ってあんたのことわかったみたいやして、と奥さんが声を詰まらせる。加藤さんは私に何を話したかったのだろう。

 その半月後、加藤さんは帰らぬ人となった

 鮎ももう掛からなくなった肌寒い11月、加藤さんからもらった鮎ベストを着て船戸橋の下で竿を出す釣りバカを、橋上から何人かが笑いながら眺めていた。

 約束は守るから約束で、守れなければ約束とはいえない。

 私はせめて一匹でもと鮎竿を繰った。

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