市川大橋
まさりん
市川大橋
江戸川にかかる市川大橋の辺りは区画整理のための工事が行われていた。工事現場は歩道に掛り、江戸川べりのサイクリング・ロードや市川方面から来る人々を迂回路へ誘導しなければならない。小田はそれを仕事にしていた。
「小田ちゃん、終わりにしようべ」
小田はパートナーと一緒に次のシフトの人間と入れ替わる。今日のシフトは昼間で夕方の五時に終わった。逆に夜間のシフトもある。どこの工事現場も慢性的な人手不足で、シフトは安定しなかった。小田は女だてらに、不安定なシフトを言われるがままにこなした。お金が欲しかったからだ。
シフトが終わると、決まって小田は江戸川の土手の草地に腰を下ろし休憩をした。正面には市川駅近くの高層マンションが見える。左手には国府台と呼ばれる台地が江戸川にせり出すようにある。国府台の上には女子大の校舎が見える。
夕方の江戸川はスポーツをする人々であふれる。土手の上には、そんな人々が行き交う。自転車を漕ぐ音、ジョギングをする人の荒い呼吸、ウォーキングをする人々のおしゃべりする声、小田の頭の上を音が通り過ぎていく。眼下には江戸川が流れるが、川の流れは河原の半分程度で、もう半分はグラウンドが広がっている。
決まってこの時間にはグラウンドで少年が素振りをしていた。グラウンドは休日に、地元の少年野球チームが練習に使っていた。
少年は一回一回、フォームを確かめるように丁寧に素振りをしていた。少年の年齢は小田の息子と同じくらいで、小学校三、四年くらいだろう。小田が一服するのは江戸川の眺望を見るのと同時に、彼を見るのが目的でもある。
百回以上、そんな素振りを続けて、その後にグラウンドを黙々とダッシュし始める。小田がこの現場にやってきて数ヶ月になるが、少年は毎日練習をしていた。小田は息子と同じ世代の少年が努力している姿を確認するように見学して、仕事を終わりにする。
十一月のある土曜日、夕方のシフトを終えていつものように土手に腰を下ろした。今年は急に寒くなった。土手を行き交う人々の服装もすっかり厚着になった。
小田は近くの自販機でホットのお茶を買ってきた。暖かく厚手のペットボトルを両手で持って、枯れかかった草地に腰を下ろす。広い江戸川の眺望をゆっくりと見て、グラウンドに視線を下ろすと、今日はいつもの少年がキャッチボールをしていた。相手はお父さんらしき、男の人だった。とてもやせっぽちなお父さんだった。小田は膝を抱えて、その光景を見ていた。たまにお茶を少しだけすする。中身がなくなると冷たくなるから、少しずつすすった。
少年の身体がほぐれたあと、お父さんがノックをし始めた。それを少年がキャッチする。だが、お父さんはお世辞にも打つのがうまくない。よく空振りするから、小田にもそれがわかった。空振りするたびに、ゴメーン、という父親の声が広い河原に響き渡った。少年はグローブをはめた手を腰に当てて、あきれているようだった。
ただ二人の光景は、母子家庭で息子を育てる小田にはうらやましかった。見ていてほほえましかった。いつまでも下手くそな練習をみていたかった。
日曜日にはチームの練習があった。白地のユニフォームに赤い帽子を被った少年たちが元気な声を出して練習をしていた。朝練習することが多いので、小田はいつも見られる訳ではなかったが、深夜シフトのおわりにあたれば、練習をみることができた。
例の少年は、素人の小田から見ても下手だった。順番にノックを受けるときも、後逸することがしばしばあった。そのたびに小田は「あー」と声を上げて悔しがった。少年の扱いはレギュラーではないだろう。他の選手は動きが俊敏だった。少年は運動自体が苦手そうだった。父親の血だろうと小田は思った。
別の日曜日、夕方に仕事を終え、小田はいつものように土手に腰を下ろした。江戸川の景色は夕映えに染まっていた。グラウンドでは試合があったらしく、二つのチームがホームベースを挟んで並んでいた。
「ありがとうございました」
と少年たちは帽子を取り、お辞儀をしていた。小田は自然と例の少年を探した。もしかすると試合に出なかったのかもしれないと思った。しかし、並んでいる少年のユニフォームは泥にまみれていた。
少年はしきりに目元をユニフォームの袖で拭っていた。お辞儀をすると、グラウンドの外で見学している父母から拍手が起こった。小田はあのお父さんを父母のなかに見つけた。お父さんは腰を曲げて、ずっとタオルを顔に当てていた。少年に見られまいとしているようだった。お父さんの方が少年より泣いているようだった。小田はこの親子は父子家庭かもしれないと思った。お父さんの近くにお母さんらしき人がいなかったから。
小田は息子に会いたくなった。いやがるだろうけど、きつく抱きしめたくなった。
近くの鉄橋の上を電車が通り、あたりを轟音が包んだ。
市川大橋 まさりん @masarin
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