日本陸軍火工廠多摩火薬製造所

駅員3

日本にある日本ではない場所

 日本陸軍火工廠多摩火薬製造所は、1938年(昭和13年)に、当時の東京府南多摩郡稲城村大丸に建設された。工場の規模は、工廠が開設された翌年の1939年(昭和14年)には、939,000㎡(284,039坪)の広さがあったという。東京ディズニーランドの広さは、おおよそ30,000㎡といわれており、実にその31倍の広さということになる。

 その後施設と工場は順次拡大され、1945年(昭和20年)の終戦時における敷地面積は、1,730,572㎡(523,464坪)、従業員数2,085人にまでなったという。

 工場内には、病院(現稲城市立病院)や、青年学校(戦前設けられた教育機関で、勤労に従事する青少年の教育機関として設けられたもの。)などが、設けられた。


 太平洋戦争が終結すると、1945年(昭和20年)9月にアメリカ軍が進出してきて、駐留を開始した。1946年(昭和21年)11月には、アメリカ軍施設として接収され、アメリカ空軍の多摩弾薬庫として使用された。その後1960年代になると、弾薬庫としての役割が縮小し、現在では、アメリカ空軍横田基地の付属施設として乗馬、ゴルフ、キャンプ、アーチェリー、ペイントボール、テニスの他、ゲストハウスなどの施設があり、アメリカ軍関係者の憩いの場となっている。

 戦前の火工廠は、第一工場から第三工場まであった。第一工場と第二工場は現在でもその一部遺構が残るが、第三工場は1969年に米軍ゴルフ場を造成するために取り壊された。


 弾薬庫は、明治期に作られた横須賀沖の猿島や、紀淡水道の友が島などのものとは大きく形式を異にする。猿島や友が島の弾薬庫は煉瓦造で、脇と奥に側室が設けられている。ここは、鉄筋コンクリートで施工されており、側室はないが、山腹を掘り込んで造られている点は、猿島や友が島の弾薬庫と共通している。

 弾薬庫は扉の数で数種類に分類させれるが、2か所に扉のある形式の弾薬庫は、厚さ30cmのコンクリート製の壁とアーチ型の天井でつくられている。窓と扉は、重いゲージ鋼から造られていた。真っ赤に錆びた扉の上には、30cm程度の丸窓が開いていて、外側にはスリットのついた缶の蓋のようなものが被さり、内側には数ミリの鋼線が格子状に組まれて白い碍子の電球のソケットだけが残っている。

 3か所に扉のあるものは、500kg爆弾を格納するために作られた。


 第一工場と第二工場をつなぐ道には、途中の尾根を越えるためにトンネルが穿たれている。胸壁部分は小口が20cm×30cmくらいの方形の石積みで、坑道部分はコンクリートで造られている。日中戦争が激しさを増す中造られた施設としては、高水準の技術で作られており、このトンネルも70年を経た現在でも、構造的に問題ない状態を保っている。


 トンネル西側には、石造りの階段があり、そこを上ると、かつて第二工場の事務所とトイレがあった場所で、かろうじて屋根と柱がつぶれずに残っているが、床はすべて落ちていて、壁も朽ち果てている。第二工場は1940年(昭和15年)に完成し、中型から大型の爆弾が製造されていた。

 川崎街道に沿うように第三工場方面に伸びる道は、左手山川がコンクリート製の擁壁となっており、精巧な排水システムとともに作られ、今でもしっかり機能していて、がけ崩れと、風雨による侵食から山腹と道を守っている。

 実は建設途上の1938年(昭和13年)夏に、台風の直撃を受けて、激しい暴風雨により山が崩れるなど、甚大な損害を出してた。その経験から、このコンクリートの擁壁は、かなりの時間と労力を割いて、対策を施されたようだ。


 だらだら続く上り坂を上っていくと、途中には、かつて稲荷神社があった。1940年(昭和15年)10月14日に、静岡県浜松市にある秋葉大権現からご神体をいただき、ここに稲荷を造って安置された。終戦まで、毎年その稲荷の前で奉納相撲が行なわれたという。残念ながら、稲荷の跡を示すものは鳥居も含め何も残っていない。お稲荷様は何処に遷座されたのだろう・・・


 あちこちに廃屋が存在するが、一部戦前から存在して、現在でも使われている建物もある。前述の坂をさらに上っていくと、左に分岐する道があり、そこを上ると、木造平屋建ての建物が数棟現れる。

 手前には当時は事務所として使われ、現在は倉庫になっている建物があり、その隣には、

現在トイレとシャワールームとなっているが、当時は公衆浴場だったそうだ。屋根には小さな小屋状の換気口が設けられている。

 さらに上ると食堂が残っているが、現在でも米国式の最新調理設備の整った厨房と食堂があり、その名もBPハウス(BPとは、ボーイスカウトの創始者のイニシャル)と呼ばれている。


 工場が稼動していた当時の熱源は高圧蒸気で、いまでもあちこちに、その配管が残っている。その高圧蒸気を生み出したボイラーは、煙突ともども最近まで残っていたが、保存運動もむなしく稲城市立病院が建替えられるときに、取り壊されてしまった。川崎街道からもよく見えて、『稲城弾薬庫のお化け煙突』とよばれて市民には親しまれていた。


 実は、外部から見えないところに、生き残った『お化け煙突』が1本ある。第一工場付近にあったボイラーで高音、高圧の水蒸気を作って、各工場へ送っていた。その煙突の手前には、ランカシャーボイラーが2基並列されている。鋼製の直径2m程度の円筒が、煉瓦で覆われており、その煉瓦はだいぶ崩れている。その背後には煙突があって、ボイラーは地下の煙道で結ばれている。


 施設内は非常によく自然が残されていて、山に分け入ると、自然薯の蔓を見つけた。それをたどるとさぞかしいい山芋が採れる事だろう。

 この広大な施設が日本に返還される話もあるという。返還された場合には、ここまで残された素晴らしい自然を無駄に開発せずに、うまく生かしていただきたいものである。

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日本陸軍火工廠多摩火薬製造所 駅員3 @kotarobs

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